天涯のバラ
54
 
 
 
「大人が二人で決めたことだ、事情もあるだろう。俺は何も言わん」
黒沼の言葉は彼には重い。彼と彼女の来し方を知るのだ。
彼は礼を言い、また酒を飲んだ。
しばらくして、黒沼が口を開いた。
「今更の、二代目の似合わない探偵の真似事も、そのためか…。やっと腑に落ちた。…何も言わないとは言ったが、一つだけ」
「どうぞ」
「出来もしない約束をして、無駄な夢を見させるようなことをしてるんじゃ、ないんだな?」
「していないつもりです」
彼女が彼との先の夢を見たがらないことは、口にしなかった。
「…あいつは今どうしてる?」
「撮影で渡米していますよ」
「さっきの試演の件だが、直に訊いちゃ駄目なのか?」
「何度も訊きましたが、「自分と引き換えに」阿古夜になった、とのみです。あまりに辛そうだから、それ以上は訊きかねて…」
ふうん、と頷き、黒沼は指の煙草をやや振るようにした。それが、何かを示すときの癖なのだろう、と彼は見ながら思う。
「何かを殺したのかもな…。すぐ浮かぶのは、勝ちたいという欲だ。自分の我や、俺らの期待、あんたの重っ苦しいバラ…」
「重っ苦しい?」
「気にすんな、たとえだ。それらを全部なかったことに出来たら、あのときの北島にとって、どれだけ楽か…。もしかしたら、それらを消せたのかもしれんな。一時的にせよ、空っぽにして、阿古夜だけを受け入れる」
「捨てたのではなく」、自分の心を殺し、阿古夜と入れ替えた…。黒沼の言葉通りの心境が彼女に起きたのなら、確かに筋は通る。念願の『紅天女』を手にしても、感動のない訳も、それをあっさり彼に渡し、渡米した訳も、
(あんなにも、大人になった訳も…)
「…重大な告白だったが、もし俺があんたたちのことをどこかに売ったら、どうする? それは考えないのか?」
不意の声に、落ちていた目を上げた。ちらりと黒沼を見た。
「…もしそうした後の、黒沼さんを考えないのですか?」
気負って口にしたのでもない。この男が、口外することはないと信じてもいる。しかし、思いの外自分の声は低かったようだ。
黒沼は急いで手を振り、「ないない」。
「二代目に睨まれたくない。こっちはしがない演出家だ。…あんた、年を取った分、余計な凄味が増したぞ」
「はは、ちびちゃんにも言われます。ときどき怖いんだそうですよ」
笑顔の彼へ、やれやれと黒沼は首を振り、
「感想だけ言うぞ。今だから、あんたら二人は上手くいくんだろうよ」
「今だから?」
「そう、あの頃、二代目の気持ちは何となく透けて見えたが、どうか一人で胸に収めてくれと、俺はあんたを見て思ってた」
「え」
慧眼な演出家の目には、立場をわきまえつつも頻繁に彼女に絡む彼の行為は、お見通しだったらしい。少しだけ照れ、彼は肘をついてそこに頬を載せた。箸でがんもどきをいじり、中から幾つも出て来る、出過ぎる銀杏に驚かされた。
黒沼の思いは、よくわかる。いつか彼女にも言ったが、しがらみに絡みつかれたまま、血迷って彼が彼女に告白しても、誰も幸せになどなれなかった…。
(彼女は『紅天女』をつかみ損ねたかもしれないし、それで自分は、何もかもを失ったかもしれない)
少年期からの血の滲むような矯正の果てに持つ、地位と肩書きだ。ないようでその実、未練はたっぷりと身内からしたたっていた。
「北島があんたのバラにほだされて、恋仲になったとしよう。しかしそこまでだな」
「どうしてです?」
単純に、ドラマを産むこと長けた、ヒットメーカーの紡ぐ架空のそれを聞きたかっただけだ。
黒沼は、そうなった彼女は、多分『紅天女』を獲れなかっただろう、と彼と同じ予想をする。罪悪感に潰れ、阿古夜の解釈など進むべくもなかった、と言う。
「『紅天女』に届かなかったことを、あんたは責めなかっただろう。しかし、あいつは自分を責める。あんたの奥方だけじゃなく、あんた自身にも罪悪感を持つようになる。元からが、『トムとジェリー』じゃないか。恋や愛やでは、若い娘には乗り越えられない大きな壁ができるだろう…」
