天涯のバラ
57
 
 
 
映画撮影ののち、彼女の日常はまたレッスンや彼の頼むパーティー、それに取材などの軽いものになった。
温かな気候のある日、それを知ることになる。
彼の急な大阪出張が持ち上がった。無理すれば日帰りできるものだ。彼女の予定を訊き、それに合わせようと思った。出張は明日だが、彼女が友人と会うなりして家を空けるのなら、向こうで泊まるのもいいかと考えていた。問えば、
「あ、急いで帰らなくてもいいですよ。本当は泊まる予定なのでしょう?」
「夜は何してる?」
「速水さんがいないのなら、お邸に行きます」
彼女は都合が合うと、義父につき合ってくれているのを、ありがたい反面、彼はちょっと済まなくも思っている。彼女は苦もない様子だが、務めの延長のようにでも感じているのだとしたら、それは誤りだ。そこまでの義理はない。
「あんまり、義父の相手してやらなくてもいいぞ」
「え」
彼の言葉に、ちょっと首を傾げた。彼女は明日、義父と温泉に行く約束をしているという。昼前に出て、向こうで昼食を摂り、温泉に浸かって帰って来るというものらしい。
「速水さんが出張だって言って、泊まるようにお願いしようかな」
などとはしゃいでいる。本人が楽しんでいるのなら、その厚意に甘えようと思った。
義父は引退後も大株主であり、滅多に現れないグループの名のみの相談役だ。しかし、彼は義父に仕事の相談は欠かさないし、今もそれを通してグループへの影響力は濃い。
彼女は彼が泊まるらしいので、その準備を始めてくれている。下着やシャツやネクタイの替えなどをバッグに詰めている。
帰宅後の寝室での話で、彼はその様子を見ながら、シャツのボタンの上を幾らか外した。
「温泉なんか、あの義父と行って、楽しいか?」
「楽しいですよ」
ご馳走してもらえるし、と彼女はへへと笑う。「わたしは男の家族を知らないから、お父さんと娘がお風呂に入るって、背中を流してあげたりして、ああいうのかなって、思ったりもします」
ベッドに仰向けに寝そべり、ふうん、と話に相槌を打ちかけた。しかし、あり得ないことが含まれていた気がして、彼女を見た。
「…ちびちゃん、義父と風呂に入るようなことを言わなかったか?」
「はい、言いました」
「は」
彼は起き上がった。「どういうことだ?」
「ああ、駄目。畳んだシャツの上に寝て…」
「どういうことだ? 君は、…義父と風呂に入ってるのか?」
「はい。お背中ぐらい流しますよ、温泉ではいつも」
「…裸でか?」
「ええ、当たり前でしょ、どうして?」
彼は頬を張られるような気がした。うろたえて額に手がいく。それは彼の、驚いて度を失ったときの癖で、よく知る彼女は慌てた。顔をのぞき込み、
「大丈夫ですか? どうしたの? 速水さん…」
このレベルの衝撃は、昨今なかなかない。額に手をやったまま、彼は顔を上げられなかった。どこをどう理解していいのか、彼には全くわからないのだ。
しばらくして、彼女が朗らかな笑い声を出した。
「速水さんのお義父さんでしょう。それに会長さんは、もうお年じゃないですか。嫌だな、もう。何がいけないんですか?」
(男は幾つになっても、男の目でものを見るんだ)
喉まで声が出かかったが、辛うじて思いとどまった。理由は、これを優しさと善意のみで行っている彼女には、理解が及ばないだろうと思ったのと、せっかくの、義父と息子の内妻という一見ややこしいのに微笑ましい二人の関係、ひびが入ることを恐れたためだ。
義父の気持ちはともかく、彼女は義父のことを「お父さん」フィルターを持ち見ている節があるのだ。それを彼の言葉で損ねるのは、可哀そうに思った。
いつからかと訊けば、「一年以上は前かな…」。恐ろしい答えが飛び出した。
(俺は何も知らずに…)
ショックはひどく、彼は恨めし気に彼女を見たままだ。振り返れば、彼と深い関係になる以前も、彼女から「ジャグジーに入ろう」と誘われたことが甦る。彼が当然に水着を着ることを勧めたから従ったが、言わなければ平気で裸で入ってきたかもしれない。
(俺は、彼女の紫のバラの人で、親代わりみたいな面もあった)
「変な速水さん」
けろっと出張自宅を終え、彼女は彼をダイニングに促した。ご飯を食べようという。
彼を椅子に掛けさせ、用意した料理を並べながら、
「考えてみて下さい。速水さん、わたしの母さんが生きていて、一緒にお風呂に入ることになったらどうします? ね、全然平気でしょ? それと同じ」
彼女はにこにこ笑い、今日の夕飯のタラとジャガイモの蒸し物を取り分けた。他、玄米ご飯に目玉焼きを乗せたもの、なすとモッツァレラのオイル煮があった。彼女は何でも旨いものを彼に食わせてくれるが、基本自分が食べたいものを選ぶという。
