天涯のバラ
58
 
 
 
出張を終えて数日後、彼は帰宅前に速水の邸に足を向けた。定期の業務の報告のためだ。
居間で義父を前にそれを済ませ、煙草に火を点けたとき、義父が不意に言い出した。彼がマヤとの子供を望んでいるのか、と訊く。
義父に話したことはないが、彼女とはそろそろ、と話し合っていた。今年は『紅天女』も公演の予定はなく、彼女は他にも大きな仕事を持っていない。妊娠・出産を迎えるには、いいタイミングでもある。
「ええ、僕もそうですが、彼女が強くそれを願っていて…」
義父はテーブルの前の碗を取り、お茶を飲んだ。何かを言い淀む様子は、この義父に珍しい。彼の気持ちなど忖度する柄ではないのだ。
「何か?」
彼が今も妻帯者であることに苦言を言うのなら、それにははっきり抗弁しようとしていた。
紫織との破綻した婚姻関係はもう八年にも及ぶ。互いに消息も知らず、関わりは全くない。本来なら、妻に斬られた際に離婚を突きつけたいところだった。それを耐えたのは、主に、妻の体面を重んじてのことだ。
彼がマヤとの間に子を設け、それについて妻の実家が文句を付けるのなら、「いい加減にしてくれ」と突っぱねる気持ちでいる。人としての自由を制約するのだ。黙っていられないのなら、それを理由に離婚をねじ込むつもりでいた。
今、鷹宮グループ内の不祥事が影響か、鷹宮翁が体調を崩して入退院を繰り返して長い。一度見舞ったが、彼はそれきりだ。その死を待つ考えはないが、あちらの家の事情が少し落ち着いたら、正式に離婚を申し込もうとは考えていた。
向こうがのむかは、関係がない。端から無駄だと決めつけ、行動を示したことがない自分を、この頃、彼女を前に、悔やむことも多いのだ。
「お前は、マヤが絡むと、どうしてそう感情的な顔をする? いい年をして、もっと冷静になれ」
「なっていますよ」
彼はむすっとした声で答え、煙草を口にくわえた。義父はちょっと面白がるような顔つきで彼を眺め、
「あの子が、わしにどう思うかを訊いてきたんだ。お前との子供ができたら、迷惑じゃないか、と」
「お義父さんは、何と?」
「欲しいのなら、産めばいいと言った。お前が認知をすれば、済む話だからな。鷹宮の嫁さんのことは、もういいだろう」
その答えに、彼は荒立ちそうになった気持ちが凪いだ。
義父はそこで、「少し調べたが」と前置きし、紫織の今の様子を話した。親族がよく見舞っているようだが、生活に変化はないらしいという。変化がないということは、回復もない、ということだろう。
彼は相槌も打ちたくなかった。目を下げ、煙草の灰を落とすことでそれに替えた。
先ほど、気強く離婚を意識したが、数年前に会った妻の面影がふと思い出され、そこに冷や水を浴びるような気がした。紫織の様子は、婚約時の令嬢らしく良かった頃を知るだけに、あまりのその落差に、彼も胸は痛んだのだ。
担当の医師の診断では、彼を斬ったことへの罪悪感と後悔、それらを強く引きずり、抑鬱傾向にあるといった…。
(それも随分前の話だ)
興味もなく、身体が妻との接触を拒否し、何の情報も得ていない。
鷹宮家への遠慮や世間体でないのなら、何が問題なのか。
「産むのはいいが、産んだらあの子は子供を連れて、お前の元からいなくなるんじゃないか? 何か、そうなる気がしてな…」
「は」
「ちょっと考えた。…家内と違って、あの子は欲がない」
「母も欲の強い質ではありませんでしたよ」
彼の知る母は、まさに滅私奉公を体現したような人物だった。義父の影にひたすら控え、その邪魔にならぬよう、怯えつつ過ごしていた。この家で、夫人となり幸せそうだった母など、彼は知らない。
「お前が知らないだけだ。あれは、速水の家に執着していたぞ。お前のためにな。子供のためでも、それは欲じゃないか」
「それは…」
確かに彼の知る母はそうだ。母自身へのものではなくても、彼の将来のために、何としてでも義父の意を迎えようと、懸命だった。「堪えてね、真澄」、「我慢してね、いい子にしてね」…。そんな母の声は、今もまだ覚えている。
