みいちゃん
3
 
 
 
別荘へ着いたのは、四時を回っていた。着いてすぐ別荘番の夫妻とあいさつを交わす。そこで彼女は、その懐かしい二人が彼側の人間であったのだと、今更ながらに思い知った。
この場所に、彼女はかつて訪れたことがあった。この別荘で彼女は役作りに没頭した。自分が演じることになるヘレン・ケラーをより理解するために、この場所ではほとんど目を閉じ耳を塞ぎ、暗闇の中で過ごした…。
久しぶりに訪れた場所は、確かに知っているはずなのに、あまり親近感がない。いつの間にか黙って、ぼんやりとしていた彼女に、彼は「懐かしいか?」と訊く。
ゆらりと首を振り、彼女は詫びた。彼がかつて招いてくれた場所をよく覚えていないことに、申し訳なさを感じているようだった。
広い居間で、彼はキャリーケースの猫を放した。怯えながらも好奇心で、おぼつかない足があちこちをうろうろとさまよう。
「ご飯、あげよう」
彼女が荷物の中からエサ入れを出し、その中に買った猫用のミルクを満たしてやる。固形のものはもうしばらく後らしい。
テラスへ出る大きな窓から早い夕日がもう入り込んでくる。ソファにかけて脚を延ばした彼が、夕食はどうしたいかとたずねた。昼食が遅く、ちっとも空腹を感じない。二時間後でもあまり変わりはないだろう。
ホテルでの食事を考えていたが、それは明日に延ばしてもいい気がする。そんなことを彼女に告げた。軽いものなら、管理人が用意してくれてあるらしいから、と。
「うん、それでいいです」
「そうか」
猫に構う彼女を置いて、彼は少し離れて社と連絡を取った。気にかかる案件が一つあったからだ。やり取りを終えて、ケイタイをマントルピースの飾りの上に置いた。夜になるとここは冷えるから、早々点けることになるだろうか。
「マヤ」
名で呼ぶと、彼女は振り返った。「おいで」と言うが、首を振る。
「速水さんの側には行かない」
車でのさっきの会話を思いの外気にしているようだ。つんと顔を背け、それからべえっと彼へ舌を出した。嫌われたものだとおかしくなる。
「ああ、そうだ。忘れていた、亜弓君のことで…」
珍しい名前を出せば、彼女は前言を撤回し、「何? 亜弓さんがどうかしたの?」と彼の側にやって来た。
『紅天女』をめぐったライバルの二人は、それが彼女の勝利と言う結果に終わった後では、不思議で深い友情を交わしているようだった。目の治療で長く渡欧していた彼女は、それを終えた今も、あちらと日本を行き来する生活を続けている。
会うことも稀な友人の名の威力は大きく、彼女はあっさり彼の隣りに掛けた。彼はすかさず彼女の手を取り、握りながら、最近知った彼女の近況を彼女へ告げた。
「そうなの、ヨーロッパで映画を撮ったんだ。観たいな〜」
「日本でも公開するよ、手に入るから、何だったら先に撮ったものをあげるよ。部屋でゆっくり観たらいい」
「すごい、いいの? きゃあ、さすが大都のシャチョーさん」
先ほどまでのとげとげとした警戒振りもどこへやら、彼女は可愛らしく彼へ身を寄せ甘えた仕草を見せる。
彼にしたって、これがわかっていて、亜弓の名を出したのだが。
「こら、社長のイントネーションが、いかがわしいぞ」
「え? 聞く人の心の問題じゃないの?」
「こいつ…」
彼は彼女を引き寄せ、後ろから抱きしめるようにして羽交い絞めた。彼女は緩く抗いながらも逃げはしない。二人だけで、甘い時間を過ごしたいがためにここにいるのだ。憎まれ口をたたいても、ふくれっ面で彼を挑発しても。
それがよくわかるから、彼には彼女がひどく可愛い。
結局、ゆるゆるとそんな風に時間を使った。日が暮れ、照明が必要になる頃、彼女がふと訊いた。
「ねえ、速水さん。あのとき、あなたがわたしに打ち明けてくれていたら、どうなったかな…?」
カーテンを閉め、明かりを点けに立ち上がった彼は、ソファで膝を抱いて座る彼女に、「あのときって?」とわかりきった質問をした。彼女がこの場所で問うのだ。彼女と彼がこの場にいた、数年前の夏のある夜のことだ。
