みいちゃん
5
 
 
 
二階には大きな吹き抜けを囲んで、客間の扉が三つ並んでいた。どこを使えばいいのか迷い、彼女は適当に扉を開けていった。真っ暗な中に家具が埃避けの布をかぶっているのが見えた。
三つ目を開けたところで、彼が追いついた。
背中から促され、中に入る。十畳ほどの部屋にはベッドとその脇のランプを置いたチェストしかない。窓の隣りにクローゼットの扉が見えた。
ベッドの上で抱きしめられた。ゆっくり倒れて体が重なった。中断してしまったさっきの続きではなく、最初から始めてくれるのが、彼女にはちょっとおかしいようで嬉しいのだ。
彼の何が怖かったのだろう。
口づけに始まり、徐々に移っていく愛撫を受けながら、彼女は思う。あのとき、彼は言っていたではないか。「今君が欲しい。もう待ちたくない」と。それにどうしようもなくときめいて、気持ちが高鳴って、震えたのを覚えている。忘れられる訳がない。
何百人もの招待客であふれたあのホテルで、不意に会えた喜びは互いによく理解できた。目交ぜ。そして会場を抜け出した。人目を避け、辿り着いたのは旧館の非常口だった。そこで口づけた…。
彼の性急さとか、強引さに戸惑って怯えたのは事実だ。あんな風に許さず自分を強く求める彼を知らなかった。そしてつながった痛烈な感覚には慄然ともした。
情事の後で、乱れを直し、涼しい顔で会場に戻る彼を信じられない気持ちで見送ったのを覚えている。彼女はその場で長くうずくまっていたように思う。何も考えられなかった…。
今、時を移し、彼の仕草はひどく優しい。体中に感じた唇や長い指が這うその密度。声を忍ばせるのが辛いほど、彼女の全てを愛してくれている。
開いた脚のほんの内側に、彼の髪が触れた。それにどきりとして、体がすくむ。声が出た。
「嫌、止めて」
「俺に、全部寄越せ」
抗っても、易く封じられてしまう。初めての密な愛撫は耐え難く続いて、果てにすべての力が弛緩してしまうよう。彼が欲しいと思った。今すぐ、欲しいと思った。
彼の長い指が、自分の中を探るのがわかる。何度も、何度も。それがひどく切なかった。早くつながりたいと、涙ぐみながらせがんだ。
「速水さん…、お願い」
 
彼女の体に彼は身を伏せた。彼を受け入れた彼女の中は熱く柔らかい。こんなにも容易く深く彼をのみ込んでしまうことに、痺れるような官能を覚えた。
つながりながら、口づける。髪に耳に頬に、唇に。
「好き」
やはり涙をにじませた彼女が言う。
「どんな速水さんも好き…」
「どんなって? そんなにバリエーション豊富か?」
「…ロリコンでも、ロリコンが理由で婚約を破棄されても…」
「お前は…」
仕返しに、彼女の両足を力を込めて引いた。「あ」と、のけぞるように彼女が反応する。後は言葉もなく、互いの体がくれる歓びをせがむように求め合った。
 