(見て来たかのようだな)
彼は相槌も打たずに聞き入った。
「あんたには見えもしない壁に苦しむあいつが、あんたにはわからない。身長差を考えたらいい。視界が違うんだ。見るものが違う」
「それで、可哀そうなマヤはどうするんです?」
「消えるだろう。あんたの前から、何としても」
「え」
「幕、だ。俺ならそんな筋を書く」
「…今も身長差は変わりませんよ」
「あんたは屈むことを覚えたし、あいつは上を向くことを知った。だから、目も合うし、何を見ているか、互いに教え合える」
「屈むこと」は、彼女との再会までの、彼の苦しい挫折を意味するだろうし、「上を向く」とは、彼女の成長と成功を指すだろう。
黒沼は「恋や愛や」では、「乗り越えられない大きな壁」と表現した。それは二人の差だ。当時の彼も意識はしたが、高みにある自分は、彼女の気持ちほどには重く捉えなかったはずだ。ただひたすら、彼女と思いが通えば済むと、他力本願に考えていた。
差は、人間関係に致命的ではない。だが、ときに「目が合う」ことが重要になる。違うもの見ても、思ってもいい。それを伝えあう、教え合うことができれば、差はその関係において障害にはならないはずだ。
あの頃の自分にそれができたか。彼女にそれを望めたか。
(甚だ疑わしいな)
彼女の成功も、経験も。彼には眩しく誇らしいが、必須でないとしていた。しかし、どうであろうか。今それらを通して、彼女とわかり合う部分は多い。彼女の助けを求めることも増え、ゆえに信頼も深まっている。
そして、彼自身が体験した人生の頓挫によって、彼女に甘える快楽を自分に許すことができた。
きっと二人の経験が上手く合致し、今の良好な関係がある。「今だから」は、まさに的を得ていた。
(俺とマヤには「恋や愛や」では、足りない)
それを認めることが、今の彼には苦くはなかった。年を経ての感慨かもしれないし、彼女を得ている余裕かもしれない。
ただ、黒沼には過去の関係の脆さから今の安定の違いまでをすっきりと見通されている。そのことに、苦笑が浮かんだ。
その後、しばらく飲んで席を立った。彼が当たり前のように勘定を持てば、黒沼は「だと思って、財布を持ってこなかった」としれっと返す。
店を出るとき、ふと壁の写真に気づいた。それは古いスナップで、月影千草を囲み、応援者らしいのが十人ほど写っている。女優は横の距離を開ける男へ「ご遠慮なく」といったように手を添えている。男の表情が緩み、のぼせて見えるのは、憧れの女優の側で舞い上がっているのだろう。それは義父だった。
それはまだ強引な手を使う前の、『紅天女』に焦がれる、単なるファンでしかない頃だろうか。月影千草の表情に、寛いだものがあるのだ。互いに何も知らず、幸せな頃。
(こんなときもあったのか)
「持って行っていいよ」
店主の声が掛かった。彼は声に振り返る。「まだネガもあるからね」。
ちょっと返事に戸惑った。こんな古い写真に見入る自分を、源造の兄の店主はどう思うのか。
「あんた、息子さんだろ? 速水社長の」
「兄さん、今はこの二代目が社長だよ」
黒沼が二人に割って入った。ややふらつく体だ。彼もそうだが、早いピッチでよく飲んだ。
「どうして、わかりました?」
この写真を撮ったのは自分だと店主は言った。壁の写真の古いものはほぼそうだという。
「どうしてって、似てるよ」
「え」
当たり前に返った言葉に、彼は虚を衝かれた。背格好も違い、何より血のつながりがない。外見を似ていると言われることは、これまでなかった。
驚きつつも、礼を言い、写真をもらった。上着のポケットに入れる。義父への土産ができたと思った。




           


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