高慢と偏見
3
 
 
 
受付ロビーで彼は待っていた。時計を睨み、辺りを見回す。折りに、知った顔があれば挨拶を交わした。
ふと、上着の裾を引かれた。振り返れば、そこに彼女がいた。
「後ろにいたのか、気づかなかった」
彼女の姿を認めた安堵と照れで、そんなことを口走る。このとき彼女は和服を着ていた。落ち着いた黄緑の、花が肩口からと裾もとに広がる、おとなしいが華のある上品なものだった。
私的に着物を着る彼女は初めて見たが、驚くほど似合っている。ほっそりとした首となで肩に、ボブのさらりとした髪が触れている。彼のひいき目もあるが、とても愛らしくきれいだと思った。目が離れない。
何も言わず手を取った。
見知った人にすぐ出会う。彼は彼女を伴って回り、彼女を紹介し続けた。「まあ、あの『紅天女』の?!」。「ああ、ハート役知っていますよ。うちの子が大ファンです」。そんな声が多い。彼女の認知度はすこぶる高くなっている。そして、うるさい新郎を見つけ、「女優の彼女」を見せつけた。
彼女がほっと息をつくので、「疲れたのか?」と訊いた。
「へへ。偉い人ばっかりだから…」
作り笑いを見せるが、確かに、頬が化粧の下で青ざめているようにも思えた。これ以上引き回す気にもなれず、「話がある」と、彼は彼女の手を取り、会場を出た。
出ながら、「どうして連絡を寄越さなかった?」
声が詰問調になるのを止められなかった。彼の硬い声に彼女は手を唇に当てた。ほどなく涙声がする。
「ごめんなさい」
そう言い、泣いた。
会場を出てすぐのロビーには、人でがあった。彼は彼女の手を握ったまま、廊下の奥へ進んだ。ひと気が消えたところで、その手を放し隣りに立った。壁に背を預け、
「連絡ぐらいできなかったのか? ケイタイが壊れたのは聞いた。でも堀口に俺の番号を訊けば電話できるだろ」
「ごめんなさい…」
「外泊しないのは、約束だったじゃないか」
「…ごめんなさい」
彼の問ういずれにも、理由もなく、泣いてごめんなさいを繰り返す。その彼女をずるいと思った。逃げ回った挙句、訳のわからない涙と謝罪ばかり。
(…こんなことで終わりにしようというのか)
長く求め合い、大きな障害を越えやっと今の二人になれた。他に何も要らないと思うほど、彼女を求めている。関係を深めてからは特に密で、ただ恋人という言葉では測れず、彼はまるで、半身であるかのように彼女を捉えていた。
そして、彼女も彼といるのが幸せなのだと、信じていられた…。
(違うのか、もう…)
理由すら彼には理解できないもので、二人の仲が壊れてしまうのか。こんな程度のことで、終わってしまうのか。わずか二年に及ばず、陳腐な心変わりで断ち切られてしまうのか…。
跪いてでもすがりたいと思った。彼女を失うことなど考えられない。耐え切れない。涙で鼻をすする彼女の隣りで、彼は背を壁に擦らせて、そのまましゃがみ込んだ。みっともなく床に座り、膝に置いた腕に顔を伏せた。
「速水さん…」
彼女も彼の隣りで座る気配がした。「ごめんなさい…」と同じ言葉が聞こえる。
「もうそれはいい!」
低く怒鳴る彼に、彼女は委縮した様子で黙った。
どれほどか後で、彼女の細い声が、「怒らないで。悪いところは直すから、嫌いにならないで…」。
「速水さんと離れたくない」
そこで彼は顔を上げた。驚いて彼女を見る。それはやはり泣き顔で、指の背を目に当てながら、
「紫織さんみたいにはなれないけど、大人っぽくできないけど…。言って下さい、直すから、出来なくても、やるから」
そして、「速水さんと別れるのは嫌」と涙につぶれた声がそう告げる。
彼は彼女に向き直り、指の手を外した。
「君は何を言っているんだ?」
「だって、速水さん…、紫織さんと婚約を破棄したこと、後悔しているんでしょ?」
「は」
「「君にあの人の何がわかるんだ」って。速水さん、言ったじゃないですか。あんなにすごい人を手放して、わたしなんかを選んだりして…。今では、失敗したと思っているんでしょ?」
「ちびちゃん、君は…」
彼は彼女の顔を胸に抱いた。「あ、お化粧着いちゃいます」
「どうでもいい」
自分たちが、互いに盛大な勘違いをしていることが、このときわかった。相手の何を見、何を信じて来たのか…。
抱く彼女の、髪の甘い匂いを吸い込んだ。安堵が全身を包む。絶対的な安らぎに、彼はふと目を閉じた。
彼は彼女の顔を離し、その額に自分のそれを当てた。
