天涯のバラ
50
 
 
 
その年の暮れ、彼女が映画の撮影のために渡米した。
三か月もの間の彼女の留守を、彼は途方に暮れるように思った。日々は彼女に埋め尽くされていて、その下に自分の何があったのかを、既に考えたくもなくなっていた。
その作品を知ったのは、あるパーティーで久しぶりに桜小路と話すことがあったためだ。
桜小路は『紅天女』の一真役のイメージからか、時代物によく出演している。先年の大河ドラマで大きな役を得、それ以来ぐっと知名度と人気が出た。『紅天女』でも好演を見せたが、やはりあの舞台は、ヒロイン阿古夜とその女優マヤのものという印象が強いのだ。
ひたむきで思いつめやすい雰囲気の少年期から成長し、舞台人の匂いはするものの、陽性の青年なっている。公私の充実がうかがえた。
「速水社長はご存じなかったんですか? 僕は会社の了承があるものと聞いていたので…」
桜小路は、少し前に舞台でマヤと共演をした話をした。それに彼が驚いたのだ。彼女からはその話を聞いていない。
「いいんだ。俺が知らなくても、社には知る者があるだろう」
さりげなく驚きをやり過ごし、その舞台の内容を訊いた。舞台は黒沼演出のミステリー劇で、物語の最初にまず殺人が起こる。その死人役がマヤだという。おかしなことに、その死人は、死んだまま顔を伏せ、舞台の隅に転がり、幕が下りるまでそのままになる設定だ。本来は、人形を置いておくのだとか。
「顔を上げることもなく、セリフもない。そのまま幕が下りるんです。最後の舞台挨拶で、『死人役北島マヤ』として、やっと前に出て来るから、観客は驚いて大盛況でした」
二時間半死んだきりだったという。
「それは、面白かっただろうね」
「はい、それもそうですが、贅沢な舞台でした。演出は黒沼先生だし、端役の死体にはあのマヤちゃんですよ。初日と千秋楽のみの限定サービスでしたけど」
「そう」
桜小路は週刊誌が火を点けたマヤと黒沼の不仲を知っている。原因は彼女の迂闊な失言で、謝る機会を設けようと、取りもってくれたと聞く。彼はそのことに触れ、
「黒沼さんの機嫌はどうなんだ?」
「どうでしょう。でも、舞台であのマヤちゃんにあんな仕打ちができるのも、先生だけです。缶コーヒーを一本放ってやって、「お前のギャラだ」でしょ。気は済んだんじゃないかな、と思います」
「缶コーヒー?」
「はい、あのマヤちゃんに、ですよ。先生がケース買いした、一本六十五円の」
桜小路は笑った。
子弟の機微にはきっと彼の理解を超えるものがある。今の肩書きを顧みず、彼女が不満もなくおのれの不始末の詫びに舞台を務めたのなら、それは評価すべきだろう。
(俺に言えよ)
その不満は顔に出さず、彼は桜小路に問う。
「君だって、あの子の発言は面白くなかったんじゃないか? 長く一緒に『紅天女』を作ってきたんだ」
桜小路は、ちょっと首を振る。彼女が自分たちを否定する意味で、あの言葉を放ったんじゃない、と。
「試演の頃は、マヤちゃん、本当に辛そうでした。気持ちが安定しない感じで、調子がいい日もあれば、翌日にはそれが崩れてしまう…。そんなことの繰り返しでした。先生や僕たちの期待の他に、マヤちゃんの阿古夜を待っている『あしながおじさん』の存在もあって…、それを全部彼女が背負っていたのかと思うと、全て終わった今、振り返りたくないと感じるのは、しょうがないです」
「僕だって、あの緊張はごめんです」と笑う。
彼は桜小路と別れ、ふと、黒沼の話を聞いてみようかと思った。
 
そうは思いつつ、なかなか日も取れなかった。年の瀬に彼は風邪を引き込み、高熱を出したが注射と点滴でしのぎつつ、仕事をこなした。味気ない毎日に、彼女からの定期のメールや電話は、その大きな気分転換になった。
彼女は彼の手配で、社の宿舎にまた滞在している。ロスでの撮影が続く今、安全上もプライバシーの面でも都合がいい。
あるときの会話だ。
『またジャグジーに入りたいです』
「入れよ。好きに使ったらいい。君専用にしてあるから」
いつかと同じことを言う。彼女はちょっと拗ねた声を出し、
『速水さんと入りたいのに…』
「じゃあ、行くよ」
すぐに決まった。
年賀には、鷹宮家に顔を出すが、今年は鷹宮翁も体調を崩している。見舞いは既に済ませたし、気の向かない定例儀礼を取り止めた。短い正月休みには、彼がアメリカに渡り、ひととき彼女と過ごした。
その休暇は、甘く過ぎた。離れていた間がもどかしく思われた。特に密に寄り添って空白を埋めた。彼女とそうしながら、自分はずっとこうなのだろう、とおかしいような観念がある。
(彼女じゃないと、どうしても埋まらない)
そんな渇望が、会わずにいるとすぐにぽかりと顔を出すのだ。
撮影の後半はアメリカを離れ、オーストラリアに移るという。「できたら、迎えに行くよ」。
帰国後は、また日常が始まった。
そんな頃、ふと黒沼の件を思い出した。アメリカでは、彼女が詫びの舞台を務めたことは敢えて言わなかった。それで、彼女に不快な記憶が甦るのを恐れ、休暇の間は避けたかったのだ。
予定を立てないままに、黒沼の事務所に連絡を取った。今は個人で仕事をしており、その事務所の所長は妻だという。その妻に黒沼の連絡先を訊いた。「こちらから黒沼に連絡を取り、大都芸能までご連絡を差し上げますので」とやんわりと断られた。
「至急」がどれほどか、期待せず待った。黒沼からは翌日連絡があった。
久しぶりで、決まった挨拶を口にすれば、
『忙しい二代目が、急にどうした?』
と、過日と変わりない。彼はその声に、少し時間をもらえないかと言った。
「お話ししたいこともありますので」
黒沼はそれに『厄介な話は止めてくれよ。かみさんがあんたからの電話に怯えてる』
「ははは、それは奥様に申し訳ないことをしました。何、ご心配なく。ほんの確認ですから」
『ふうん、何の確認やら』
黒沼は応じ、自分のよく行く店があるから、彼がよければそこで飲みながら話そうと誘った。彼に否やはない。
店の場所と名を聞き、彼は頷いて電話を切った。




           


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