天涯のバラ
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「あの子を養女にしようかと考えている。しばらくして、マヤが子供を産んだら、お前がその子を特別養子縁組すればいい。実子の扱いになる」
「僕と彼女が兄妹ですか?」
「手放したくなければ、そういう手もあると言っている」
のち、あの子にも何か遺してやれるだろう、と義父はつないだ。遺産のことを言っているのだと思った。
昔、彼の母と結婚した際、義父は保有する自社株のかなりを、条件付きで母に分けている。それは親族仲のよくない義父なりの防御策だったのだろう、と彼は思う。母が死に、その株はそっくり彼が相続する形を取った。義父の親族はそれに不満はあったはずが、文句をつけられなかった。
同じことをまたマヤに対してしようとしているのかもしれない。彼女の子が長じて、株を相続できるように。
分割を、自己が支配できる小さな核にのみ許してきた義父の、この判断は、彼女への大きな好意と共に、グループへの執着が薄らいでいることも感じさせる。将来の読めない彼女との関係に、委ねようとしているのだから。
(その保険として、養女か)
抜かりのなさは、義父らしいと思った。
「今後離婚が成立したら、僕は彼女と結婚できないんじゃないですか?」
「そんなもの、そのとき解除すればいいじゃないか」
何度か頷いて、概ね了承の形を取った。紫織とのしがらみが解けない以上、義父の提案は最善かもしれない。結婚にこだわらない彼女には、受け入れ易い形であるのかもしれなかった。
(それに…)
あの状態の紫織を離婚して切り棄て、彼女を選ぶ選択を彼がした場合、彼女は自分を許すだろうか、そんな疑問がふと頭をもたげるのだ。彼の冷酷を責めることはしないだろう。だが、それをさせるのが彼女の存在であることを、
(マヤは許さないかもしれない)
彼女は誰かの不幸の上に、平気で立てる性格をしていない。だからこそ、せめてもの罪滅ぼしに、愛人のままでいいと、影でいることを望むのではないか。それを、義父は「不幸に淫する」と言うのだろう。
前に彼女が珍しく、友人に感化され、不動産を所有する欲を見せたことがあった。本当に奇異なことで、彼はその後も覚えていて、理由を訊ねた。
郊外のそこが、「動物を飼ったりして、のんびりできそうで羨ましくなっただけ」と言っていた。義父の言葉の後にあれを思い出せば、子供を産んだ後に住む場所を考えてのこと、との見方もできる。
彼女の好きな場所に買おうか、と彼は提案したが、「要らない」と慌てて首を振った。そのときは、そこまでの興味がないのかと引いたが、今はもうその拒否の意味が、彼の中で変わっている。
「動物を飼ったりして、のんびり子育て出来そうで、羨ましくなった」のだろう。
(彼女一人で)
もう、義父を前に、ため息しか出ない。
自分から義父の申し出を彼女に話すと言い、椅子を立った。この日は、彼女は友人と会うと、出かけていた。いつもとは逆に、彼が迎えに行く約束をしている。
夕食を終え、所要のメールを幾つか送るうちに、いい時間になった。帰宅する旨を義父に言えば、
「早めにな」
と念を押す。彼女への養子縁組の話だ。「こじれそうになったら、強く押すな。わしに投げろ、いいな?」
「ええ」
車寄せで、彼女からの電話が来た。場所を訊き、今から向かうことを伝え、短い通話を切った。
車を走らせ、義父との会話が甦った。その提案に、彼は少し驚いていたのだ。マヤを気に入ったのは知っていたが、あそこまでとは思わなかった。
ふと思う。かつて義父は、実際的な必要から男児を求め、彼を養子にしたが、本来は娘が欲しかったのかもしれない、と。
(彼女を手放したくないのは、俺だけではなく、義父もそうなのだ)
以前、義父と共に、それぞれ違った理由から『紅天女』を求め続けた経緯がある。今もまた、互いに違った執着を持ち、『紅天女』を獲ったマヤを手放さぬよう策をめぐらせているのだ。
(奇遇というか、なんというか…)
我がごとながら、あきれて苦笑が出る。
どうあれ、囚われていくのだ、とあきらめが走る。しかし、それも、『紅天女』に魅入られた男どもの末路としては、決して悪くないと彼は思うのだ。
ネクタイを解いた。粗く畳んでポケットに入れる。それは彼女はいつの間にか見つけ、クローゼットの決まった場所に掛けられるのだ。
と、迎えの途中の信号待ちで、閉まりかけの花屋を見つけた。店員が表のバケツをしまい始めていた。思いついて、角を曲がり路上駐車をした。禁止区域だったが、急げば構わないだろう。
足早に店内に入る。ガラスのショーケースに目当てのものを見つけた。
「何本ご用意しましょうか?」
「全部下さい」
驚かれたが、しれっとしていた。このように、自分で用意したのは、紫のバラを通しての彼女とのつき合いの中で、幾度あっただろう。
二十本程のそれを包んでもらい、手に提げて車に戻る。急いで乗り、エンジンをかけた。車内がむっとバラの匂いに包まれた。
何の記念日でもない。何を祝うつもりもない。
(ただ、これを贈りたくなった)
彼女がいるのは、友人宅のマンションだった。着いて、付近に車を停めた。合図のつもり、ケイタイを鳴らした。彼は車から降り、煙草に火を点けた。生ぬるい初夏の風が吹く。
ドアに背を持たせていると、足音がした。高いヒール靴をはかない、彼女のものだ。彼が目を向けば、建物のエントランスのアーチ部分から彼女が走ってくる。
白いアイボリーのワンピースだ。以前「オールシーズンです」と言っていたが、酷暑は避けるが、本当に季節を問わず着ている。
ぶつかる勢いで駆けて来て、ふわっといい香りをさせて抱きつくのだ。
「どうした?」
「…昔みたい。速水さん、そうしてわたしを待っていてくれたこと、昔、あったの」
ちょっと笑った。彼女は知らないはずだが、彼にそんなことはたくさんあり過ぎて、わからないのだ。
それに、と思う。彼女が言う「昔」、彼は嫌われていた。こんな風に、彼女から嬉し気に走り寄って来られた経験はない。今の彼女の彼への思いは、過去まで変えるものらしい。
助手席に乗った彼女は、すぐに後部座席のバラに気づいた。ひどく驚いた顔をしている。彼とバラを交互に見て、やや怪訝な声を出す。
「どうしたの?」
「昔みたいだろ」
「うん…、嬉しい。ありがとうございます」
「君はいつまでも、堅苦しいな」
「速水さんだって、いつまでも、ちびちゃん、言うでしょ」
「あれは、愛称みたいなもんじゃないか」
「じゃあ、わたしもそうです」
「…まあ、いいか」
このバラに、いつかの彼女への応援や支援の意味はない。あるのは、何気なく、いつでもある彼の彼女への思いだ。
彼が贈り続けたバラは、こんな彼岸にまできた。




           


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