天涯のバラ
53
 
 
 
黒沼の打ち明けたことは、彼には意外で、相槌を打つことも忘れさせた。七年前、試演を数日後に迎えたある日、彼の妻の紫織が、彼女を呼び出したという。
瞬きを繰り返した。驚きをやり過ごし、
「それは…」
「俺も内容は知らない。ただ、あんたの奥方が、まだ婚約者の頃か、人を連れて稽古場に顔を出して、北島を借りたいと頼んできた。大スポンサーのお嬢様だ、無碍にもできない。少しの間と区切って許した。あいつも大丈夫だと言っていたからな」
小一時間程で彼女は帰ってきた。それから様子がおかしくなったという。
「塞ぎ込んでいるし、稽古にならない。何を言われたのか訊いたが、「試演を励ましてもらった」としか答えない。そうであっても、余程のことを突きつけられたとしか思えなかった。頭に来たよ。大事な舞台を前にして、どこのお嬢様か知らんが、しゃしゃり出て来て、主演女優を腑抜けにしやがった。あんたには悪いが、大した迷惑だった。よっぽど文句を言いに行こうかと思った」
彼はあまりの話に、うろたえながら訊く。「…なぜ俺に言わなかったんですか?」
「あの子が止めたんだ。「速水さんには言わないで」くれって」
「は」
「訊くと、あんたが可哀そうだからって言ってたな。俺はそれで、合点がいったんだ。あんただろ? 北島にバラを贈っていたのは」
「…どうして俺だと?」
「俺の周りで、演劇に詳しくて、金持ちはあんたしかいなかった」
「俺の周りにはたくさんいますよ」
「知りたいんじゃないのか? 今更何の役にも立たない白を切るなら、俺の話はお終いだ」
彼はそこで両手を上げて見せた。「降参です。その通りですよ」。
「彼女は、どうして俺が「可哀そう」だと?」
黒沼は煙草をふかし、首をひねる。しばらくそうしていて、
「正確じゃないかもしれん、大分前の話だし…。「速水さんは、自分のことを自分で決めない」、みたいなことを言っていたような気がする。間違っているかもしれん」
「…いや、それで合ってるんでしょう」
いつかの彼女の話に合致する。意志や本音を措いても、周囲の状況に合わせて私的なことを決めてしまうと、彼女は彼をそう判断した。その本質は変わらないのだと決めつけられ、腹を立てたのを思い出す。
彼は灰皿の煙草をくわえ、それが短くなっているのに気づいて揉み消した。グラスの酒を飲んだ。店主に「もう一杯もらえますか」と頼む。
「あんたの奥方と何を話したのか、詳しいところは、当時一緒に住んでいた、つきかげの子が知ってるかもしれんな」
頷いたが、彼は彼女の親友にことを問い質す気持ちはなかった。留守の間に、友人を当たり過去を探られるのはいい気がしないだろう。彼女の不審や不評を買うのは、ぜひとも避けたい。
まず訊くべきは彼女であるが、はぐらかされそうな気がした。「覚えていない」と、とぼけられそうだ。彼が耳にして不快に思うだろうことは、彼女は口にしない。特に、紫織の話はタブー視している節がある。
なら、ぶつかるのは、
(紫織だ)
しかし、彼との会話に耐えられるような状況か、危ういところだった。耐えられたとしても、周囲がそれを許さないだろう。特に今の鷹宮家の内情はひどいはずだ。
うろうろとそんなことを思う彼へ、
「先走り過ぎたんだ、あんたの嫁に相応しかろうと、あの人はあれで精一杯だったんだろうよ。それで、確かに北島はへこんでダメージを被ったが、あいつだってそんな柔じゃない。ちゃんと『紅天女』を継いで見せた。それで良しとしろよ。間違っても、奥方に言って当時を責めるんじゃないぞ」
彼はそれに笑って答えた。新しい酒を口に含み、頷く。言いませんよ、と応じた。
「だんまりついでに、こっちも頼む。あの頃北島に、俺は泣いて健気に頼まれた。本当に、あいつは痛々しかった。あんたを庇って「可哀そう」だと言うあいつこそが、一番の被害者だった…。時間が経ったとはいえ、約束を破ったとは知られたくない。応援し続けて来たあんただから、話したんだ」
「言いませんよ。安心して下さい」
