彼女のレシピ
3
 
 
 
車に戻りすぐ、彼は運転手に彼女のマンションの住所を告げた。
彼女があの店にいると知って乗り込み、●◎×子にマスコミがすぐそばで待機していると匂わせた。嘘ではないだろう。
だが確証はない。店の裏口から呼んだタクシーに乗り込む際、辺りをうかがう×子が、酔眼と疑いの目で見れば、何だってそれらしく見えるだろうと、そう思ったまでのことだ。
そして、たとえ×子が慧眼で、彼が現れたことにより、マヤとの仲を察せられたとしても構わなかった。
追加勤務で、疲れが増した。隣りの彼女の視線を感じたが、そのままにして目を閉じた。彼女が何も話さなかったおかげで、車が目的に着くまで眠っていられた。
「社長、着きました」
その声に目が覚めた。外を見れば見覚えのある彼女のマンションのエントランス付近だった。
彼はあまり考えず、彼女の腕に触れ、
「いいよ、おやすみ」
と言った。
彼女は、なぜか「ちょっと待っていて」と車を降りた。すぐに建物にのまれ姿が見えなくなる。
(何なんだ?)
しばらく待たされ、彼女が戻った。彼の声を待たずに、運転手に行く先を告げている。彼のマンションだった。運転手は沈黙が彼の了解と取ったようだ。車が再び走り出す。
来る気なのだと知り、ようやく彼の目が覚めた。
「みいちゃんはいないぞ」
「知ってます」
そこで声を潜め、「でも、大きいみいちゃんがいるから」と言う。
「え」
とっさに意味が取れなかった。しばらくして、それが自分を指すとわかり、苦笑が浮かんだ。「速水さん」とばかり呼ばれてきて、慣れていた。しかし、違った呼び名で呼ばれると、くすぐったいような新鮮さと嬉しさがある。
猫と同じ名であることは、このとき意識になかった。
「あれは、何だ?」
「あれって?」
彼は、さっきの店で彼女にべったりついていたホストがしていた仕草を真似た。彼女の唇の端に親指を置い拭うように触れる。そうしながら、商売とはいえ、男の度を過ぎた親しげな振る舞いに、胸がむかついてくる。ぼけっとそれを許す彼女も彼女だ、と。
「ぽーっとした顔をして。ホストにのぼせ上がってるように見えたぞ。ああいう手合いに、隙だらけに勘違いをさせるな。君みたいなのは、簡単につけ込まれるぞ。大体、あんな…」
「ハヤトです」
「は?」
「え、だから、さっきの男の人。「ただのハヤト」なんだって」
「けっ」
彼女はこんな風に吐き捨てる彼が珍しく、またちょっと萎縮してしまう。何のかんのいっても、挙措のスマートな人である。そんな彼の普段にない様子に、ひどく怒っていると思ったのだろう。
彼は怒っているのではなく、疲れて妬いて、「ただのハヤト」の馬鹿らしさに嫌気がさしているだけだ。
「…速水さん、帰るの明日じゃなかったの?」
その言葉に、夕べ自分が電話で伝えた内容を、彼女がやはり聞いていなかったと知った。がやがや後ろがうるさかったし、聞き逃したのだろう。「大丈夫です」と偉そうに返したくせに。
「俺が帰らないと思って、ホスト遊びか?」
「そんな…!」
口をついて出たのは、彼女にきつく、自分でも嫌な皮肉だった。今夜のことは、秘書の水城や先ほどの女優が説明した通りなのだと、納得はしている。しかし、こんな文句が出るあたり、ねっちり気分を害している証拠だった。怒っていないとはいえ、彼女に向け、とげとげした思いを向けてしまってはいるのだ。
しばらくして、彼女が涙ぐんでいるのに気づいた。泣きながら、
「ごめんなさい…、わたしのせいで…、迷惑かけて。速水さんに謝らせたりして…」
そんな風に泣かれると、彼は弱い。彼女には感じられ、彼も生えたのを意識した自分の頭の角は、その涙に溶けてしまうのだ。これまで彼女を何度も泣かせたが、密な関係になってからは、初めてだったか、と気づいた。
彼女は今夜のことで、彼をあんな場所まで出張らせ、頭を下げさせたことを悔いているようだった。実のところ、店に入り、彼女を連れ出すまでの一幕は、彼にとって大した作業ではなかった。あんな程度の対応なら、考えなくても身体が動く。
彼女の手を取った。自分の指を絡めながら握り、
「そんなことを気にしなくていい。必要だと思ったから、ああしただけだ」
「…でも、ごめんなさい…」
「謝るんなら、俺じゃなく、彼に謝るべきだよ。君のおかげで仕事が三倍に増えた」
彼は前の運転手を顎で示した。
「あ…。ごめんなさい。あの、すみませんでした!」
大声を出すから、運転手が「わ」と驚いた。その後で「お気遣いなく、長いですから、この道」と静かに返す。
その道の長いベテランがしなやかに走らせる車は、揺れも危なげもなく、程なく彼のマンションに着いた。
 
