みいちゃん
4
 
 
 
彼が居間に戻れば、彼女は彼のワイシャツを着ていた。足元にはゆるっとしたハイソックスをはいている。
(あのみょうちきりんないでたちには参った)
ああいうことを、当たり前にできるのが、彼女の可愛さであり強みでもあろうが。彼はバスローブを脱いで、それで髪をぐるっと拭った。その辺に放る。下には肌着しかない。彼女は恥ずかしげにあらぬ方を見ている。
こんなことが恥ずかしいのかと、彼女の仕草がかわゆくてならなくなる。楽なハーフパンツとトレーナーを着た。
「腹は減ってないか? もう九時近いし…」
彼女はその声に、まだ顔を背けながら、「ちょっと空いた」と応じた。
別荘の管理人夫妻が用意してくれたのは、つまみ易く量の調節が効き易いサンドイッチだった。好んで彼が頼むものでもあった。
それでも、女性の客人があると知らせたためか、盛りつけが華やかだ。自分だけの時とは明らかに違う。フルーツサンドなどは絶対にない。メモには温めれば食べられるスープもあると書いてあった。そのままを彼女に伝える。
とことこと彼女がキッチンにやって来た。食い物には敏いのが、彼女の特徴成分だった。目をきらきらとさせ、料理を見ている。
「ワインはどうする? 飲むか?」
「飲む」
ストレートな彼女の答えがおかしい。彼に対してこんなに気取らない女性はきっと彼女しかいない。
「赤か白、どっちがいい?」
女の子は白だろうな、と思いながら冷蔵庫を開けた。やはり「白がいい」と彼女の声が返る。
彼は白のボトルとグラスを提げて、居間に戻った。キッチンは彼女には冷えるだろう。そう思ったのだ。彼女が大事そうにサンドイッチの器を抱えてきた。
彼がワインの栓を抜く間に、彼女はサンドイッチを一つ口にこっそり摘まんでいる。旨いのか、幸せそうな顔をしている。好きな物だけはやたらと食べるが、そう大食いではない。余裕が無ければ、いつまでも絶食できるのだ。華奢で小柄な体が示すように、元は小食な質なのだろう。
ワインを飲みながら、他愛もないことを話す。彼女が出したようで、ケースから出た猫が、あちこちをうろうろしている。
「あのね、速水さん。わたしのしているゲーム、面白いの」
ケイタイを手に持ちそんなこと言った。待ち合わせの際、いじっていたあれか、と彼は思った。
彼が返事をしないのにも構わず、画面を彼へ見せ、猫を集めて楽しむのだと、愉快そうに説明する。聞いても見ても何が楽しいのか、彼にはわからない。
「速水さんもやろう」
「やらない。そんな暇がない」
「え、放っておくだけでいいのに。わたしにメールをくれるでしょ? そのついででいいのにな」
ケイタイを貸せとねだるので、渡してやる。「ロックが掛かってる!」と言うから、解き方を教えた。
勝手にダウンロードを済ませ、ごくシンプルだった彼のケイタイのホームページには、猫のアイコンがどっかりと存在感を示していた。好きにしてくれ、と思う。
いろいろ好き勝手に遊び、「可愛い」と彼女は満足げだ。そこでケイタイが鳴った。「わっ」と彼女が驚いてそれを彼へ返した。
彼は着信を見て、そのままにした。ローテーブルの上に何気なくぽんと放るように置いた。
その仕草を見て、彼女がうっすらと酔いの上った顔で、彼へ問う。
「本当に、恋愛感情はなかったの?」
「何?」
彼女の急な話の持っていきように面食らう。
「ここで昔会ったとき、速水さん、本当にわたしを好きじゃなかった?」
彼が覚えているのは、不意にひどく熱い柔らかなものが、自分を一心に抱いたことだけだ。ライバルの亜弓との彼女の差に、彼がいらいらと気を揉んでいたことも思い出す。その頃は、恋だの愛だのではなく、彼女を庇護する妹のように感じていたようにも思い出される。
(どうだろう、本当のところは…)
彼にすら覚束ない。ただ、最初から彼女は彼にとっての特別であったのは紛れもない。そうでなかったとしたら、どこかで彼女との縁は切れてしまっているはずだ。
言葉をためらっている風に取ったのか、彼女は拗ねた顔でいた。あんな昔から、彼女を情欲の対象としていたと認めてほしいのか。
(ロリコンは毛嫌いする癖に、まったく)
彼はちょっと迷い、それから口にした。
「その後かな、…『ふたりの王女』アルディスのときは確実だ」
