天涯のバラ
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水城の言うことは、何となく理解ができた。彼女の『紅天女』への長い道程に、必ず彼は沿って来たのだから。紫のバラのゴールとしても、『紅天女』は相応しい。
「…なぜ『紅天女』が嬉しくないんだ? あんなにも願って来ただろう。それが、急にどうしてだ?」
水城はそこで首を振る。「わかりません」と。
「何か試演を迎えるにあたり、大きな転機があったのは、わかります。それが、マヤちゃんの気持ちを変えたのでしょう。…そう、彼女も触れていましたが、姫川亜弓だって、あれを機に、随分変わりました。二人とも、少女を終えて大人になったばかりの頃に、あんな過酷な状況を味わって、特別なもの思いもあるのでしょう…」
秘書の話は、彼の耳にも説得力を感じさせる。互いに彼女の告白に驚いた者同士の世間話の延長、そう見せて、ふと湧き、捨て置けない疑問を彼に預けたのだろう、そう思った。それは、マヤに一番近い彼が把握しておくべき、彼女の心の事情だからだ。
水城が帰り、どれほどか後で彼女が部屋に来た。
そろそろ時刻で、彼は彼女を伴い地階に降りた。彼女の運転での送迎は珍しくない。この日のように、彼が他出などで遅い晩は、朝、彼女が社に送り、出先に迎えに来てくれることも多い。他の利用者と時間もずれ、北島マヤに運転させ通勤する彼に気づいた者は、いない。
タクシーや社用車を使って帰ればいいのだが、ある晩、接待の帰りに彼女の運転する車で帰宅することがあり、それがひどく心地よかったのが始まりだ。以来、都合が合えば、気軽に彼女は応じてくれた。
随分と、彼女に依存している自分を思う。そう、気持ちでも実態も彼女は紛れもなく彼の妻だ。
今年の末には、彼女はハリウッド映画にまた出演が決まっている。ファンタジーの大作で、妖精を演じるという。そのクランクアップを待って、子供を作ろうか、などと話し合ってもいる。
ふと思い出し、彼は部長に呼ばれていた件を訊ねた。
「公演で講演するみたいなんです」
彼女の隣りで、彼は足を延ばし、頭の後ろに手をやったときだ。その車の特徴のやや高いエンジンがかすかに聞こえた。彼女がハンドルを切る。
「は」
大都絡みのアクターズスクールの研究生の公演に、彼女が特別ゲストで呼ばれ、講演することを頼まれたという。参った声を出し、「亜弓さんに行った話なのに、わたしに来て…。小野寺先生もぜひにって、言って下さるそうです」
スクールの理事長は有名な演出家の小野寺だ。この演出家も、過去でははっきりと彼女のアンチだったが、その肩書きが大きく変わった今、いっそ清々しいほどにあっさり白旗を上げている。
「断ればいいだろう、気が乗らないなら。亜弓君に頼んでみろ」
彼女に講演は無理だろうと、彼にも思う。亜弓ならそこの卒業生でもあり、適役だ。
「無理です。だって、彼女に借りができちゃって、そのお返しなんです」
亜弓は講演の頃、海外でオフだという。彼女たちは仲が良く、気安く借りを作っては返し合っている。
「何をしたんだ?」
「亜弓さんのファンクラブのお茶会に招かれていたのに、さぼりました」
(さぼるなよ)
と思うが、苦言より笑いが先に出た。彼女らしい。
さぼった理由を問おうとして、ふと思い当たる。ほんの数日前だ。彼の休日に、彼女が出かける用事があると、仕度をしていた。「遅くなりませんから」と。
それが何となくつまらなくなり、無理にいたずらして外出させなかったことがあったのだ。鏡の前で口紅を塗る彼女を見て欲情し、意地悪くその場で強引に抱いた。駄目だと抗ったが、「俺に駄目だと言うな」と押さえつけた。ある程度愛撫が進めば、彼女も彼のそれに愛らしく応えてくれた…。
(あれだな…)
苦い思いで、後悔をやり過ごした。
彼女はそれに触れず、「何を話せばいいか、わからない」とぼやく。
どこまでも彼に優しい彼女に、申し訳なさと愛しさがつんと募る。「俺が考えてやるよ」。講演の草稿を書いてやると請け合った。
「君はそれを見て、読むだけでいい」
「いいんですか? 速水さん、忙しいのに」
「いいよ」
退屈な会議の合間の暇つぶしにしようと思った。
彼女は面倒が消えたと喜んだ。「難しいこと書かないで下さいね。誰かに書いてもらったって、すぐばれちゃうから」
「ああ」
「夜、遅くなりそうですか?」
「いや、九時前には終わるだろう」
「どこか寄らない?」
「どうして?」
彼女は、以前のパーティーで×山が、「速水君はつき合いが悪くなった」とこぼしていたと言った。「前は会の終わりに、クラブにも一緒に行ったのだが」と。前に接待で会って以来、×山は彼女の舞台の折には、花を送ってくれるようになっている。
「好きで行っていたんじゃない。今は君がいる。無理に、商売女と過ごしたくなんかないよ」
「速水さんって、ときどき、ひどいですよ、言葉が…」
彼女がちらりと、彼を横目で見る。「ホステスさんのこと、そんな言い方しなくても」
「女を売り物に商売してるんだ。商売女じゃないか」
「じゃあ、わたしもそうかも…」
「自覚があるのか?」と叱りたくなったが、さすがに自制した。これ以上言えば、優しい彼女もつむじを曲げるだろう。女性蔑視につながる暴言だったとも反省する。
「すまない。俺は口が悪いんだ」
「知ってます」
彼女はそこで黙った。
沈黙が続く。心もち、彼女の彼の側の頬が強ばっているように、彼には見えた。それで少し居心地が悪くなる。彼女が怒っているのかと気にかかった。
「なあ、ちびちゃん」
「何ですか?」
声が堅い。彼は言葉が継げず、戸惑った。
昔は彼に、やたらと咬みついて来た彼女だが、それだって、彼が彼女を手ひどくからかい続けたためだ。のんきな彼女の、彼にだけぽんぽん返す反応を、その頃は楽しんでいたのだ。
再会してからそういったことはない。過去のあの空気感にいた二人の時間は、もう終わったのだろう。彼も彼女も違う今あるのは、似ていてもどこか違うものだ。
「…わたしにも、流せないこともありますよ」
「え」
真っ直ぐに前を見たまま彼女が言う。やや厳ついハンドルに据えたほっそりとした手に光が差し、暗い車内に浮き立って見えた。




           


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