目隠しをし耳を塞いだ彼女が、訪れた彼がまだ見ぬ紫のバラの人と知り、感激して抱きついたことがあった。そのことをきっと指している。
ときどき意味不明になる彼女は、そらっとぼけた彼への説明を省き、そのとき気づいていたら、無駄な遠回りをしなくて済んだと、ちょっと焦れるよう悔やんで見せた。
何も言わない彼へ、
「そうしたら、わたし、速水さんのこと、あんな風に誤解しなかった」
「今だって誤解してるじゃないか」
「…また、茶化して」
気づけば猫が足元で寝ていた。危ないから、彼はケースに戻した。彼女が腕を抱いているのに気づき、マントルピースに火を入れる。そのほどいい前に猫のケースを置いた。
彼女の隣りに戻ると、彼は目に指を押し当てながら、
「君の仮定を借りるとして…、あのとき俺は、君のあしながおじさんでいることに満足していたんだ。多分、恋愛感情はなかった」
「そう、なんだ…」
彼女が落胆した声で応じる。彼女がどんな答えを望んでいるのかはわからないが、互いに行き違いの多かった過去を疎ましく思っているのは見えた。
「考えてみろ、女子高生に手は出せないだろ」
「ありますよ、女子高生のコスプレした風俗とか。好きな人はいるよ、いっぱい」
「じゃあ、俺がそんな場所に通い出したらどうする? 君は」
彼女はきゃあと顔を隠した。「嫌だ、絶交」。
「だろ」
論旨が逸れたが、逸らしているのは彼の方かもしれない。
悔やむ彼女をかわいそうに思うが、過去などどうでもいいではないか。あまたの障害を切り抜け、今がある。絶望的な状況に、何とかできないかと来る日も来る日も狂ったように考え尽した。それは、彼女が演劇に見せる情熱に通底していたように彼は思う。
ないない尽くしの中、あり得ない道を作って見せ、未来へ回天を成し遂げたのは彼女だった。彼はその彼女へ、ほんの小さなバックアップをしていたに過ぎない。
そんな彼女の姿を、紫のバラの人という影を通して、彼は強い憧憬を持って眺めていたのだ。
道がないなら、作ればいい。彼女がやって見せた鮮やかな逆転劇を胸に置きながら、目の前の幾重もの難題への攻略に、少し過去の自分は憑かれていた…。
 (だから、君の方がずっとずっと偉い)
尽きない憧れと恋情を込めて、彼は彼女の髪に口づけた。
「もし…、こんなこと言うの、速水さん嫌だろうけど、もし、あのとき違っていたら、…紫織さんは傷つかなかったと思うの」
結局、彼女の気がかりはこれなのだ。
策略策謀で、鷹宮家との縁組の破棄へ漕ぎつけた。その最中にあの人は自ら死のうとし、それが果たせなければ子供のように駄々をこね出した。世が世なら姫の攪乱だ。大変な騒ぎになった。
後になって思うが、あの人の自分への感情は、愛情や恋ではなかった、と彼はおぼろに思うのだ。自分への執着は、裏を返せばあの人自身への執着に過ぎないと。
婚約者に捨てられる自分が、親が強力に援護しつつもまともに結婚にすら漕ぎつけられない自身への憐みではなかったか…。それがどうしても、いかようにしても許せなかった、信じられなかったのでは…。
そこまで考えを巡らせ、彼はあることを口にした。
「君が贈ってくれた舞台の写真を、彼女は燃やしたんだ、全部。気に入らないと言ってね」
「え、そうなの…」
美しくおしとやかなあの人の印象に似ず、彼女は軽く混乱したのかもしれない。
「あれは惜しかったよ。腹も立った。君のこれまでが全部詰まっている気がして…。最初からあったはずだ。つきかげの頃の『若草物語』のべスや、『たけくらべ』の美登利、『嵐が丘の』のキャサリン…」
耳にしている彼女の方が懐かしげだ。
「でも、それを燃したのはどうしてだと思う? ちびちゃん」
「え、だって、それは、婚約している速水さんが、わたしなんかの写真を持っているのが嫌だったんでしょ」
