高慢と偏見
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「寄るところを思いついた、いいか?」
「はい、でもどこに?」
「昼食でも。さっきのあんな場所じゃ、食う気にならなかっただろ」
先ほどのパーティーのことを指した。彼は基本、パーティーでものを食べない。いつも挨拶で忙しく、そして長居もしないのだ。彼女はけろりと「そうかな」と首を傾げた。目にしたことはないが、好きにぱくぱく気が済むまで食べていそうではある。
「でも帯が窮屈で、お腹が空いた感じにならなかった」
泣いた後で目はまだやや赤いが、助手席の着物姿の彼女は実に愛らしく、まるで花束でも置いてあるかのような華やかさだ。ふと脱がして触れたくなる。
彼は思いついた場所へ車を進めながら、
「さっきの続きだ。耳に痛いかもしれないが、聞いてくれ」
「何ですか?」
「君は人を憎めないだろ、怒りも何も、すぐにふわふわ…」
「また、ふわふわって。まるきり馬鹿みたいに! わたしだって、ちゃんと感じたりします。憎んだりするもん、嫌な人は。ばいきんまんみたいだった速水さんのことだって、しっかり憎んでたんです!」
「は? ばいきんまん?! …まあいい、その俺を君は怒りに任せて、どうかしようと思ったか?」
「え?」
「例えば、君の仲良しの桜小路に頼んで、俺の車のブレーキでも壊させようと思ったか?」
「え、そんなことしたら、速水さん事故に遭っちゃうじゃないですか。ばれたら桜小路君にだってすごい迷惑かけるし…。第一、そんなひどいこと、頼んだって桜小路君は引き受けてくれません」
「できたんだ、あの人は。君がとても無理だと感じたことを、全部すっ飛ばして」
「あ」
そう言ったきり、彼女は口を閉じた。何かを反芻しているのかもしれない。追い込むようなことを言い、悪かったと思った。
「君があの人を許すのは自由だし、謝罪を受けるのも好きにしたらいい。俺が指図するのもお門違いだろう。ただ、信用はするな。それだけは忘れないでくれ、頼む」
「はい…」
わかりました、と彼女はやや茫然と答えた。
話を終え、彼は片手で胸のポケットから折りたたんだ紙を取り出した。彼女へ渡す。それは婚姻届で、彼の欄には署名も捺印も済ませてあった。この日、二人の仲が続くのなら、どうしても彼女に書いてほしかったのだ。
「え、あの、これ…」
「君に書いてほしい。今の暮らしも悪くないが、もういいだろう。結婚しよう」
「…わたしで、速水さん、いいの? 本当に? …わたしなんか、何もできないし、うるさいし…」
彼女は怯えたように言う。「嬉しくないの?」と訊けば、
「そうだけど、びっくりしちゃって、だって…」
「寝ても覚めても君のことばかりだ。俺に厄介な君の面倒を一生見させてくれ」
ストレートなだけのこんな色気のないプロポーズが、自分でもおかしい。だが、偽らないそのままの気持ちだった。飾りも気取りも要らないのだ。その方が彼女に伝わるし、間違えない。
(もう、間違えたくない)
ちょっと間を置き、彼女の声がした。
「ご面倒をかけます、お願いします」
 