「話し合いもせずに勝手に誤解して間違う。何度もそれで遠回りしてきた。いい加減俺たちは、そんな習慣を止めよう」
「え」
彼は立ち上がり、彼女へ手を伸ばした。触れた手を握り、引いて立たせる。「出よう」と彼女を促した。
友人への義理は済んだ。そのままにぎわうロビーを抜け、エレベーターで地階に降りた。この施設は著名人の結婚式や披露宴、パーティーに多用される格式ある場で、彼の以前の婚約時には、その披露宴にここを押さえてあった。
地下は三階まである巨大な駐車場になっている。停めた車の場所に向かいながら、彼は答えのもらっていない問いを、彼女に繰り返した。
「どうして俺に連絡しなかったんだ?」
「だって、速水さんに会ったら、別れようって言われると思って、怖くて…」
「隠れていた」という。とんでもない誤解をするものだとあきれるが、彼だって、似たようなものだ。責める言葉は浮かばなかった。自分のマンションは避け、友人の家と、速水の邸を転々としていたという。彼から逃げるのに、その実家へ隠れる行為が奇抜だが、まあそれも彼女らしい。
それに、勘違いから生まれたものでも、さっき彼女が泣きながら言った言葉のすべてがいじらしく、彼の胸を打ってもいる。別れたくないがゆえに、彼のために「直すから、出来なくても、やるから」と訴えたあの声を、自分は今後きっと忘れられないと思った。
「俺は、君が心変わりをしたんだと思ったよ」
「え」
「あれだけ避けられれば、そうでも考える他、理由がわからなかった」
「あの、ごめんなさい…」
「もういいよ。相変わらず、俺たちは馬鹿みたいだな」
「うん、同じことばっかりしてる」
車に乗り込み、彼女の予定を聞いた。このパーティーの他はないという。それに安心して、帰ろう、と告げる。
「あ、はい」
車を駐車場から出したところで、外のまぶしさに目を細めている彼女へ、詫びを口にした。何がどうあれ、彼の最初の物言いが、言葉足らずに突き放したものだったのだ。それで彼女は要らぬ不安に駆られていった。
「だが、君の思った意味で言ったんじゃない」
「…うん」
彼は自分を見る彼女を感じ、その手を握った。「以前、俺は君にはあの事件を黙ってくれと頼んで、出来ればあの人のことも含め、忘れてほしいと思っていた。覚えているか?」
彼女が襲われた、一昨年の冬の話を持ち出した。あの経験を彼女に振り返らせたくはないが、必要なことだった。
「はい」
返事が彼の想像より早く、遠い過去にはまだ思えていないのがわかる。それでも、彼がこんな話を持ち出す意味がわかるのか、どうか。そもそも、そんな察しの良さがあれば、こんなややこしいことにはならなかっただろうが、と彼は彼女の自分にない気持ちの広さや穏やかさを思った。
「君にはそんなことを求めておきながら、その実、俺はあの人を許していない。許す気もないし、この先も憎み続けるだろう。初めて言うが、顔も見たくないし、名前を聞くのも口にするのもぞっとするくらいだ」
「え、速水さん…」
驚いた様子の彼女へ、「俺は執念深いんだ。君にあんなことをしておきながら、禊は済んだとのうのうと現れる、あの人の神経が不気味でわからない」
「…でも、申し訳ないって、思っているのかも…。謝りたいとか…」
「謝ったか?」
「それは、ないけど…」
(その程度だ)
と彼は心中吐き捨てた。
彼女の中では忘れられなくても、既に過去としての処理は済んでいるようだ。だから、あの人が現れても動揺もせず、「忘れて」いられるのかもしれない。
「わたしのことで、まだ苦しんでいるのだったら、ひどいことはされたけど、ちょっと可哀そうに思う…」
やはりそんな甘いことを言い出す、彼女の警戒心のなさに彼は、歯噛みがしたくなる。そして、彼女が言うように、あの人が自身が起こした事件のことで苦しみ、悩んでいるのだとしても、
(それが償いだろう)
彼は、淡々とそう思うだけだ。しかし、それらを口にせず、自分が上着の胸にしまっている、紙のことへ考えを移した。それでふと気持ちが変わった。




           

パロディー置き場へどうぞ♪


お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪

ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