しばらく飲みながら、演劇の話をした。彼は主に聞き手で、面白く耳を傾けた。聞きながら、黒沼の彼女の才への傾倒は深いと知った。彼の手がける舞台は、その鬼才もさることながら、彼女と組むことで絶妙な調和を産み、今に至る。それは本人もよく知るところだろう。
彼が今年は『紅天女』を休むだろうと仄めかせば、がんもを頬張った黒沼の目は彼へ向いた。「はんへ?」。
なぜ、と問いたいのだろう。急いで口の中を空け、
「…大成功だと言うじゃないか、アメリカ興行でも大うけしたんだろ? また一発かませばいいだろ、熱の冷めない間に」
「彼女の気持ちも下がっています。あの新版以来、スキャンダルが多い。あれは成功のまま、少し間を置いた方がいいと、判断したようです」
「したようですって、あんたがしたんだろ」
「ははは、彼女も含めた社の総意ですよ。俺は決裁するだけです。それに、『紅天女』は黒沼版が至高だ。これははっきりと俺の意見です」
また折りを見て、次は頼みます、と彼は言い添えた。これはオフレコに頼む、とも。
黒沼は少し唸ったが、「それは桜小路が知ったら、意気軒高だな」
「キャストは監督の自在です。一真は彼に決まった訳でもないでしょう」
「確かに。思い切って、別のを当てるのも面白いかもしれん。…最近、アメリカ帰りの役者が、売り込みに来た。かみさんがきゃあきゃあうるさいから何だと思ったら、昔、あんたのところでアイドル路線でやってた奴だ。えらい色男の、里美とかいったな。あれで見込みのありそうな奴だ」
ふうん、と相槌を打ち、彼は黒沼のグラスも少ないのを見て、自分と一緒に次を注文した。温かい酒もいいが、彼は冷たい方が好みだ。ロックの焼酎を飲みながら、
「そうですか、いい役者が次々育っていますね。そうなると、やはり、桜小路君の長年の一真への研鑽は、一頭地を抜くものになり貴重ですね」
「まあな、今のところ、一番一真を理解はしてる」
店主の手が空き、カウンターの隅でスポーツ中継を見始めた。そのテレビ内の小さな歓声を聞きながら、彼は声を落とした。
「黒沼さんが、大事な秘密を打ち明けてくれたお返しに、俺も一つ…」
相手は、耳を塞ぐ真似をし、「妙なことを訊くのは御免だぞ、あんたとは住む場所が違う」
「ははは、ごく私的なことです」
「じゃあ、言え。何だ?」
「彼女と暮らしてます。もう二年になる」
「は」
意味をつかめない様子の黒沼に、彼は「マヤです」と補足した。
「え?!」
それで絶句するのを、ちょっと笑って見て、「だから、男女の関係です、あの子とは」
「だって、あんた、あの奥方と…」
声を潜め問う黒沼に、彼は首を振った。「一年ももちませんでしたよ、結婚は。もめにもめた挙句…。離婚には至っていませんが」
言葉を止め、彼は指で斜めにすっと空を切って見せた。
「刃傷沙汰です。俺が斬られた、ばっさりと」
「はあ?!」
彼はおかしくなり、くすくすと笑う。「そんなに驚くことはないでしょう。あの子が言った「速水さんは、自分のことを自分で決めない」の意味は、あなただって、知っていたのじゃないですか」
「まあ、政略結婚だとは、皆言ってたが…。あんた、それが望みだったんだろう?」
「後でマヤにも叱られました。俺はあんな大事なことも、自分では決めないらしい。周りの意見をのんで…。それが今の結果です」
「それは、北島が原因か?」
「それは俺の原因で、妻は別のもがあったのじゃないかな」
「奥方は、今…?」
「俺を斬った後は、遠方に移りました。長らく別居で、顔も見ていない」
「え、じゃあ、さっき言ってた、手料理がどうの、キンタマを握られたの、子供が欲しいの…」
「全部マヤとのことですよ」
「え?!」
黒沼は絶句し、口を覆い彼を見ている。
彼は知らん顔で酒を飲んだ。酔っての自分語りのつもりはないが、少しはそうなのかもしれない。こんな話をする気はさらさらなかった。しかし、そうなったのは、彼女をよく知る誰かに聞いてもらいたかったのだろう。
しばらく会話が途切れた。




           


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