天涯のバラ
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「どういう意味で言ったんだ?」
「そのままの意味です。本当にそう思ったから…。でも…」
記者はすぐに言い過ぎに気づいた彼女に、これは記事にはしないと約束したという。それで、気にはなったが忘れていたのだ、と。
「ごめんなさい、会社の名前とかいっぱい出ちゃって…」
「それはいい。そのままの意味って、どういうことだ? これでは、黒沼さんの『紅天女』が、今回のものより劣ると言うのと同じだぞ」
「わたしの中ではそうです。黒沼先生の演出ではなく、わたしの阿古夜が、という意味だけど…」
彼女は、黒沼が自分を最大気に活かす演出をしてくれた、と言った。「黒沼先生が、わたしを『紅天女』の後継者にしてくれたんです」
ある芸術評論家は、彼女の『紅天女』を「近代演劇の精華」と評した。彼女の阿古夜を軸に、黒沼組の作る舞台は生き生きとそこに存在する、小さな宇宙だ。その異世界に人々は魅入られた。
彼女の才能は言うまでもないが、それを他の出演者と絡ませ上手く御し操った、演出家の技量も計り知れない。『紅天女』以降、彼女とのコンビは「稀有なタッグ」と賞され、選り好みは激しいまま、黒沼はヒットメーカーとして一般にまで名を売った。
「でも、今の演出家の先生が試演を担当してくれていたら、とは思うんです。この先生には決まった阿古夜があって、わたしはそれをなぞるだけでいいから」
「そんな程度では、亜弓君に勝てなかっただろう」
「そうですね、あの亜弓さんには敵いません。でも、あんなにがむしゃらに目指して勝ったことに、わたし個人として、何の意味があったのかな、って今は思います」
彼女はちょっと彼を見、水城を見た。「ごめんなさい、言いたくはないんです」と前置きし、亜弓は、『紅天女』を免れたからこそ、囚われず自由な活動ができる。それで彼女の魅力や女優の才が損なわれたことなどない。そんな意味を述べた。
彼女の言うように、亜弓は『紅天女』の試演後に活躍の幅を広げている。演技者であることへの頑ななこだわりも措き、恋人の被写体となることも多く、小さなロードムービーを自ら監督したりと、女優以外への興味の広がりを見せていた。
亜弓の阿古夜が彼女のそれより劣った、という評価ではなかった。それぞれは別種もので、より観客は彼女の阿古夜を好んだという結果に過ぎない。当の亜弓が、一番それをよく理解したはずだった。
「わかってます。亜弓さんとわたしは違うって。『紅天女』を獲れなかったら、わたしの場合、次はなかったし、向こうでの映画とかも、きっと手が届かなかった…」
でも、と彼女はつなぐ。「今ほど名前が大きくならなくても、よかったのかもしれないって…。大きな賞はもらえなくても、普通の女優で充分だったのかも…。ちょっとだけ、そんなことを考えたりもして…」
彼は絶句した。水城も同じようだ。しかし、リカバリーが速いのは、彼女の『紅天女』に、彼ほどのこだわりがないためだろう。
「マヤちゃん、『紅天女』を降りたいの?」
彼に先駆けて、そう訊いた。
彼女はすぐに首を振る。「違う、そうじゃないんです。『紅天女』は、もうわたしの一部みたいなものだし、今に何の不満もありません」
ただ、と彼女はもらす。
「あんまりにも必死だった、あの頃を忘れたくて。無理に振り返らされると、そんなに夢中にらなくてもいいよって、そのときの自分に言ってあげたくなるんです。他にも道は無限にあるのに、どうしてそこしか見えなかったのかって…」
目が合った彼を避けるように、彼女は目を伏せた。
以前から、彼女が『紅天女』に対し、特別な感情を持っていたのを彼は知っていた。それは主に負の要素が強かったのを思い起こす。試演には、「自分と引き換えに」に臨んだと告げていたのだ。
身も心も擦り減らすようなそれは、時を置いても、彼女の中で深い傷のようにあるのかもしれない。暖かい思いなど持てるはずもない。つい、言葉が感情で走ることもあるだろう。
「申し訳ないと思います。でも二人は真剣に聞いてくれるから…」
真意を告げたのだと言う。
どれほどかののち、
「ごめんなさい、愚痴で会社に迷惑をかけちゃって。…速水さん、どうしたらいいですか?」
いつもの彼女の声がした。
事を収める方は幾らかある。しかし、一旦上がってしまうものは、どうしようもない。
それは我慢しろと、彼は言った。
彼女の迂闊な言質を取ってから、その導入に、先のわがままが過ぎた行為を捏造し、一連の記事を作ったのだろう。それで、まるきり実像とかけ離れた、鼻持ちならないわがままセレブ女優が出来上がる。
大事にする彼女に泥を塗られた気持ちは強く、腹立ちに口の中で舌打ちした。
「黒沼さんには謝ったのか?」
「はい…、一応」
この事が記事になるようだと彼女に教えたのは、桜小路だという。黒沼の不機嫌の理由に気づき、彼女に知らせてくれたらしい。彼女は桜小路の勧めに従い、のち恩師の好きな酒を持って詫びに行ったが、
「お酒だけ取られて追い返されました」
という。
それに、彼も水城も笑った。彼女らの子弟関係の機微は知れないが、黒沼に許す気もなければ、詫びの品を受け取ることもない。門前払いで終わりだろう。
自分からも一言あった方がいいのか、ちょっと迷った。誤れば、「二代目が何を?」と結局彼女の面倒を見にいつも出張った過去と、今更繰り返すそれを皮肉られて終わるだけだ。
(まあ、それもいいか)
以前の彼は、黒沼とは彼女の『紅天女』の試演に気を揉み絡んだ。そして今は、『紅天女』の彼女のための後始末の骨折りで、また絡もうとしている。
過去と同じようで、違うのだ。共に彼女のための行為であるが、彼と彼女の関係が変わり、それが今の彼をも変えている。
「わかった」
と彼はそれで話を終えた。
「ご迷惑をおかけします」
「いいよ」
彼は場を仕切り直すように、もう止めよう、と首を振った。




           


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