それは紛れもない、母の彼を思っての愛情だが、子供に託したおのれの夢という欲なのかもしれない。
「マヤにはそれがない。お前の子供は欲しいのだろうが、お前の名前も、速水の名もあの子は要らん」
それを、義父は「欲がない」と言うのだ。
子供を作る話をするとき、彼は当然に二人で扶養するものと考えていた。彼女とこれまでと同じく共に暮らし、その子の成長を見守るのだと、信じていた。
彼が妻帯者であることは、大きな障害になる。しかし、彼女は「父親の名は公表しなければ…」と述べていた。そうして、彼の離婚の成立のときまでを稼ぐつもりであのだと、彼は思っていたのだ。
「しばらく、アメリカに行ってもいいし」とは、彼女の言だ。彼は許すつもりはない。身重の身体、もしくは乳飲み子を抱えた彼女を、そんな遠くに行かせられる訳がない。離れるのもまっぴら御免だった。
彼は煙草をもみ消し、義父を見た。「どうして、あの子が僕から離れると?」
「あの子は、ちょっと不幸に淫するところがあるな。女優としては、それがいい目に出るのだろうが、家庭人としてはどうか…」
「いい子ですよ。僕のために何でもしてくれる。お義父さんだってよくご存じでしょう? 背中まで流してくれる子は、あの子ぐらいですよ」
義父は大笑いした。温泉の件をあてこすられておかしいのだ。彼はちっとも面白くはない。
笑いを収めてから、
「欲がないということは、お前に対しても、ということだ。子供を持てば、女は変わる。お前の立場など、あっさり奪われてしまうぞ」
それは彼も今から危惧していることだった。第一子に向ける愛情は、彼へのそれを凌駕するだろうとは、想像する。
「それに…」
義父が言葉を切ったので、彼はまた彼女が何を言ったのか気にかかった。顔を伏せ、髪をくしゃっとかきやって、言葉を待つ。
自分もそうであるが、義父の前では、彼女との関係を伏せる必要がなく、とても楽でいられるのだ。外で彼女を伴うときは、常に人目を意識し振る舞っている。それは容易いことに思われたが、彼女との時を重ねるにつれ、彼の中で重荷になりつつあるのだ。
ごく些細なことでも、彼女とは距離を取らなければ行動ができない。単に食事をするだけでも、ひどく場所を選び、人目を避ける。旅行すら、満足にできない。
他人が、公然と手をつなぐ、寄り添う、「恋人だ」、「妻だ」と公言できる、当たり前のそれらの自由を、彼は強く羨む自分を知っていた。
「マヤは、自分はお前に相応しくないと思ってる。愛人だから、いいのだと」
「馬鹿な。まだそんなことを、あの子は。僕など、仕事を取ったら、単なる背中に傷のある中年でしかないのに」
「わしもそう言った」
ちょっと喉の奥で笑った。
ふと思う。彼女が義父につき合うのは、彼のためもあるし、その心根の優しさからだ。だが、彼がそうであるように、彼との仲を隠す必要もない義父の前では、楽にいられるのではないか、そう感じた。
「子供を持てば、それがお前の代わりになる。あの子は欲が薄い分、それで十分満足するだろう。後はお前もわかるな。あの子にはもう選択肢が多いぞ。…せっせとエサをやって育てて、大きく育ったら雛は空に飛んでいく…。お前はおかしなことをするな」
義父が皮肉るのは、紫のバラのことだ。彼は言わないが、彼女がその恩を話したのだろう。
彼女には大きな名前と、女優の腕がある。彼に頼らずとも、もうどこでだって仕事ができるのだ。日本にこだわる必要は何もない。
彼女から、決意や意志の一端なりと告げられた訳ではない。
しかし、子を産み、考えが変わらないとは限らなかった。その子のためにこそ、彼と離れることを選ぶかもしれない。考えたくはないが、彼との間の子は、どれほど望んでも愛しても、不義の子であるのだから。
義父の言葉が、腑に落ちる。覚悟もその行動力もある彼女だ。そのリスクは十分にあるのだ。
「そこでだ」
義父の声に彼は顔を上げた。




           


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