そう言えば、彼女は嬉しげに微笑んだ。ほんのちょっと往時のアルディス王女の面影が走り、どきりとした。確かに、彼女の受け取り方はどうであれ、あの頃はもう彼女にめろめろだったと自覚する。
あの頃なら…。
方向転換は効いたのかもしれない。しかしそれをしなかった自分。いろいろな障害で成し得なかった過去の夢は、きっとそこまでのものなのだ。そんな残骸を今更拾い集めるのは、彼の趣味に合わない。
こうあれば、ああしておけば、の悔恨は尽きない。けれども、そうやって今から見ればショートカットしたような過去では、ここにこんな風に、彼女と至れなかったのではと彼は感じてしまう。無駄に見えたあれこれが、彼女とのつながりを強めていった面はきっとある。
何もかもを通り抜けてきた彼女を手にしている今の自分を、彼は全霊で納得しているのだから。
ボトルに少し残ったワイン。彼女のグラスは空いていないから、彼が自分のグラスに注ぎ切った。少し飲んでから、
「あの猫を、速水の邸に連れて行ってもいいか? あそこなら人手もある。誰彼から面倒を見てもらえるだろう」
彼女は顔を上げる。びっくりしているようだった。
「飼ってくれるの、速水さんが?」
「それが一番いいだろうと思って」
彼女が見たければ、猫は自分と会う日に彼のマンションへ連れて行くと言った。
「本当? 速水さん、本当に?」
彼女を満足させるため、初期の世話はしたが、きっと彼は伝手を使って里子に出すつもりだろうと思っていたのだ。物足りなく寂しいが、自分ではどうもできない以上、彼女は我慢するつもりでいた。
望外の展開に彼女は感激し、「きゃあ」と叫んで彼に抱きついた。グラスを持つ彼の手がそれで揺れ、ワインがこぼれそうになる。「こら。危ない」と彼はグラスをテーブルに戻した。
彼女の反応は予想通りだが、こんなに喜んでくれれば、やはり嬉しい。表面上は変わりなくても、その内面では彼の鼻の下はだらりと伸び切っている。
回した腕を解き、彼女は彼の膝に手を当てる。ぽんぽんと思いついたことを口にしている。
「名前を決めなくちゃ」。「男の子だから」。「前に観た映画では、恩人の名を産まれた子に与える、なんてエピソードがあったの」…。
流れに、彼は嫌な予感がしたが、黙ったままでいた。
「あ、速水さん、下の名前は何ですか?」
けろりとした問いかけに、彼はグラスの代わりに口に挟んだ煙草をぽとりと落とした。冗談かと思えば、裏表のない素の彼女が自分を見ている。
「…覚えてないのか、ちびちゃん」
やや低くなった声のトーンに、彼女は「は」とした顔をした。彼との深い関係で、失礼極まりない質問だったと気づいたようだった。
彼は落ちた煙草を再び口に挟み、それでちょっとつぶれた声を出し、「もう九年か、君と会って…。ゲジゲジから始まり、やっと人間扱いしてもらえるようになってもこれか。セミより哀れだな、俺の人生は」と嘆息して見せた。
「まあ、君は天才肌の女優だし、その期間俺に対して何を感じていようが、それがどう変わっていったとしても、君の中ではごく軽い扱いだったんだな。今に至っても。…よくわかるよ」
「え、やだ、速水さん。ちょっと、ど忘れしただけですってば。…ははは」
彼女の自分を見る困り顔を、彼は冷めた表情の下で、面白く思っていた。名前を忘れられたのは、さすがに堪えたが。
そこで、天啓が差したようだ。「真澄さんだ! そうでしょ?」。褒めて頂戴、といった得意げな顔を向ける。
(何を今更…)
彼女をちょっと押しのけ、煙草に火をつけた。煙を避けてやりながら、彼女の声をただ聞く。
「そうだそうだ。社長秘書の水城さんが、『真澄様〜』って呼んでた」
彼女は目をちょっと吊って見せ、秘書のつんとした顔つきを真似て見せた。似ていないが、おかしい。
(俺もどこかで真似されてそうだ)
「…それで、俺の名前がどう関係する?」
「まあちゃん…、まあくん…、何か違う。う〜ん…」
不穏な発言を聞き流し、煙草を消すと、彼女の折った脚に手を這わせ、ハイソックスを脱がせた。名づけに夢中の彼女は気づきもしない。
「あのね、みいちゃんは?」
「みいちゃん?」
「うん、真澄さんの「み」。いいでしょ、可愛いと思う。猫っぽい名前だし。みいちゃん」
