天涯のバラ
62
 
 
 
彼はそのままデスクに戻り、離婚届にサインと署名を済ませ、男へ差し出した。
「どうぞ」
手を伸ばした男へ、それを渡した。「僕が出してきましょうか?」
「いや、紫織ちゃんと約束してある。わたしが出してくることを。この足ですぐに役所に向かうよ。…どうせ、君はその後確認を取るんだろう」
当たり前だ、と思ったが黙っていた。
代わりに、
「マヤとのことは、内密に願います。興信所を使われたはずですが、そのデーターがあれば、全てこちらへ下さい」
「…写真が二枚のみだ。わたしが報告を受けたのは」
それをくれるとも、渡すとも男は言わない。彼はまた男の前に掛け、こちらの要求に応じてくれないのであれば、今後そちらがそれらデーターを使用する目論見がある、と彼は見なす、と告げた。
男は眉をひそめる。
「渡していただけないのであれば、それも結構です。のち、それが使用されたと僕が感じたとき、相応のことはお返しいたしますよ」
「何を?」
「七年前の、僕が斬られたあの事件のことですよ」
「そんな古いことを。大体、カルテももうない」
失笑する男に彼はかぶせて、
「そんなもの要りませんよ。背中の傷を僕の過失の事故に見せかけたこと自体に、無理があるんですから。全部晒しますよ。うちの家人が見ている。要は噂が立てばいいだけです、証拠は必要ない」
事故時の物証は既にないが、一つボイスレコーダーがあるのは伏せておいた。紫織の声と彼のものが入り、救急車の到着までの状況が生々しく記録されている。これは使用人の機転でなしたものだった。
「そんなこと出来る訳がない。君の名前だって出るんだぞ」
「だから何です? ちっとも構いませんよ。その際の手記は僕が書いてもいい。信憑性は抜群ですし…。その方が効果的だ」
苦々しく考える風で、男は、「どうすれば、君は納得するんだ?」
「今、お使いの興信所に連絡して下さい。データーを全て僕の元へ送るよう指示して下さい」
「それで済むんだな?」
「ええ。二度とこんな場を繰り返さないために、徹底しておきましょう」
男は再び自分のケイタイを出し、電話をかけた。彼の要求通りの指示を出す。通話を切った後で、苛立たしいように吐息した。「やくざのやり様と何が違う」
そのやくざを軽く見て、大火傷をしている鷹宮グループの親族役員が何を言う。と彼は内心おかしかった。
鷹宮グループ物流部門の大トラブルは、まだ尾を引く。逮捕者も数人で出た。業務提携企業がイメージを恐れ、次々撤退していっていると聞く。前期から続く大規模な収益減で、企業としてかなり瀬戸際に来ているらしい。身売りの噂までが出てきていた。
その発端は、都合よく使ったやくざ組織を侮り過ぎたためだ。
「鷹宮さん」
彼は男へ呼びかけた。
「僕が、いつ妻の素行を調査させましたか? 離婚に当たっては、僕も考えないことはありませんでしたが、あなたと同じやり方を取ろうとは思わなかった。その理由は、妻の現況を慮ったからですよ。現状を作ったのが、妻自身の夫の殺人未遂であっても」
「君は…、口にしていいことと悪いことが」
「あなたは、人に包丁で斬られたことがありますか? 出刃包丁ですよ。それで背中を斬りつけて、彼女は更に僕へ切っ先を向け、振り被った。…それだけのことがあっても、僕は彼女を見舞ったし、離婚を自ら申し出なかった。自分に有利に離婚を進めるため、妻を調査しようなどとは思わなかった。…それに、先に脅迫めいたことを口にされたのは、あなたじゃないですか」
少し饒舌過ぎたと、苦笑した。咳払いのついでに、「どちらが極道に近いか…」とだけはつぶやいておいた。
男は渋面を作ったまま、言葉を返さなかった。ややして、軽く頭を下げた。謝罪が欲しいのではなかったが、やや留飲は下がった。
「これで、収めてくれないか」
「頭を上げて下さい。僕も言葉が過ぎました。…八年です。この結果が出るまで、妻もそうでしょうが、僕にも長く無為な時間でした…」
「そうだな」
男が部屋を出るその背に、
「ああ、例の記事も今後は止まることを期待しております」
斜めに振り返ったその頬に、やや朱が射した。図星を指摘され、赤面したのだろう。返事はなく、そのままドアが閉まった。
マヤと彼がセットで書かれるでたらめなスキャンダル記事の黒幕は、あの男だと何となく気づいてはいたが、確証がなかった。探りを入れなかったのは、マヤとのことをつかまれれば、藪蛇にならぬかとの危惧もあったからだ。適当にぶつけたら当たったので、彼の側がちょっと驚いたほどだ。
長くもない会見を思う。一度も、妊娠している紫織へのいたわりの言葉が出なかった。心の安定はどうなのか、問うこともしなかった。自分を嫌な男だと振り返った。
目の前にはだかるように感じられた、鷹宮家を、いつから自分は、畏怖しなくなったのだろうか、と記憶を手繰ってみる。そもそも、その恐れこそが、義父の要求を丸のみし、紫織との婚約を断れなかった大きな原因なのだ。
鷹宮への恐れには、彼自身の実業家としての色気もあった。畏怖と欲望が混じり合ったそれは、マヤへの思いとは決して相いれなかった。
婚約から、結婚へなだれ込む、忌まわしい流れの中、彼は自分の意志を捨てたことを思い出す。あるとき、紫織を取り巻くものを改めて眺めたとき、毛色のいい集団が同じような意図を持ち、寄り集まっているようにしか見えなかった。
あの中にいることは、鷹宮の名を何よりの誇りとし、殉じることだと知った。そのものになるのだ。いつしか、その中に溶け込もうとする意欲は削がれ、その名に魅力すらも感じられなくなった。
