天涯のバラ
61
 
 
 
その申し出は、彼を少なからず驚かせた。
時間通りに、相手が現れると彼はデスクから立ち上がり、ソファへ掛けるようを勧めた。相手が座り、少し辺りに目をやったところで、秘書の水城がコーヒーを手に部屋に入ってきた。
秘書が下がり、また二人になる。彼は自分のコーヒーは要らないと、言ったため、彼の前にはそれがない。相手は、コーヒーに手を付けずに、少し言葉を迷うようにしている。
この日、彼に予定を空けさせたのは、鷹宮グループの親族の一人だ。用があるからぜひ時間を欲しいと電話で告げられ、そう忙しくないのは彼も知っていたが、間を取り、敢えて秘書に予定を探らせた。
午後からなら少し時間が取れるという彼に、相手は自分から彼の都合に合わせ伺うと返してきた。
(どういう風の吹き回しだろう)
これまで、鷹宮家と関わる際は、必ず彼がその社屋や会合場所や邸に足を向けた。相手から来たことはない。それは、家柄や企業グループとしての規模の差だった。唯一の例外が、紫織が彼を包丁で斬りつけたときだ。
しかも、彼を目指して会いに来たのは、紫織とは婚約中から今に至るまで、彼を毛嫌いしている素振りを隠さなかった相手だ。紫織とはまたいとこに当たる人物で、グループ内のある企業の取締役を務めている。鷹宮翁の覚えのあまりめでたくない男だったはず、と彼は記憶を引き出した。
五十に手が届く年齢、早くも髪の半分を白くしている。中肉中背の、特に目立った容貌ではないが、あの独特なファミリー内で生まれ育った男だけに、特殊な貴族的な匂いとさすがの上品さがある。
どういう理由でこの男から、時折辛辣に罵られてきたのか、彼ははっきりつかめないでいたが、大方、自分たちとは育ちが違うことが鼻についた、せせこましいテリトリー意識なのだろうと、目星をつけていたのだ。
「どうなさいました? 今日は」
忙しくはないと言っても、暇ではない。気まずい男との沈黙にも倦んで、彼は促した。男の仕事とは、彼のそれは関係がないはずだ。彼の側には訳もメリットもない、けったいな面会なのだ。
ちなみに彼は、この日機嫌がよかった。その気持ちのゆとりが、声に表れた。それに押されるようにか、相手が、口を開いた。
「紫織ちゃんと、離婚してくれないか」
男はそう言い、上着の内側から一枚の紙を取り出して彼の前に広げた。それは離婚届で、目を見張ったのは、既に彼の知る紫織の筆跡で署名も捺印もなさていることだった。
彼は手に取った。男がそれを遮ろうとしたが、少しだけ彼が速かった。
「これは? 妻の意志ですか?」
「そうだ。もう君の妻でいる理由がない」
彼は突然のこの局面に驚愕したが、それを面に表さず、訊くべきことを質す理性をすぐに取り戻した。
男はまず、彼と紫織との婚姻が破綻して長いこと、紫織の側にも継続の意志がなく、彼にも紫織を妻としている利益もないだろう、と言った。
「僕は、妻から離婚の意志を一言も聞いていませんよ」
「それは、わたしが止めた。あの子は、紫織ちゃんは君に一言あるべきだと言った。わたしが、それを止めさせたんだ。会う必要がないと」
紫織ちゃん、紫織ちゃん…。親族同士の親しさが、言葉の端々に出て来るが、彼のような他者には、違和感が強過ぎた。五十近い男が、四十に近い従妹の紫織を甘ったれた愛称で呼ぶのは、耳にいいものではない。
ふと、そこで、この目の前の紳士と言っていい男が、長らく自分を毛嫌いしてきた理由が見つかった。所有の大型クルーザーを駆るのが趣味の、身軽な独身貴族だったはず。
「…ご結婚の予定ですか? 紫織、さんとは」
男は彼の問いに、虚を衝かれた表情をのぼせた。「ああ」と答えた後で、顔をやや伏せた。紫織が既に妊娠していると告げた。
その言葉に彼は敏感になり、声もやや尖った。
「何か月です?」
「君に、文句を付ける権利はないぞ。知ってるんだ、こっちは。あの北島マヤとは内縁関係じゃないか。偉そうなことは口に出来ないはずだ」
その写真一つ持って、話を有利にしようという腹もなく、ただ言葉だけで「権利はないぞ」と彼を責める男の上品さに、彼はちょっと呆れた。
ただ、知りたいことを、もう一度声を和らげて訊く。
「おわかりでしょう? 僕はその子の父にはなりたくない」
離婚後、ある期間を経ないでの出産で生まれた子は、前夫の子供となる。彼が気にしたのは、それだけだ。男は直截的な話に、鼻白む様子を見せたが、妊娠はまだ初期の二か月ほどだという。
「間違いはないですね?」
「こんなことをどう証明しろと言うんだ、君は」
「母子手帳は?」
「は?」
「それを、今すぐ彼女でも婆やさんでも、画像を送ってもらって下さい。それが確認できたのなら、すぐに出もサインしますよ」
男は彼を睨みつけた。「紫織ちゃんの気持ちを考えてみろ、何て浅ましい確認作業を求めるんだ。わたしが、そう言っているのが信じられないのか?」
「信じていますよ。でも事が事です。その追認はさせていただきます」
彼が折れないのを見ると、それだけを済ませれば、サインをもぎ取れる見込みができたからか、男は腹立たし気でも自分のケイタイを取り出し、ある場所へ掛けている。
相手は紫織らしい。優しい声を出し、彼の要求を頼んでいる。
その様子を眺めながら、この男は従妹の紫織を長く愛してきたのだろう、と感じた。自分にとってのマヤがそうであるように、この男にとっては紫織がそうなのだろう。
(俺の存在が面白くなかった訳だ)
ずっと年下の美しい従妹に恋をした。しかし、親族の長者である鷹宮翁が、紫織には親族外の彼を娶わせた。素性の知れない劣り腹の彼が憎かったはずだ。更に紫織は彼との結婚で、心に傷を負う目に遭っている…。
彼らの結婚が破綻し、何かの契機に、二人は接近することになったのだ。親族のこだわりを先に捨てたのは、この男の方か、紫織の方か…。
自分に似せようとしている思いの流れがおかしく、彼は想像を打ち切った。そう、遠くもないと確信しながら。
程なく、紫織から男のケイタイへ画像が送られた。それを男は彼にかざして見せた。妊婦の氏名、受診の日付とその妊娠経科日数などが、まだ記録の少なく並ぶページ下部に、医師の判が押されている。
彼は手近の紙ナプキンに、その産婦人科医の名を控えた。そのまま自分のケイタイで更なる確認を取ろうとして、止めた。確認は怠らないが、後で一人のときにしようと思い直したのだ。
親切な感情が湧くのは、やはりこの日、彼の機嫌がいいからだ。




           


パロディー置き場へどうぞ♪


お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪


ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