彼は返事に困り、箸を動かした。空腹でもあった。
(平気な訳あるか)
彼女の母親は早くに彼女を産んでいるし、生きていたとして、まだ残る女性のみずみずしさを、自分はきっと男の本能で探してしまうだろう…。とても口には出来ない。
その代わりに、
「…君は、黒沼さんとでも、一緒に入れるんだろ? きっと」
彼女は玄米ご飯の上の目玉焼きの黄身を潰しながら、「あ、黒沼先生ならいけます」と変な返しをする。
要するに、彼女自身が男性として見ていなければいいらしい。
(山岸理事長もいけるはずだ)
「桜小路は?」
「駄目」
即座に返ったので、まあ良しとする。
「速水さん、勘違いしないで下さいね。わたしは、誰とでもお風呂に入る訳じゃないんですよ。また、おかしな子供だと思ってるでしょ、ちゃんと女の自覚はありますから、大丈夫です」
「…他はいないか? いけそうな男は」
彼女はご飯を食べ、目を宙に彷徨わせた。こんな質問に、考えて答えを出そうとするところを、彼はすごいと思う。ふと、彼を見、
「聖さん、いけます」
変な大声を出しそうになり、口を手で覆う。彼女を見つめた。
聖を男として見ていないからこその、答えのはずだが…。逆に先ほど、桜小路を「駄目」と言ったが、それは、しっかり男として見ているということだ。
(喜んでいいのか、そうでないのか…、わからん)
ごくごく喉を鳴らしてビールを飲んで、彼女は彼が話さないのを、「口に合わない?」と平和な発想をして訊く。
「そうじゃないよ、おいしいよ。ありがとう」
確かにどれも旨いのだが、どこか機械的な返しになった。
やはり、義父とはいえ、一緒に風呂に入っているという事実は、かなり重く。頭に重石になって載ったままだ。
今、彼が叱りつけ、悪しき習慣を止めさせたとして、彼女がそれを守るかどうかは怪しい。昔からもそうだが、頑固で独立独歩のマイペースな子なのだ。
彼がいない場で、「速水さんおかしいんですよ、変なこと気にしちゃって。あはは」。「度量の小さい奴だな、あいつは昔から大局的にものを観るのが下手だった。今も変わらんな。ははは」…。などと二人して笑われてしまうのがオチではないか。
日常、彼が誘って彼女と風呂に入ることも多い。抱く前であったりその後であったり、情事とは関係ない場合もある。そのひとときに、彼は疲れや面倒を忘れ、癒してもらえるような別世界を味わっているのだ。
何か着ていても欲情するが、着ていない彼女も大好きで、湯の中でその肌を眺め、触れるだけでもうっとりとなる。
それは彼女と日々を共有している、自分のみの大きな特権であると、意識しないまでも、知ってはいたのだ。
(それを、義父に犯された気がする…)
彼女が何を話しても、意気消沈とした彼を彼女は気遣い、「どこか、具合でも…?」
「いや、違う、そうじゃないよ」
「そう…。じゃあ、後で一緒にお風呂に入りましょうか? 速水さんの髪を洗ってあげる」
いつもなら飛びつく提案も、この日はすぐに返事をできなかった。馬鹿なことを考えていたからだ。
今夜彼女と彼が一緒に風呂に入る。そして、明日は彼女が義父と一緒に温泉に入る…。
(親子どんぶりなのでは…)
意味は違うと思ったが、そんなことをふと思い、ため息が出た。しかし、この日自分が見ていない彼女の肌を、義父に明日見られるのも、業腹だ。「うん、そうしよう」と頷いた。
「出張、どうします? 泊まる?」
「君はどうしてほしい?」
「え、どっちでも。速水さんの都合で、どうぞ選んで」
一年以上も前からたびたび、義父と温泉に出掛けていたというのだ。今更その一回を潰したところで、メリットはほぼない。過去は消せないのだ。
日帰りにすれば、向こうで組んでもらっている接待はふいになる。行きたい訳ではないが、大スポンサーが相手では、彼が顔を出すことは大きな意味があった。
(どのみち、翌日の午前中の便に乗る予定だ)
彼は泊まることを告げた。彼女は「はい」と頷き、ちょっと上目で見る。
「速水さんは大阪でも、夜は「手品」できっと忙しいでしょ…」
いつか、彼が接待の場でホステス相手にして見せた、座持ちの芸をそんな風にからかうのだ。彼女に拗ねられたあのときだって、彼は慌ててその機嫌を取るのに忙しかった。
今もまた、彼の動揺を冷静に観察して、楽しまれているようで面白くなかった。
「どの口が、そんな嫌味を言うんだ」
手を伸ばし、彼女の頬を軽くつまんだ。
彼女はちょっと舌を出し、「紫のバラを贈ってくれた誰かさん、譲りですよ」と笑う。
そう返されると、彼にはぐうの音も出ない。




           


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