欲望と恐れは表裏一体なのだろうか、と彼は思う。鷹宮への栓のない色気が消えたとき、あの集団を特に怖いと思わなくなった。
いつか、義父が鷹宮家の親族連を指し「美しいグッピーの群れ」と例えた。上手い例えだと彼は思う。
そして、群れにはグッピーならグッピーの、それ守るために特有の法則があるのだ。法則は、意味なく他者を攻撃するためにあるのではない。必ず、群れを守るために使われる。それに気づいたとき、彼は群れとの距離の取り方を覚えた。拒否することが、難しくないと知った。
煙草をくわえ、火を点けた。最近は外でしか吸わない煙草を、ゆっくりとふかしながら、しかし、とも思う。
自身の、紫織に対するいたわりのなさをやや恥じるが、その余裕などなかった。鷹宮の口から、マヤの名が出てから、そのことに意識が急速に傾いたのだ。彼女に累が及ばないよう、名が汚れないように、必死になったのだ。
それは、あの男も同じだ、と彼は感じる。彼の妻である座から、無事紫織を引きはがすことに遮二無二だったのだ。だから、相手は卑劣な手を使うし、彼は他の女など頭に上りもしなかった。
(そう、互いに、一番身近な大事な女を庇おうと、懸命だっただけだ)
煙草を一本吸い終わり、水城が現れた。鷹宮家の人間が何を、と問いたそうな表情だ。彼は煙草をもみ消しながら、
「離婚が決まったよ」
とのみ答えた。
「え」
マヤに予定の電話をしようとして、デスクに戻りかけ、その背に物音を聞いた。振り返ると、水城が手のファイルを落としている。口元に手をやり、茫然としていた。
(初めて見た)
冷静で理知的な秘書の驚愕した様は、見ものだった。
すぐに秘書は居住まいを正したが、やはり表情に驚きが抜け切らない。彼もそうなのだ、長く彼につき合わされてきた秘書のそれもおかしくはない。
「おめでとうございます。ご離婚の際に申し上げるべき言葉ではありませんが」
「ありがとう。実は、そうでもないんだ」
彼は「他言は困る」と前置きし、紫織がそう遠くなく、親族の男と再婚するとのことを告げた。
「…さようですか」
頷き訊いていた秘書は、「ご出産に間に合うとよろしいですね」と微笑んだ。
どっちの話かと思ったが、これは紫織のことだろう。彼は水城に、不思議そうな目を向けた。何故紫織の妊娠まで読めるのか、見当がつかない。
「そんなに驚かれなくても…。殿上人が、離婚のお話を持って、汚れた下界に自ら談判に来られたのでしょう? 人も連れずにいらしたとなれば、よほどの差し迫った事情がおありなのでしょうし。女性の差し迫った事情となれば…、大して選択肢はありませんわ」
秘書の察しの良さには今回も舌を巻く。彼はちょっと笑い、
「その通りだよ。しかし、大都芸能は汚れた下界か?」
鷹宮翁が、その影響力でもって政財界の天皇と呼ばれた時期もあった。「殿上人」も「下界」もそれを揶揄ったものだろう。
「あら、マヤちゃんが我が社に入ってくれた頃ですわ。わたし、紫織奥さまのお付きの女性にはっきり言われました。「秘書といっても、こちらの秘書では、『やりてばばあ』みたいなお仕事でしょうね」と」
(は)
水城が『やりてばばあ』なら、彼は女郎屋の亭主だ。所属の役者や歌手連は…、言うに及ばず、だ。
それらがあっての、汚れた下界、なのだ。
「それはひどいな。悪かった。そこまで言われたら俺に上げてくれ」
「…あんな人たちに囲まれてお育ちの方ですし、さぞご苦労なさると思いました。案の定、でしたが…」
彼は苦笑で返した。水城が次の予定を告げ、下がる際、「例外は設けてもよろしいでしょうか?」
「え」
「主人です」
「いいよ、もちろん」
一人になって、デスクの上のケイタイを取った。彼女に電話を掛ける。午前にかけたから、二度目だ。
彼女は今妊娠四か月になる。三か月のとき軽く出血し、流産の恐れから安静を言い渡されていた。入院するまではないが、動き回るのはよくないとのことで、彼の邸にしばらく滞在していたのだ。
その後異常がなく、医師の許可もあり、今はいつものマンションに帰ってきていた。邸では人にものを頼みがちになり、「身体がなまる」らしい。普段の家事や軽い運動も推奨されているため、一人にしておくのは心配だったが、彼も頷くしかない。
『あ、速水さん』
「大丈夫か? おかしなところはないか?」
彼女の妊娠後、流産の危惧を聞かされてからは、毎日仕事中こんな電話を掛けている。何かにつまずいて転んでいやしないか、急に具合が悪くなっていないか…、不意に不安になるのだ。
彼の問いに、電話の向こうで彼女は笑う。胎児の順調な様子は、一度目の検診後の電話で聞いている。それが、この日彼が機嫌のいい理由でもあった。
彼女の様子を問い、それに答えがある。彼は、離婚の決まったことを告げようと思ったが、電話でするより、直接言いたくなった。
「早目に帰るよ」
と通話を終えた。その後すぐ、今度は懇意の弁護士に電話をかけた。会社の顧問弁護士とは違い、私的な案件を依頼している弁護士だった。義父個人が長く使っている者だったが、私的な用事も少なく、彼も何かあれば同じ弁護士に依頼をしてきたのだ。
依頼があるので、この後で人を寄越してほしいと頼んだ。それで、用事は終わる。




           


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