「燃やすか? わざわざ。俺なら生ごみに捨てるな。嫌った相手なら、その方が貶める意味がしないか? まあ、個人や男女の考えの違いは別として…」
彼女は彼がその先に何を告げたいのか読めず、彼を眺めている。彼は軽い咳をして、言葉をつないだ。
「忌々しかったんじゃないか、ただ。婚約していた男が、女子中学生や女子高生の写真を大事に隠し持っていたなんて。芯からぞっとしたんだと思うぞ、俺がロリコンなんだと知って。だから自分に興味を持ってくれないんだって」
「え?!」
ある時期からのあの人の身の引き方には、潔くきっぱりとしたものがあった。確実に婚約者としての彼を見限った証左だろう。彼女に言った、嘘のような本当のようなロリコン疑惑がすべてではないが、ある部分を占めているのは否めない。
どうしてもあの人には、自らの意志で、あの人の口から、自分との破談を切り出してもらう必要があったのだ。どんなに無茶で無謀に見えたとしても。だが、格好をつけているのを止めたとき、新たな道が見つかったのは事実だ。
わかっていたのだ。「どんなあなたも好き」とは、死んだってあの人が言わないことを。だから彼は、安心して思うさま計画を推し進められた…。
彼は自分の言葉を一身に待つ彼女へ、
「どうであれ、彼女は大人だった。その彼女がどんな理由でも、俺との婚約を意志で破棄したんだ。それでいいじゃないか。今あの頃に立ち返っても、俺はまたきっと同じことをする」
彼の静かだが強い声に、彼女は頷きを返すことしかできなかった。
時計がいつしか七時を打ち始めた。
彼が再び電話でのやり取りに時間を取られ、彼女はその彼へ「お風呂に入りたい、いい?」とたずねた。彼は電話を放さず、でも彼女へはバスルームの位置へ手を示して見せた。勝手に入れということらしい。
覚えているような覚えていないようなバスルームに入り、出た後で彼女はびっくりした。パジャマだと思って、部屋着にいいや、と鞄に詰めたものが、前のアパートで使っていたカーテンだったのだ。
(どうしよう)
彼女は幾多の困難を切り抜けてきた、歴戦の女優である。しかし、今一番困った、と思った。途方に暮れた。
脱衣室の棚にはタオルとバスローブがあるが、使うのがあの彼だ、サイズが合わなさ過ぎる。でも、カーテンを着ることはできない…。
苦肉の策で、ある処置をして、そろっとバスルームを出た。リビングは嫌になるほど煌々と照明が明るい。
もう開き直るしかないと、へへと笑いながら入っていく。彼はソファで経済紙を読んでいた。彼女へ顔を向け、その後一瞬固まった。
「ちびちゃん、それは何だ?」
「え、あ、その…」
結局、困った彼女は備えつけのバスローブを借りた。が、サイズが合わずだらだらで、それを何とかするために洗面所の隅にあったガムテープを見つけ、それで胸のあたりをぐるぐると巻きつけ、補強したのだ。
別の意味であられもない姿だった。
「パジャマだと思って持ってきたのが、カーテンだったの。それで、これを借りて…。でもでっかくて、どうしようかと思って、テープで」
貼ったのだ。
彼はあんぐりとあけた口をやっと閉じ、
「今はそういうのが流行るのか? おじさんにはわからんな」
とリビングを出た。
幻滅されたのかと、彼女はショックで泣きたくなった。そこへ、彼が何かを持って戻ってきた。白い多分彼のワイシャツだ。
「女の子の着るものなんか何にもない。これで我慢してくれ。それよりは、俺が脱がしやすい」
「え」
「俺も風呂に入ってくる」
入れ違いに彼が出て行き、急いで胸に無駄に巻きつけたガムテープをほどきにかかった。





          

   パロディー置き場へどうぞ♪


お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪

ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