天涯のバラ
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彼女はほっと息をつき、お茶を飲んだ。水城へ顔を向け、「明日、部長さんに呼ばれていたんです。打ち合わせがあるからって。それ、今からじゃ無理ですか? せっかくここにいるし」
「企画部の?」
「えっと、○田さんです。講演がどうのって…」
「間違いないわ、企画部の部長よ。都合を訊いてきましょうか?」
「ぜひお願いします。助かります」
水城が部屋を出て行った。彼は彼女の隣りに移り、あくびをしながら彼女の膝に頭を預けて寝転んだ。目を閉じる。その彼へ、彼女は疲れたのかと訊いた。
「そうじゃない」
家でよくする行為が、人目がないとはいえ仕事の場でつい出てしまったのは、夕べ彼女がおらず、二人の時間が持てなかった、その物足りなさのためだと思った。
今夜の予定がふと面倒になる。外せない用事であり、出席はするが、彼だって本当なら、夜は帰宅し、彼女の手料理を食べ、寄り添ってのんびりと過ごしたいのだ。
「講演って何だ?」
「さあ、何だろう」
彼女は首を傾げた。呼び出された概要くらい聞いておけと思うが、口にしなかった。こののんきも彼女らしいからだ。
そこへ、水城が戻ってきた。上司が彼女の膝枕で寝転んでいるのに、ややたじろいでいた。それ以上顔には出さず、スルーしたようだ。部長の都合が合い、いつでも下に降りてきてほしいとの旨を彼女へ伝えた。
「ありがとうございます」
彼が起き上がった。頭の後ろで肘を曲げ、「行くのか?」と訊く。彼女は頷いた。部長の用の後でまた戻るという。
「速水さん、ネクタイ昨日と同じでしょ」
彼女が言う。彼女は夕べ、友人宅に遊びに行き泊まっている。彼は彼女が仕度しておいてくれたものを、朝そのまま着て出社したが、ネクタイはつい同じものを締めて来てしまったようだ。
秘書の水城も気づいてはいたが、指摘するのは業務を超えている。
「誰が見るんだ、そんなもの」
「わたしが見ます」
マヤの言葉に、彼は「そうか」と首のタイを外した。渡された新しいグレーのものを締め直している。
その後で、彼女は彼の上着のポケットにするりと手を入れた。そこからハンカチを取り出し、バックから出した、これも新しいものを入れ替えてやっている。
それらのさりげない気の遣いようを、水城は微笑ましく眺めた。決して口には出来ないが、余程「療養中の」の本妻よりそれらしく功績があるのに、と、彼女が彼の隣りを決して許されないのを、歯がゆくも思う。これは帰宅後に夫ともよく交わす話題の一つだった。
終業時も近く、空いたカップを下げ、水城は部屋を出掛けていた。気を置かない様子の二人の声が背後に聞こえる。
「どうするんだ? この後」
「会長さんとご飯を食べます。速水さんを送ったら、お邸にお邪魔しますね」
義父が彼女を気に入り、観劇や食事にと連れ回しているのは知っていた。彼の留守時には、彼女も邸の方に出向くようだった。
彼女が下へ降りに部屋を出て行ってしばらく、秘書室に戻った水城が、退社を告げに彼の前に現れた。
「マヤちゃんはまだですか?」
「そろそろ来るんじゃないか。キノコを配って歩いてなければな」
書類に目を落としながら、彼が少し笑う。
「もうすっかりご夫婦のようですわ。実際の奥さまとして、何のお困りもないでしょう」
彼は返事をしなかった。この秘書は、マヤが彼のためにこなす日々のことを、大よそ把握しているのだ。
彼女との暮らしは初期の新鮮味が薄れ、一年を超え、今は安定に移った。その落ち着きの中、彼は、真の意味での妻に対して夫の自分が本来どう振る舞うのかを、理解してきていた。
抑制はしていても束縛が強く、嫉妬深い。ときに感情で叱りつければ、それら狭量を許す妻の優しさを求め、存在に甘えている。
(みっともない男なのだ、俺は)
「そうだな、俺にはもったいないよ」
「…驚きましたね、先ほどのマヤちゃんの言葉。いかがでした?」
彼は、頷きながら、自分は少し聞いていたと答える。水城はややためらいを見せたのち、
「以前に主人から、聞いたことがあるんです。試演の後のマヤちゃんのことを…」
彼は顔を上げた。
彼女が見事な演技を見せ、後継者に決まったその日、聖は彼の依頼で紫のバラを彼女に届けている。その場で、彼女は紫のバラの人からの援助を「卒業したい」と聖に告げたという。
「主人が言うには、マヤちゃん、長い間の夢を叶えたあんなときに、少しも嬉しそうじゃなかったそうです。舞台のひどい疲れのためか、それを取り繕う余裕もないようだったと」
記憶を粗く探るが、聖から『紅天女』の試演後の彼女のことで、彼は特に報告は受けていなかったはずだ。告げなかったのは、その頃彼が紫織にかかりきりの状態で疲弊しているのをよく知る聖が、その彼に、楽しくもない自分の印象を聞かせることをためらったのだと思えた。
「その後、間もなくですわね、マヤちゃんが『紅天女』を持って、大都芸能に来てくれたのは」
「ああ」
当時の彼は気づくことはなかったが、その行為は、彼女の彼の紫のバラへの恩返しだ。
「瞬く間に、アメリカ行きを決めて…」と、水城はそこで言葉を切った。何か言いにくいことを、自分の中で反芻しているようだった。
「以前の主人の話と、さっきの本人の言葉が、つながるように感じて…」
「恩返しに見せた、縁切り」だったのではないかと思う、と秘書は結んだ。
「は」
「お気を悪くなされたら、申し訳ありません」
「どういう意味だ?」
かすかに水城は首を振り、「真澄様の『紅天女』に至るまでの数々の支援を、マヤちゃんはもっと前の段階で気づいているんですよね。…ですから、その恩に報いるには、社長のあなたのために大都所属の女優になって、興行を任せることだと彼女は考えたんでしょう」
「マヤからそう聞いたよ」
「本当にそうでしょうか…。いえ、事実そうでしょうが、それだけだと腑に落ちないんですわ。疲れのためとはいえ、あの念願の『紅天女』を獲った日ですよ、それなりの感激や興奮があって然るべきです。ないのは、おかしい。だから、主人もその違和感をよく記憶しているのですわ」
「何が言いたい?」
「本当に、嬉しくなかったんでしょう」
彼は秘書から顔を背け、窓の側へ向いた。「あの『紅天女』だぞ。そんな訳があるか」
返しながら、水城の言う一つ一つが、妙に胸にしっくりと落ち着くのがわかった。彼女が『紅天女』になってから、渡米後の再会からも、彼は彼女が心から晴れやかに『紅天女』を受け継いだことを喜ぶ様を、知らないのだ。
にこやかに笑み、あの小さな身体いっぱいに重荷を背負い、月影千草の次代の継承者である責を担ってはいる。
(しかし、聞いたことあるのか、あの子の声を。俺は…)
彼は、今更の錯覚に愕然となる。念願だった、幻の『紅天女』を勝ち獲り継ぐことを、マヤが喜ばないはずがない、そんな思い込みでものを見て来た。
「それで…、「卒業」という耳触りのいい言葉に変えて、マヤちゃんは紫のバラを贈り続けたあなたへ、最後に『紅天女』を置いて行ったのではないでしょうか。終わりにしたのは、彼女が真澄様も、『紅天女』の一部と捉えたものかと、想像します」




           


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