記入してくれたら食事をしよう、とホテルに入った。彼女を促し、取れた部屋に入る。最上格の部屋はふさがり、急には無理だったが、こちらで十分広く、眺めもいい。大きな窓の前の一人掛けの椅子に掛け、彼女は身を乗り出すように、婚姻届けに名前を書いている。
他、必要な書類もあり、この日提出できる訳ではないが、彼女の欄が埋まるだけで気持ちが落ち着くのだ。保証人の署名が要るが、それは誰でもよかった。
「一人は水城さんがいいかも」
「止めておけ」
「じゃあ、堀口さんでもいい?」
「堀口か…、じゃあもう一人は青木君にすればいい」
書き終えたのを検めてから、彼はそれを自分の胸のポケットにしまった。彼女に渡してどこかで失くされたら堪らない。
一仕事終えた彼女は、ふうと息をつき、「お腹すいてきた」と帯をちょっと叩いた。
「少し我慢できないか?」
「え」
彼は吸っていた煙草を灰皿に押しつぶしてから、座る彼女を抱きかかえた。着物の装備でいつもより重い。その身体を抱いてベッドに運んだ。押し倒さずに、口づけた。
たじろぐ彼女をやんわり封じて、帯締めを外す。これだけでは帯は解けず、忙しく背中を探った。
彼女は嫌がって抗う風ではない。ただ恥ずかしげに、「明るいから…」と頬を染めている。明るいからいいのに、と彼は胸の中で言った。珍しい彼女の和装を見たときから、彼はときめいていて、互いの誤解を解いてからは静かに欲情していた。
着物の前を割り、襦袢ごと脱がした。着付けの作法か、そのまま胸が露わになる。乳房と白い肌に目が吸いついた。足袋を外し、床に放る。
「…大事な着物なんです、乱暴にしないで」
「借り物か?」
「うん…、速水さんのお母さんの。嫌でした?」
「は?」
義父に今日のパーティーのことを何となく話したら、「使えばいい」と貸してもらったらしい。義父は亡き母と結婚後、物を持たない母へ箪笥にあふれるほど着物を作らせていた。四十を前に死んだ母はその全てに手を通せたのか、彼は知らない。それで嬉しそうにしている様子も、記憶にはなかった。その一つを、彼女が着ることには何の抵抗もない。
両の腕で抱きながら、彼女は赤い頬をふくらまる。
「お母さん、見ているかも、速水さんが乱暴に着物脱がしたりして」
「でかくなったもんだと、喜んでるよ」
彼はすべてを脱いだ彼女を、這いながらベッドヘッドに追い込んだ。ネクタイを取り放り投げ、シャツのボタンを外しながら、彼女の身体を目でゆっくり確かめた。
彼女は目を逸らした。「目が怖い」と言う。
「散々避けられて、君に飢えてるんだ」
慌ただしく脱いで重なる。ふと、自分のもうきつく勃っているものに、彼女の手を導いた。彼女が触れたその上から、自分の手で包んだ。「ほら」と。
愛撫らしいものもないのに、彼女の奥が豊かにぬれているのに、彼は気づいた。しっとりとやわらいだその場所へ、彼は唇を寄せる。さらけ出す体位と好き勝手に這い回る彼の舌を、決まって恥じらうが、その膜を彼がくぐってしまえば、愛撫にすぐに愛らしく乱れてくれる。それを共に好きなことを、お互いが知り合っていた。
「速水さんがすごく好き」
彼女はこんなとき、それをよく口にしてくれる。普段は照れて茶化して「へへ」で済ますのに。深く結びついた安心感とか、官能の恍惚感の後で羞恥も緩むのかもしれない。
「こんな風な人だと、思わなかった。速水さんって…」
いつの回顧か、互いに達した後でそんなことをもらす。彼は横を向く彼女を背後から抱きしめながら、
「何を思っていたのか知らないが、俺だって普通の男だ」
「そうは見えなかった。ちょっと人じゃないみたいに思えたもの」
「あれか、ばいきんまんか?」
「そうそう!」
「ばいきんまんには、あのオレンジ色の変な子がくっついているんだろ。じゃあ、あれは君か?」
「えー!」
彼女は彼を振り返り、口を尖らせた。「ドキンちゃん」はいきなりばいきんまんの前に現れ、面倒を押し付けて、わがままに好き勝手振る舞っているのだ、と力説した。幼児向けのそんなアニメを彼女が知るのは、既に子持ちになっている劇団の友人宅で見せられたからという。
「あれ食べたい、これ食べたい。ばいきんまん持って来て〜、って」
「君は俺の前に、まるで異世界からのように突然現れたんだ。人の気も知らないで、歯向かって、かき回して、振り回したじゃないか。それに、「あれ食べたい、速水さん」「速水さん、これ食べたい」は、今もよく聞くぞ」
「あ…」
ふつっと彼女が黙り込んだ。思い当たる節があるようだ。それがおかしくて彼は笑った。静かなままなので、笑い過ぎたかと、彼女の顔をのぞく。
つむじを曲げたのかとうかがえば、彼女はちょっと神妙な顔をして、
「わたしが、速水さんを変にしちゃった?」
そんなことを言う。
(かもしれない)
と思う。彼女に会わなければ、人生は確実に違っていた。仮定の世界があるとして、その平行世界の彼は、復讐めいた気持ちを抱えたまま、義父の握る権力を既にもぎ取っていたのかもしれない…。
振り返った彼女に彼は口づけた。何度も繰り返し、「いいじゃないか」とささやいた。
「君に振り回されるのは、きっと俺の天職だ。それに、俺を狂わせた自覚があるのなら、君に迷って、こんなになった責任を取ってくれ」
「…責任?」
「そのままでいいんだ。ずっと俺の側にいてほしい」
「それでいいの?」
「ああ。もっと後でいい、君がそういう気持ちになったら、子供を作りたいし、別な家を建てたり、いろいろ考えていこう。俺に、そういう役割をくれないか。それは君にしかできない」
「…うん」
彼女には喜んでほしいと思った。泣かせるつもりなんかないのに、彼女は泣き出した。何度も頷く。
「わたし、速水さんから、離れない」
 
しばらくして、ベッドから出て二人でシャワーを浴びた。髪を乾かす彼女をバスルームにおいて、彼は部屋に戻った。散った服を集めてからバスローブを脱ぎ、ベッドに放った。着替えを終えて、ミニバーから抜いたミネラルウォーターを飲んで彼女を待った。
煙草に火を点けてすぐ、彼女がバスルームから困った様子で現れた。「着物が着れない」と言う。バスローブの前をぎゅっと合わせ、うろたえている。
「自分で着れないのか?」
「できない。今日だって、美容院で着せてもらってきたんです」
どうしよう、と彼を見る。芝居で着慣れているようで、様になっていたのだ。てっきり自分で着られると、単純に思った。
「俺を恨むなよ」
彼女にそう言い、フロントに電話した。着付けのできる女性を呼んでほしいと頼んだ。彼女にも水を飲ませ、少し待つと、胸にブライダル部門のネームプレートのあるベテランらしい女性がやって来た。
着物や腰帯などの類は、別室に運んであった。しかし、呼ばれた用件と出迎えた彼の姿が何を意味するか、寝乱れたベッドはその女性の目にどう映るのか…。考えなくてもわかる。
どれほどか待った後で、着付けをきれいに済ませた彼女が現れた。恥ずかし気に、「お化粧直して来る」とバスルームに消えた。
彼は立ち上がり、待つ間に用意した、備え付けの封筒に入れた紙幣を女性に手渡した。「世話をかけました」
あら、と女性は彼と封筒を見比べ、礼を言い受け取った。
ドアの外に見送る際、弾んだチップの分のお愛想にか、「世人式の後は多うございますわ」と要らぬ情報をくれ、
「お可愛いらしい奥さまでいらっしゃいますわね」
と出て行った。
半分お追従だとわかるが、嬉しい響きだった。その可愛らしい彼の奥さまは、化粧を直してバスルームから出て来た途端、「お腹が空いた」とまだうっすら赤い顔を彼へ向ける。
彼女へ手を伸べ、
「何が食べたい?」
「うーん…、オムライス」
手を握り、二人で部屋を出た。
 
 
 
 
 




          

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