ほんのわずかにまどろんだ彼女が、目を覚ました。彼と目が合い、恥ずかしげに伏せた。
「眠るか? このまま」
「…喉が渇いた」
じゃあ、と彼が身を起こした。水を取って来るという。ベッドを出ると、肌着を付けただけで部屋を出て行った。
階下へ降りた彼は、水のボトルを冷蔵庫から出し、続くリビングで、煙草を一服吸った。吸いながら、悲しげに泣く猫に気づいてケースから出した。彼女がやっていたように、ミルクを与えた。頃合いを見てタオルで包み、またケースに戻した。
それから彼女の待つ部屋に戻った。
どれほどの時間が経ったのか。時計を見ていないからわからない。それにしても十分程だろうか。
ドアを開ければ、ドアの側に彼女が立っていた。ベッド脇のみの明かりでも、すぐに素肌のままだと知れた。
「マヤ…」
彼女は戻った彼の体に腕を回した。
「戻って来てくれないかと思った。速水さんが置いて行ったのだと思った…」
「どうして?」
「だって、思ったんだもん、そう思ったんだもん…!」
「水を取りに行っただけだろ。煙草を吸って、猫にミルクをやっただけだよ」
「…思ったんだもん、放って行かれたと思ったんだもん」
理屈ではない、別のものを彼女は欲しているのだと、彼は悟った。
彼女を抱きながら、何が彼女にそう思わせるのかを、答えの出ないまま記憶を辿った。これまでの様々なシーンで、彼女に背を向けてきた。理由があったが、背を向けられ切り離された彼女に、それは詭弁にしかならないだろう。
「行っちゃ、嫌…。置いて行かないで」
ぎゅっと彼へ体を押し付ける、彼女の心にひたひたと満ちた寂しさを思った。どうやって埋めてやればいいのか。迷いながら彼女を抱き上げた。
ベッドへ降ろし、欲しがっていた水を、ボトルのキャップを取ってから渡した。喉を鳴らして飲んだ後で、ボトルを下ろした。ほとんど残ったそれを、彼が取って口を付けた。
彼女は少し放心したようにしていた。どれくらいか経って、自分が裸なのに気づき、今更ながらに毛布を手繰り寄せたりしている。
一種ではない羞恥が込み上げるのか、彼女は夜目にも頬を染め、恥ずかしげに彼に詫びた。
「変なこと言っちゃった。…あんな後で、どうかしていたの。ごめんなさい。聞き流して下さい」
彼は言葉を返さず、その彼女を抱いて、そのまま自分の腕の中に寝かせた。
「どこにも行かないよ。側にいる」
「…忘れて。どうかしていたの。すみません…」
「忘れない」
「…意地悪」
「どんな俺でも好きだって言ったじゃないか」
「もう…、知らない」
「どんな君でも俺は好きだ。気がふれそうなほどに、君に恋している」
「え」
「何だ、信じないのか? 長いつき合いなのに、信用がないな」
「最近になってだもん、こんな風に速水さんと話したりするの。それまでは、いつも意地悪ばっかりだったし…」
「それは悪かった。でも、あれは俺の地だ。君をからかうのも、驚かして連れ回すのも楽しかった。何の作り事もない」
声が返らなくなった。
眠っているのかとのぞくと、ほっそりとした声がつぶやく。
「でも、速水さん、他の人には、優しかった…」
それがかつての婚約者とのことを指しているとわかる。彼の態度の自分と違いとのあまりの差は、「好きだ」、「俺が紫のバラの人だ」と事実を突きつけられたって、そうそう清算できるものではないらしい。
彼にしたって、彼女の自分への体いっぱいの拒絶や嫌悪の言葉を、いつからか真実とかけ離れてきても、鵜呑みにしてこれまできたじゃないか。自分には届かないと、叶う訳がない、と。
だからこそ、彼女から目を背けて気持ちを偽って、あんな馬鹿げた婚約を選んでしまったのだ。
彼女は額を彼の胸に擦りながら、彼の言葉を待っている。何を言ったら納得するのか、落ち着くのか…。いずれのものを言葉にしたって、そこに嘘はない。
「全部建前だ。それらしく振舞っていただけだ。ほら、君だって、芝居で恋人役にはそんなような態度を作って見せるだろう? それと一緒」
「でも、すごくお似合いで…、すごく優しくしてたのに…」
「ただ優しくするのは、楽なんだ」
「え?」
「いや…、『紅天女』は俺の演技を褒めたと思っていいのか? ひょっとして、役者の才能があるのか?」
「ない」
彼女は言下に否定する。「速水さんみたいな観客のことを考えない人には、無理です」。
鋭いことを言う。二重の意味を持たせたそんなことを、さらりと口ののぼせる彼女は、芯からの成熟した女優なのだ。
