天涯のバラ
52
 
 
 
「桜小路君は、彼女の発言に理解があるようでしたよ。記者の煽りに、ついムキになってしまっただけじゃないかと」
「あいつが一番、ぼろっかすに言っていんだ」と、黒沼は笑った。「ああ、北島のことじゃないが」と前置きし、新版『紅天女』の評判は、『黒沼組』内では、軒並み悪かったという。
「あれは、別物だ。俺らが試演に向け作った『紅天女』と同じに並べちゃいかん。まあ、先入観なく見る向こうの人にはわかり易いだろう。そういう意味ではいい舞台じゃないか。北島も小器用に上手くやっていた」
そこで、扉が開いた。暖簾をくぐり、客が入って来る。サラリーマン風の三人連れは、ボックス席に落ち着いた。銘々飲み物をオーダーする声が届く。
「しかし、あなたの『紅天女』はベストですよ。他はない」
それに、黒沼は返事をせず、他の客がオーダーしたがんもを、「こっちも二つくれ」と頼んだ。彼にも食えと言う。
「鉄板焼きはいいんですか?」
「イイダコを食ったじゃないか」
鉄板は格好がつくから置いてあるだけだと、兄さんに聞いた、と黒沼は小声で言う。「イイダコと、うどんしか焼かない」。
変な店だがおかしかった。彼が笑うと、
「あんたのしたかった「確認」というのは、これで済んだのか?」
「いえ…」
彼は焼酎を飲み、少し間を開けてから言った。「試演のときのことを教えてほしいんです」
店主のバックハンドでやって来たがんもの皿に、彼は驚いて受けった。
「試演って、『紅天女』のか?」
「はい」
黒沼は不審そうな顔をする。箸を置き、煙草に火を点ける。彼もそれを見て、煙草を取り出した。「まだ止めてないのか」と、その目が無言で彼を軽くなじる。「あんたには言われたくない」と、彼も黙って見返した。
「何で、そんな昔のことを知りたがる? 七年も前だぞ」
「…北島本人もそうですが、桜小路も、試演が特別だったと言います。…特に彼女は、振り返るのも嫌がり、演出があなたじゃなく、『紅天女』を継げなくてもよかったと言うほどです」
今回、そんな長い屈託が露出したのは、演出家が変わり、以前の物との比較を幾度も強いられたからだろう。
黒沼は口の煙草を噛むように彼を見た。「あれを個人がつないでいくのは、大変だろう」
「ええ、そうです。しかし、彼女は別格です。よく書かれるようなわがままを言う子じゃありませんが、社ではどんなサポートもする体制はあるんです。実際しています。今後への不安をゼロには出来ないが、重荷にしない程度には軽くしてやれる」
「…それでも、姫川亜弓に負けた方がよかったと、今頃弱音を吐くのか?」
煙を吐いた黒沼に、彼は頷いた。「あと」と、聖が見た彼女の様子を少し言い添えた。
「う〜ん…。よく覚えてないが、憔悴したような感じはあったな。全てを出し切ったような。舞台の後の主演はそんなもんだろうが…」
「試演は、どう進んだんですか?」
「どうもこうも、あんたも見ていただろう。あの姫川亜弓の後に、こっちの番だ。全員ががくがくしている。俺がどんな発破をかけたって効きゃしない…」
黒沼は目をさまよわせ、往時を辿るかのような仕草を見せる。
幕が上がり、舞台が始まる。その長い物語の間、黒沼の目に彼女は、最高の阿古夜であり続けた。本番での仕上がりに期待した、彼女の解釈の未完成な部分は、補って余りある演技に化けた…。
「完璧だった。あいつはあの舞台で完全に阿古夜をつかんでいた。いや、まったく…、メガホンで俺が頭をかち殴られた気分だった。こういうことがあるから、舞台は面白い」
彼女の真骨頂は、「掛け合いの巧さ」だという。役の仮面をかぶり、その者独特の引力を放つ。「磁場と言った方がいいかもな」。
「嫌な人間や、その逆を考えたらわかりがいい。あるだろ何か、うわっとこっちにくるオーラみたいなものが」
「そうですね、それならわかります」
彼女はその磁場でもって、相手の役者を「その気」にさせるのだという。正でも負でも、彼女が帯びた役のオーラで、相手の役者の「その気」を引きずり出す。自分の磁場に引き入れた役者との役同士の演技の応酬こそが、「掛け合い」だ。
「あいつは、それが滅法巧い。あんな役者はちょっと見ない。ひととき憑依型とか言われたのは、それが不安定で、やや未完だったためだろう」
黒沼は続ける。「それが、試演では抜群に冴えた。まだ青臭さの残る桜小路を、磁場に引き入れ、その気にさせた。一真を本当の意味で仕上げたのは、あいつだ。磁場を作るにも、役への深い解釈が必要だが、本番で阿古夜の一番大事な部分がはまったんだろう。…後にも先にも、あれが北島の代表作だ。間違いない」
「ええ、観ていて鳥肌が立った。一真の気分になりましたよ」
「あの奥方を側に置いてか?」
「…誰もがそんな気分だったんじゃないですか? 男は皆」
「そう、ハリウッドで撮った映画も、相棒の俳優がいい顔をしていた。そういう相手の役らしいものを、必要なだけ引き出すのは北島の天性だ」
そこで、黒沼は言葉を切り、「あんたに雰囲気が似ていたな、あの俳優」と言った。それで煙草の煙にちょっとむせた。
「俺は、ああいう、磁場を操れる人間が、カリスマだの言われて、カルトやマルチなんかで祀り上げられるんじゃないかと思う」
「ははは、あの子が聞いたら怒りますよ」
「もう言った。お前は間違っても役者以外で食うこと考えるな、と言ってある。選挙に出る話が来たとか言ってたから、ぶっ飛んだぞ。事務所がもっとガードしてやれ」
「はい、選挙はあり得ませんよ。あの子が投票していないのに」
「何だ、あいつもか。俺も行ってない」
黒沼の言う試演の模様は、観客席で見ていた彼のそれとそう変わりはない。「何か」があり、彼女の阿古夜は飛躍的に進化し、成功を遂げた。
(それだけなのか…)
ふと黙り込んだ彼へ、黒沼が、「一つ、秘密がある」と言った。
「秘密?」
「ああ、俺も忘れていた。あんたに会って思い出したんだ。試演の話ではないが、その前だな、北島には内緒にしてくれと言われていた」
彼は煙草を灰皿に置き、黒沼を見た。黒沼は、「言っておくが、あんた方夫婦仲に要らん波を立たせるつもりはないぞ。もう七年も前の話だ。そう思って聞いてくれるか? それなら言おう」
彼がこの日時間を割いたことへの義理返しというより、黒沼も彼女の今頃の揺らぎが心配なのが知れた。
役者として見事に開花し、成熟した感の彼女には、「自分を引き換えにした」からこその影があるように、彼には思われてならない。普段何気なく隠されているが、ふと過去を見る際顔を出す。
それはきっと、彼女の場合の人としての成長であり、どんな心の傷であっても、彼女だけが乗り越えることに意味がある。彼が知ったところで何がどう変わるとも思えない。
(ただ、俺は知りたいだけだ)
ちらりとカウンターに目をやれば、店主は湯気の向こうで何か調理に忙しくしている。
「ええ」




           


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