Daddy Long Legs
10
 
 
 
「紫のバラはもう贈らない。いいか?」
「はい」
つい口づけかけて、唇が触れ合う前に気づいた。頬にキスし、「俺は今肺炎だった。君に風邪をうつす。これで我慢しておくよ」
彼女がちょっと不満げな顔を見せたのが意外で、彼は嬉しかった。口元が緩んだ。それを彼女が見つけ、照れたように彼の腕から逃げる。
「また、何か面白とこ見つけたんでしょ?」
彼女は唇を尖らせてから、焼き菓子を頬張った。盛大に三つも続けさまに放りこみ、彼の声に振り返った。
「これは社長として聞いてくれ」
「はひ…」
彼は、以前彼女を襲った人間が特定されたことを口にした。言わずにおこうか実は迷った。知ったところで、彼女があの人へ憎しみを持つだけだろう。その上、家の権力で罪にも問われないのだ。
しかし、怒りをどう処理するにせよ、襲われた彼女には、絶対に知る権利がある。そう思った。
彼女は事実に、目を見開いた。急いで咀嚼しクッキーを喉にやってから、何か言おうとした。それでも何も言えずに、唇を閉じたままでいる。
彼女を見ながら、
「紫織さんがやらせたことは、葬られて絶対に明かされない。捕まった実行犯が全てを吐いたが、そこで終わりだ。男は釈放されて、時効までそのままになる」
「そんな…。死んでたかもしれないのに…」
彼女のつぶやきはもっともだ。未遂に済んだが、タイミングが違えばレイプだってされていた。彼は苦い思いでつなぐ。
「もしそうなっていたとしても、実行犯ではない。それが強みで、弁護団を組んでどうとでも逃げるよ、あの人たちは。今回の件は傷害で、もみ消すのはもっと簡単だ。そういう人たちなんだよ」
彼女は「そんな、まさか…」と唇に指を当て、茫然としている。聞かせたくない話だが、事実でもあり、必要な前提だった。
「君は腹に据えかねるだろうが、俺はこのまま黙っていてほしいと思う」
「どうしてですか?」
「君が警察に訴えても、絶対に犯人は見つからない。わかるだろ、既に逃がしてしまっているんだ。騒げば、受けた傷以上の憶測や噂が飛んで、君がもっと嫌な目に遭うだけだ」
彼女は首を傾げて彼を見ている。悩ましそうに眉をひそめて。信じがたくのみ込み難い話に、判断がつかないのだろう。
彼は言葉を継いで、
「ここからは、俺の個人的な頼みだ。君には言うが、実はペテンすれすれなやり方で、破談に漕ぎつけた。それで、鷹宮の家には俺を恨んでいる人もいる。君が黙っていなければ、別のやり方で黙らせることもあり得る」
そこで彼は週刊誌に、手ひどい自身の中傷が載ったことを挙げ、
「あの程度で済めばいい。こじれたら、何があるかわからない。それが怖いんだ」
だから、我慢してほしいと頭を下げた。
「あ、あ…」と彼女はつぶやいて、なぜか床にしゃがんだ。彼の膝に手を置き、こくこくと頷く。
黙っていると言う。忘れるようにすると言う。
「ありがとう」
膝に置いたままの彼女の手に触れ、「何でしゃがむの?」
「だって、速水さんが頭を下げるから…」
「は」
すぐ意味がわからなかったが、遅れて、彼が下げた頭の分、自分もしゃがんで低くなろうとしたのだろうと気づく。可愛いことを考えるものだと思った。この子はいつもこんなことばかり思いつくのだろう。
それを鈍い自分は理由を訊きもせず、とんちんかんに訳がわからなく感じてきたのかもしれない。
「そんな遠慮はしなくていいよ」
そのまま力を込めて、膝に抱きかかえた。赤くなった顔を向かせたところで、彼女はするりと膝から降りた。
「あ、わたし、帰ります。速水さん、肺炎なんだから、もう寝て下さい。死にそうだったって、水城さんが言ってたんだった」
と、きっぱり言うから、彼はがっかりだ。しかし長く起きていて、熱が上がっているのは自覚する。
彼女は義父に挨拶してから帰るという。
「会長さんはどこですか?」
「さあ、出かけてるのじゃないか」
適当なことを言う。普段邸を空けている彼は、義父がどうしているのか知らないのだ。「ううん、お出かけじゃないですよ、来るとき、あのお付きの人を見たもの」と、手で丸を作り目に当てて見せる
ああ、メガネの彼か。と彼は笑った。
「じゃあ、あそこだわ。お庭のお部屋」
「あっちの居間か?」
午後のこんな時間、きっと義父は庭に面した部屋にいると言った。彼が今いるのは内向きの居間だ。来客の多い家で、応接間を兼ねた別な居間があった。そちらは庭に張り出した露台もある。その居間で客に会っているのかもしれない、と確かに思う。
彼女はそこじゃないと言う。時計を見て、「こんな時間はもうお客さんに会わない」と。じゃあどこだ、と彼にはお手上げだ。
向こうの居間の隣りの部屋らしい。庭に向かって腰高の窓がある小部屋だ。小さな書斎といった趣の部屋だった。
「前に、そこでたい焼きを食べました」
前に滞在した経験から、彼女は自信ありげだ。彼より義父の日常に詳しそうだ。そのままドアの外に消えた。ほどなく、再びドアが開く。顔だけを出し、
「明日、お見舞いにまた来ますね」
恥ずかし気に言ってから、頭を引っ込めた。ドアが閉まる。
彼女が去ってから、気だるい身体でそのままソファ寝転び、長くなった。気分はよかった。長い間の胸のつっかえがとれ、心が軽い。
紫のバラを贈ることで立ったその場所は、影っていて彼女からは見えない。彼がどんなに彼女に憎まれようが、その場所に立つことで、隠れていられた。そこに立つことで安堵し、そうする自分に執着したこともある。
いつからか、その場所が厭わしくなった。彼女への思いが強まり、隠れている自分に飽き足りなくなった。疎ましかった。しかし、出るに出られず、もどかしさに足掻いていた。苦しい思いの吐露に、バラを贈り続けた。
そんな彼へ、彼女は自ら手を伸べて、彼を彼女の側へ引きずり出してくれたのだ。「こっちへ来て」と。
目を閉じ、自分が今、確かに影から出て別の場にいることを感じている。
何となく、口をついて出た。
 
「さようなら」
 
自分に向けてのものか。もしくは、おびただしい彼女に贈った紫のバラに向けてのものかもしれない。
 
 
 
 




          

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