観客は二人。婚約者だったあの人と、そして彼女だ。熟慮したつもりの決断は独りよがりのもので、結局そのどちらともを傷つけた。
「かわいそう…」
「そうだな」と返しそうになって止めた。自分がしでかしたことだ。同情した振りをしたって、白々しい。薄らいだ罪悪感はあっても、あの人への同情心は彼にはない。散々な騒ぎのその中で、あの人は中心にいて、悲劇に酔ってそこに耽溺していたように見えた。ああいう自己完結もあるものか、と引いて眺め、不思議に思ったものだ。
彼女は、自分だってあの人から嫌がらせでは済まない種の仕打ちを受けていたのを、忘れたように「かわいそう」と繰り返しつぶやいた。
(あの人が、君に一番言われたくない言葉だよ)
言葉にせず密かに返し、
「なあ、君も俺も一緒にいないと、ろくなことがない。周りを振り回し、傷つける…」
「それは、速水さんだけで〜す。わたしを同類にしないで下さ〜い」
冗談めいた口ぶりにちょっと苦笑し、彼は彼女の頭のつむじあたりに口づけた。
「心当たりは、本当にないか?」
「え」
彼女は短く絶句し、「…何を、知ってるの…? 速水さん」。
うかがうような声だ。思い当たることがない訳ではないらしい。深くは問わず、彼は「さあな」と逃げた。
「『紅天女』だ、君を嫌がる男はいないだろうって思っただけだよ」
「…一緒にいるって、こんな風に会うのも難しかったのに」
「だったら一緒に暮らさないか? 都合が合う日だけ会ったっていいじゃないか。今よりましだ」
「だって、噂とか、すごいですよ。前も、すごい書かれていたし…」
鷹宮家との破談の際には面白おかしく書き立てられた。秘書がピックアップした記事を何誌か見たが、「親族B氏」だのが、速水家の跡取りになりおおせた彼の氏素性の胡散臭さとその母の強欲な打算を語り、「元鷹宮家の家政婦」だのが、彼の性的嗜好の異常さを語った。裏づけなど何もない。
読者の下種な好奇心をあおるだけの記事だったが、彼も面白く読んだ。名誉棄損で訴えられるレベルのものだ。こんなものを堂々とぶち上げてくるあたり、記事の出所が知れた。
それでも、噂話も何とやら。芸能人でもない彼の私生活のゴシップなどあまたのニュースに飲まれ、うたかたに消えた…。
今度、彼女とのことが噂になり、スキャンダルとして扱われれば、今度はどうキャプションが付くのだろう。早晩、嗅ぎつけられるのは時間の問題だ。
なら、そのどさくさに、願いを叶えてしまえばいい。さっさと同棲でもしてしまえば、「深夜の逢引き」だの、「熱愛密会」だのを超越している。
「怖いか? あれこれ書かれるのが」
「でも、知らない人が読んだら、信じちゃいます。そうかも、って思っちゃうわ。速水さんに芸者さんに産ませた隠し子がいるとか…って」
「あははは、君は読んだのか? あれを」
「見せてくれた役者さんが言ってた、所属を変わった方がいいんじゃないかって。のんびりしていると、速水さんに、『紅天女』の上演権を盗られちゃうぞって…」
ああ、そうか。彼の頭に雑誌の表紙が浮かぶ。背景は赤。黒抜きの文字で『速水氏『紅天女』女優からすべてを奪う!』副題としては、『北島マヤをおもちゃにして弄んだ男のその仮面を、本誌が徹底的に剥ぐ!』だ。
「思うのか? 俺が君を丸め込んで、上演権を取り上げるかもと」
「速水さんなら、やるかも…」
「おい」
忍び笑いする彼女は、「してもいい、です」。
「ほしいなら、あげます。『紅天女』」
ちょっと言葉を失っていた。間を置き、彼は無意識に、要らないと答えていた。それは彼女が長い間の努力で勝ち得た、彼女のみに属する権利だ。彼がそれを取り上げたところで、彼女以外の誰があの役を演じ切れるというのだ。
「俺が、取り上げた上演権をどう使う? 君しかやれない役だ。君の機嫌を損ねたら、そこでアウトじゃないか」
「亜弓さんがいる。わたしの他に、阿古弥をやれるでしょ」
「亜弓君が引き受けると思うのか? 君がいるのに」
彼女はそこでおかしそうに笑った。胸に彼女の笑い声が響く。
「思わない」
そんな彼女をぎゅっと抱きしめた。わかってくれているのだ、彼女は。彼のどんな中傷も受け止めて、きちんと解釈し、笑い流してくれる。それが、彼に嬉しかった。
(俺には、天女様がついてくれている)
眠気を含んだ彼女が、
「速水さんにあげる、わたしの全部あげる…」
そう甘くささやいた。




             


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