適当にいいよ、と返し彼女を膝に乗せ、自分の腰へ跨らせるように抱いた。いきなりの仕草に、彼女は軽い悲鳴を上げた。
軽く口づけてから、
「さあ、払ってくれ。随分ツケが溜まったぞ。名前を君の猫に一字やったんだ。その分を含めると、相当な貸しだな」
「え?!」
「忘れたのか?」
遅れて彼の言葉が腑に落ちた彼女は、恥ずかしさに頬を真っ赤に染めた。次いで、今日の彼が負ってくれた、彼女のための労や配慮などは、彼女の知る彼には珍しいことだったはず。それらに喜びもし、ときめいたりもしたことが思い出された…。
そもそもが、こういうことをしにやって来ているのである。
「どうしたらいいんですか?」
と恥ずかしげに問う。胸がどきどきと鳴り、以前の彼と抱き合った記憶が、目の奥でちかちかとフラッシュバックするようだ。
「さっきの真似でいい。君からほしい」
彼女の方がぎゅっと目をつむり、ほんの軽いキスをする。それですぐ彼女は身を引いた。恥ずかしさとふっと射す怖さで、体が硬くなるのだ。
「何だ、今のは。わからなかったぞ。利息にもならんな」
「利息…?! やっぱりけちんぼ! もう、すごく頑張ったのに。死をも覚悟したのに…」
「何だそれは。とにかく、もう一度だ。ほら、頑張れちびちゃん」
勇を鼓した様子の彼女が、また固く目を閉じ彼へ顔を寄せた。ちゅっと音がしそうなほど軽いそれの後で、やはり素早く身を引こうとする。彼はそんな彼女の腰を強く抱き、離れることを許さなかった。
今度は彼から彼女へ口づけた。すぐに深まって、言葉も交わせなくなる。彼の手のひらが彼女の背をさまよい、脚に伸びた。内側を這うその手がさっき勝手に彼女のハイソックスを脱がしてしまったことを、気づく様子もない。
彼女は身を引こうとしなかった。
ゆっくりと口づけ、腕に抱いた彼女を感じながら、彼は以前ほんの束の間抱き合えたあの夜、こんなように時間と気持ちの余裕があれば、と、臍を噛んでいる。怯えが露わな彼女を、欲に溺れて、無理に抱いた。彼女が許してくれたからだ。
(犯したようなもんだ)
わずかに唇が離れた。彼は彼女をソファに倒した。再びキスをしながら、髪に触れ首をなぜ、自分が着せたシャツの胸元へ指を沿わせた。彼女は目をつむりながら、それらを許してくれている。
ボタンを外し、手を中へ潜らせた。ブラジャーがある。前は焦れて乱雑にずらしたなりで、乳房をつかんだ。けれども今はボタンをすべて外し、やんわりとシャツを脱がせた。ころりとうつ伏せにする。それでホックからそれを取り去った。
手のひらに彼女の胸を収め、うなじから背中へ唇を当てる。
「…速水さん」
「何だ?」
「あのね、…わたし…」
声に涙の色がする。泣くほど嫌なのだろうか、と自虐的に思う。「悪いが、止めない」。
「そうじゃない…」
彼はうつむけた彼女の顔をのぞく。涙をあふれさせた瞳にややたじろぎつつも、口づけた。
「泣くほど拒むのか?」
「違うの、そうじゃない。…わたしだって、してほしいもん。速水さんに、してほしいの!」
だけど、と彼女の言葉は途切れてしまう。
彼は身を起こし、胸に彼女を抱き寄せた。そうしてから訊いた。
「だけど?」
彼女は涙声のまま、
「怖くて、少し、やっぱり怖くて…、だから、こんなのは嫌」
「どうしてほしい?」
「ここじゃ嫌、ベッドでちゃんとして」
彼女の思いがけない告白に、彼は胸をつきんと衝かれた気がした。
「…わかった。じゃあ、上に行っておいで。俺は明りを消してからいくから」
「…はい」
返事をした彼女は、シャツを拾い、胸の前で抱いた。すぐに去らず、そのままもじもじとしている。
「どうした?」
「速水さん、怒った?」
「どうして?」
「だって、わたしが怖いとか言ったから…」
「いや。怖がらせたんなら、俺のせいだ」
閉じた扉の影。逃げ場もない暗い壁に彼女を追い立て、慌ただしく体を貪った。それが彼女にとって、こだわりにならない訳がない。
「でも嬉しいよ、君の本音が聞けて。「速水さんにしてほしい」って」
「馬鹿!」
顔を赤らめて、いつのも元気で彼をぶってくる。
「早く上に行かないと、ここで始めるぞ」
「もう…!」



          

     
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