しばらく留守にしたが、家政婦の手が入り空間はきれいに保たれていた。引いたキャリーケースを玄関に置き、彼女を中へ促した。
リビングで上着を脱ぎ、ソファの背もたれに掛けた。ネクタイを緩めながら大あくびが出る。
(腹減ったな)
急に空腹を感じた。しかし何もないはずで、ビールでも飲んで誤魔化そうと思った。
彼の座ったその足元に彼女は座り、稽古帰りによく見る大きなバックから、何か取り出している。それは透明で四角い保存容器だった。何かごろごろ入っているのが見えた。
「速水さん、お腹空いてないですか?」
「え?」
なぜわかるのか、不思議だった。思わず「空いてるよ。昼から何も食ってない」と返す。
「よかった。わたし、いいもの持って来たんです。食べて下さい」
そのまま彼女はキッチンに入った。システムキッチンの扉や引き出しを探っている。
「お鍋ありませんか?」
彼は酒を飲み、せいぜいコーヒーを淹れるくらいでキッチンには用がない。何があるかもよく知らない。「その辺にないか?」と答えながら、彼女の側へ行く。
行けば、既に彼女は小ぶりの鍋を見つけ出していて、そこに持ち込んだ容器から中身をどぼっと投入する。火にかけ、蓋をした。
「ポトフー作ったんです。たくさん作ったから、速水さんにも食べてもらおうと思って」
「料理、出来たのか?」
「失礼ですね、こう見えて、自炊歴は長いんです。でも、人に教えてもらったものばかりだけど。これは前に劇団の仲間が食べさせてくれておいしかったから、教えてもらったんです」
彼女は鍋のふたを少し開け様子を見ている。煮立ち始め、ふわっといい匂いが立ち上る。それに、胃の辺りがしめつけられるようになる。
「あ、速水さんお腹鳴ってる。大丈夫だから、速水さんは、座って待っていて下さい」
そう言って彼を押しやった。
「ああ」と頷いたが、意外な彼女の一面に、ちょっと面食らっていた。冷蔵庫からビールを取り出し、それを飲みながら彼女の仕草を眺めた。真剣に鍋の中を見る彼女。杓子を使い、それを器に移していく彼女。ちょっと中身が跳ね、それで「あちっ」と手の甲を唇に押し当てる彼女…。
全部、可愛いと思った。
彼女には妙な魅力がある、と彼は思う。彼が望んでいるものを、ほら、と簡単に差し出してくれる。それはこれまで笑顔だったり、意味のある視線だったり、暖かく柔らかい小さな身体であったりした。折々のそれら振る舞いは、ちょっと魔法めいて、彼を引き寄せぐるぐると見えない糸できつく縛るかのようだ。
皿に盛られたポトフーには、かたまり肉にジャガイモにカブやトマトなど野菜がごろごろ入っている。熱さに顔をしかめたが、ひどく旨かった。缶ビールを一緒に飲みながら、彼の反応を見守る彼女に、
「おいしいよ、すごく」
「嬉しい、よかった」
と顔をほころばせた。ふと彼に、
「速水さん、趣味変わりました?」
「何が?」
「ネクタイ。可愛い、ゆるキャラの『ちくワン』が刺繍してある! こんなのしない感じだったのに」
「この先もしないよ」
これは、出張先でもらったのだと言う。義理みたいなもので着けて過ごしただけだと。「ふうん」と彼女は頷いたが、
「すればいいのに、可愛いのに。似合うのに…」
知らない振りで食べ続けた。あっちでは、このネクタイを締め、当のゆるキャラと抱き合った写真をバチバチ撮らされたことは言わないでおいた。
最後のトマトを口に入れ、彼女に手を合わせた。
「ごちそうさま。本当に旨かった。見直したよ」
「わたしの点って、速水さんの中でどれくらい低いんだろう」
彼女は皿を下げ、それをキッチンに運びながら言う。その背に、「最高点だよ」と返した。
「嘘ばっかり」
嘘ではない。彼は美点めいたものを彼女に求めてはいないから、これができたら加点する、出来ないから減点するといったことがなかった。
水音が聞こえる。食器を洗ってくれているのだ。身近に置いた女性の家庭的というか庶民的なところは、彼には新鮮に映る。そもそも彼女ほど自分の内側に入れた女性はいないが。ともかく、そういったものを女性に必須だと思ったことはなかった。
しかし、彼女の当たり前の生活感に、ある懐かしさを伴い、ふっと癒されている自分がいる…。
(ああ、そうか)
ずっとずっと以前、彼がまだごく普通の子供だった時代に、母親が振りまいていた雰囲気だった。そんな昔の記憶が、この水音に引っ張り出されてきたのかもしれない。




          


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