天涯のバラ
51
 
 
 
当日、ほぼ時間通りに店に入ると、既に黒沼はカウンターに座っていた。彼はカウンター内の店主にその隣りを勧められながら、店内を眺めた。
彼女がいつか彼を誘った、源造の兄が経営するという鉄板焼きの店だ。狭い店の壁には、役者のサイン色紙と源造の若い頃の写真があちこちに貼られている。他にも、若かりし頃の月影千草の美貌のスナップも幾つもあれば、桜小路のもの、亜弓のもの、彼女の写真も多くあった。
店主はがっしりとした体形の源造とは違い、ほっそりとした年配の男だった。使い古された色合いの鉄板は、きれいに磨かれている。そこにイイダコが載って焼かれていた。その背面の棚には、焼酎や日本酒の瓶が並ぶ。マジックで直にでっかく「北島マヤ。飲むな!」とあるのは彼女のキープだろう。
高級志向の店ではなく、居酒屋風の場であるようだ。もう八時を過ぎているが、他に客はいなかった。
黒沼は彼女のボトルを指し、「あいつ、人のはがんがん飲むくせに、あんなことを書きやがる」
と、敢えて店主に、「兄さん、あれ、北島のをロックで二つくれ」
「俺もいいんですか?」
「知らん」
焼酎を飲むのは、まず久しぶりだ。案外口当たりがいいそれを含んでから、
「時間をいただいたのは、前の週刊誌の記事の件をお詫びしたかったんです」
黒沼はちらりと彼を見た。飲んで、口の端で笑い、「あれは一年ほども前のことだな。あんたが来るかと、こっちは待っていたのに」
「それはお待たせしました」
「北島が何かしでかすと、二代目は必ず飛んで来ただろう。保護者みたいに」
当時もそのような皮肉をちくりとやられたのを覚えている。今では大して棘も感じないそれに、彼は少し笑って答えた。
「記事を見て、あの子に事情を聞き、すぐにでも会ってもらおうとしたんですが…。すみません、忙しくしていて」
「ああ、そんなようだな。俺はそっちの話は疎いんだが」
黒沼が言うのは、鷹宮グループのトラブルの件だ。ある理事の自殺に端を発したそれは、今や刑事事件に発展し、親族ではないが逮捕者が出ている。大きな企業ダメージとなった。
大学の同期に検察関連がいて、おぼろに聞けば、本丸とされる親族の一人でもに逮捕状が出るかは、微妙なところのようだ。そこまで達しなければ、この件も何とかトカゲの尻尾切りで終わるだろう、と。
彼は首を振る。「俺は名のみの婿で、あちらとは何の関係もないんです」
そこへ、店主が二人につき出しのイイダコの皿を出した。「ここは兄さんの腕がいいから、何でも旨いぞ」
黒沼の声に、彼は箸を付けた。蒸してでもあるのか、柔らかい。
「へえ、そんなものか。会社同士の結婚のように、大層騒がれたのにな」
気のない声だ。生きる世界が違い、大して興味もないのだろう。昔の台風がどうの、と振り返るのに似ていた。
「…親父も引退して、グループを見るようになりました。芸能の仕事ばかりしている訳にも行かなくて」
「ふうん。でも、まだあんたが大都芸能の代表だろうに」
「古巣で、居心地がいいんですよ。立地もいい。家からも近いんです」
オフィスのようにしているのだと言った。
「家から近いか…。そんなことで、決まるのか」
「移動の手間が少ないのはいいです。黒沼さんも、事務所に住んでいるでしょう? 奥さまが教えてくれましたよ」
「ああ、あれは単なる経費節減だ。飯食って、嫁が片付けたら、その場が事務所になる。他で借りたら、余計な出費が掛かるからな」
「合理的ですね」
「ただのけちなだけだ」
店主に訊かれて、彼はちょっと迷い、壁の貼り紙にあるぶり大根を頼んだ。渡米前に彼女に作ってもらって食べたものが、かなり旨かった。それを思い出したのだ。
イイダコをもう一度お替りした黒沼が、彼がぶり大根をつまむのに、意外な声を出す。
「あんたみたいな人でも、そんなものを食べるのか」
「旨いですよ。家では普通の手料理を食べてます」
頬をちょっと緩めながら答える。彼女の作るものより、味付けは濃い目だが、ここのものも旨い。
「あの奥方の手料理か…」
黒沼がつぶやいたが、彼はそれへ返さなかった。「あんたも、年を取ってちょっと雰囲気が変わったな」
「どう変わりました?」
咀嚼ののち訊いた。
「奥方の尻に敷かれてるのが、よくわかる。それで満足なのも、な」
「ははは、そうですね。親父はキンタマを握られて、と口悪く言いますよ」
「はあ…、あのすかした大都の二代目が、キンタマなんて言うとはねえ」
「もうじき四十です。若くない。…黒沼さんだってご同様でしょう? しっかり者の奥さまに手綱をつかまれていると聞きますよ」
黒沼は彼の問いに頭を掻いた。
彼を「雰囲気が変わった」と言うその当人も、彼の目には変化が見えるのだ。創作稼業の疲労もあるのか、そう年でもないのに髪の半分を白くしていた。以前は書生崩れの印象があったが、それは消え、気難しさの中に大家然としたものがどこか匂う。
この男も『紅天女』を潮に、変わったのだ。
「子供はいるのか?」
「いえ、まだ。近いうち欲しいとは考えています。黒沼さんは?」
「小学生の男二人だ。うるさくて敵わん」
言いながら、薄く笑う。この人も幸福なのだろう、と彼はふと思った。
彼女の焼酎の次に、別の種の焼酎を頼んだ。「これはお湯で割るのがいい」との店主の薦めでそうしてもらう。
黒沼はこだわるように、マヤのものをまた飲んだ。それを横目に彼は、記事を差し止められず、申し訳ないことをしたと詫びた。
「あんたに詫びてもらってもな…。あいつが言ったことだ」
「桜小路君に聞いて驚きましたよ。先の舞台では、うちの北島に随分いい役を下さったそうで」
「桜小路め、ぺらぺらと。…やれるもんならやってみろと言ったら、本当にやるから、こっちが驚いた。おかげで贅沢な舞台になった」
「…それで、手打ちにして下さるんですね?」
黒沼は渋々といった風で頷く。それはポーズであることを、彼は知っている。彼女が身体を張って詫びたことで、きっと許しているのだろう。そもそもが、それほど腹を立てたのかも疑わしい。
『黒沼組』の看板でもある一番弟子に、
(生意気を言うな、と頭をはたいた程度なのだろう)
「あの子だって、悪気があった訳じゃない。それはわかる。しかし、舞台は大勢で作るものだ。その主役が、一番目立つからって我が物顔に、口にしていいことじゃない」
黒沼の言葉は彼にもよくわかる。彼女の身勝手をその功績で許せば、他の役者に示しもつかないだろう。『黒沼組』の名にも傷がつく。そこで、怒りを強く見せ、断交も辞さないと手厳しく「指導」したのだ。
理解はする。しかし、どうしても彼女の立場に立ってしまいがちな彼は、
(うっかりは誰でもある)
とフォローに入る。自分もきつく叱ったと言い、彼女も反省していたと述べた。
「黒沼さんの演出が劣るとの意味ではなく、自分の阿古夜のことを言ったと説明していました」
「その阿古夜を演出したのが、俺なんだがな」
と、にやりと笑う。やはり変わらず、彼女のために事の火消しに回る彼を、面白がっているのだろう。




           


パロディー置き場へどうぞ♪


お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪


ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