天涯のバラ
63
 
 
 
いつもと似た時刻に帰宅した。彼女のお腹はまだ目立つこともなく、これまでと同じ服を着ている。
彼女につわりはないが、食べ物の好みに偏りが出たのは、その代わりなのかもしれない。この日も、最近凝っているクリーム色の献立が食卓に並んでいる。
「また、白い、って思ってるでしょ」
椅子に座った彼に彼女が言う。確かにそう思ったが、彼に不満はない。何でも旨いし、夕べと同じものが並ぶことはないのだ。
「大丈夫です。これは、鮭をキャベツで巻いてあるの」
それを彼の皿へ取り分けながら、彼女が言う。「大丈夫です」がおかしくて、彼は笑った。昔から変わらない、彼にものを言うときの枕詞みたいな気がした。意図せずに、長く彼は彼女の様子をうかがう目を向け続けていたのだろう。
(それに対しての、大丈夫です、か)
彼女の出産後は、邸で義父と同居することに話は決まっていた。三年に及ぶ二人の暮らしも、残すところは、あと半年ほどになる。
食事を摂りながら、離婚したと告げた。鷹宮家から出された離婚届が受理されたことを、依頼した弁護士が知らせて来たのだ。戸籍抄本を見ても彼にまだその実感はなく、ただ、ほっとした感慨が少しあるだけだ。
彼女は豆やインゲンなどをアンチョビと蒸したものを咀嚼している。旨いらしく、「おいしいですよ」と彼に勧めてから、
「誰が?」
と訊ねる。
「俺だよ。他に誰がいる?」
「え」
それきり彼女は絶句して、しばらく口を利かなかった。単にものが入っているだけかもしれない。
彼は彼女の頬をちょっとつまみ、「何か感想をくれ」と笑った。
「はあ、驚きました…」
気の抜けたような返事だ。衝撃が大きいのだろう。
「俺も驚いたよ」
「…よく、奥さまが受け入れて下さいましたね」
彼女にも紫織の状況は粗方伝えてあった。心の安定が欠けて長いことを知るから、尚のこと、驚きも強いのだ。
「いや、逆だよ。俺が受け入れたんだ。君には、悪いが、まだ申し入れはしていなかった。鷹宮家の事情もあるし…」
鷹宮翁が随分悪いと知らせを聞いていた。それにグループ内の大きな内紛もある。さすがの彼もそこに乗り込んで、離婚を申し出る気にはなれなかった。せめて、トラブルの方のヤマを越してから、との考えだった。
それに、彼女が義父の養女となったことで、出産を速水の家が私的にバックアップするのに、何ら問題がなくなったこともある。父親の問題は依然あるが、「公表しない」との、彼の離婚にこだわりのない彼女の意志もあり、ずるずると現状維持が続いていた。
彼は、怪訝そうな顔をする彼女へ、この日、大都芸能へ鷹宮家の男が現れた、その出来事の顛末だけを話した。
「妻は…、もう妻じゃないな。紫織は、その鷹宮の親族の男と結婚することになるよ。離婚を急いだのは、彼女が男の子を身ごもっているからだ。時期を逸したら、俺の子になってしまうからな」
彼女は箸を止め、やや俯いて聞いていた。彼の話が終わっても、何の相槌もない。それが意外で、彼は彼女の顔へ手を伸ばし、顎を指で持ち上げた。
「どうした?」
彼女は彼の指から逃げ、顔を背け、ううん、と首を振る。単なる「ううん」じゃない様子に、彼は虚を衝かれた。
「気分でも悪くなったのか? 横になるか?」
そう訊ねたくなるほど、彼女の彼から背けた頬は強ばっているように見えた。買物や料理などで無理をしたのじゃないかと、気がかりだった。
「本当に大丈夫」
彼女は顔を戻し、軽く振った。「ごめんなさい。ちょっと、びっくりしたから…」
「…そうだな。でも、丸く収まったということか」
「丸く?」
「そうじゃないか。俺は自由になったし、紫織は母親になる、別の生き方を見つけた。失ったのは、お互い時間だけかもな」
「そうなんだ」
上っ面だけの、気持ちの全く感じられない返しだ。彼女のそんな相槌を、これまでのどんなに嫌われていた過去も含め、耳にした記憶がなかった。ひどく気分を害している、怒っている、そのいずれかのようで、彼は怪訝だった。
彼と目が合うと、彼女はすぐにそれを逸らした。
「ちびちゃん?」
「…びっくりしただけです。そんな人がいるなんて、信じられなくて」
彼女はちょっと笑った。無理しているのがわかる笑みだった。彼はすぐに問う。「どういう意味だ?」
彼女は視線を下げ、両手を組む。それを揉むようにしながら、「だって…」とつぶやいた。
「だって、何だ?」
彼は彼女の言葉の先が気になって仕方がない。その様子を尋常じゃないと見るからだ。紫織の話の何が、彼女をこんな、ある意味興奮させているのか、彼にはわからなかった。
「人を殺しておいて…」
「え」
瞬時、彼女が何を言っているのか、意味が取れなかった。しかし、すぐにそれが彼の紫織に負わされた怪我のことを指すのだと気づく。
彼は彼女の組んだ指に触れ、「大丈夫だよ」と言った。彼女が彼のことで憤ってくれているのがわかり、気持ちが暖かくなった。こういう心持ちが湧くと、彼は彼女を抱きしめたくて堪らなくなるのだ。
「そこまでの怪我じゃなかった。…それに、事件のどさくさで、俺も折れ過ぎた感もある」
「あ」
彼女は、ごめんなさい、と詫びた。「…そう、速水さん死んでないのに…。変なこと言っちゃった」。
「何をしても許される人がいることに、驚いたんです。必ず後始末をしてもらえて、面倒から逃げて、なかったことに出来る…。そんな人がいるなんて」
「そうだな」
少女の頃から、たった一人努力のみでやって来た彼女には、紫織のような環境や境遇は理解が及ばないのだろう。彼も彼女のそんな部分は共感できるが、異性であるのと、実業家の視線から鷹宮家の大きさはわかり、稀有でも特権階級は確かにあるのだと、認められるのだ。
「一時鷹宮の会長は『天皇』と噂されていたくらい力があったんだ。政財の人間なら、その影響力は誰でも知ってた。今は、そうでもないが…。とにかく、そんな家の令嬢だから、確かに、いつまで経っても、お姫様だろうな」
彼女は彼の話を静かに聞いた。「そうなんだ」、「すごい人」…。そんな程度の他愛ない返しが戻ると彼は思った。紫織の話など、彼らの間ではもう意味がない。
しかし、彼女は「違う」とあっさりと言う。「お姫様なんかじゃない、あの人」
「え」




           


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