僕と君との距離はこれくらいが調度良い
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (10

 

 

 

ときとして、鬱陶しいとも思える招待状もある。

わたしはそれを、離婚と引越しのごたごたに紛れて、すっかりと忘れていた。

思い出させたのは、一本の電話だった。

ちょうどわたしは夕飯の仕度の最中で、野菜を素揚げしているところだった。どうしてだろう、いつも揚げ物をしている手の離せないときに、よく宅配便がやって来たり、電話がかかったりする。

それには茶の間でテレビを見ていた母が出て、ほどなくわたしを呼んだ。

「薫子、あんたによ」

母は、相手が名乗った名を言ったが、わたしは思い出せなかった。何かのセールスかとも思いつつ、母に菜箸を渡し、火の前を離れた。

受話器を耳に当て、「はい、もしもし」と応じるとすぐに、含み笑いをした声が返ってくる。

『薫子、久しぶり。わたし、京香』

その名に、すぐさま招待状のことを思い出した。彼女の結婚披露パーティーの招待を、わたしは確か、数ヶ月前から受けていたのだ。

京香は高校時代の友人だ。ゆりのように親友とまではいかないけれど、親しかったグループが同じで、お弁当を一緒に食べ、休日には遊んだ仲だった。

進学で離れ、やや疎遠になっていた。正直なところ、縁を繋いでおきたい間柄ではなかった。たまにクラス会や同窓会、誰かの結婚式などで会えば十分。

そんな彼女が、結婚した。式は身内だけで、数週間前に既に新婚旅行を兼ね、ヨーロッパで挙げたらしい。

帰国後に、友人や仕事関係の人々への会費制の披露のパーティーを開くので、随分前にわたしに招待状を送ったのに、その返事がないから、こうして電話をしたのだという。

「ごめん…」

新婦自身に、こうして招待客へ連絡を取らせたことを済まなく思った。

その気持ちの傍らで、わたしの離婚も出戻っている経緯も、こうして実家に電話をかけている時点で、彼女が把握していることに、言葉を重くするような軽い不快感がある。

「ごめん、京香。わたし、いろいろあって……」

その次に、「せっかくだけれど、控えさせてもらう」という言葉を告げるつもりだった。離婚したばかりのわたしが、おめでたい席に顔を出すのは気が引けるし、気分も乗らない。

わたしが言葉を発するより早く、彼女の声が、それを防いだ。

「気にしないで、離婚のことなんか。ねえ、薫子、来てよ。久しぶりだし、会いたいじゃない。パーティーのために、ドレスもオーダーしたの、友達にも見てほしくって。演出も結構こだわったんだから。それに、和浩の友人も大勢来るから、ね。次の出会いの場にしなさいよ」

わたしはそれに答えをしなかった。軽くため息が出た。

しっかりと思い出した。わたしが彼女と疎遠でいたい理由を。

離婚を経験して二月ほどのわたしに、それを思いやることもなく、ストレートに新しい出会いを提供してやるという…。

幸せのど真ん中に浸って、夢中なのは経験からも、わかるけれども。

それとも、わたしがひがんでいるのだろうか。

別れたわたしと、これから結婚をする彼女と。その差に。

「ごめん、やっぱり、場にそぐわないから。失礼するわ」

「いいってば、来て。…そうねえ、薫子はパートナーなしで、特別に一人でいいから。ほら、和浩の友人でも、やっぱり一人で来る人がいるらしいの」

そうだ、忘れていた。

パーティーには、できるだけパートナーを同伴してほしいとあったのだ。女性は男性と、男性は女性と、ペアで来てほしいと招待状に書かれていた。

カードをもらった頃は、離婚することなど思いもしなかったし、敏生の都合が合えば、もちろん彼を伴うつもりだった。だから、その珍しい設定を面白くも感じていたのだ。地元の友人に、彼を紹介できると。

ほんの少しの時間のずれで、面白かったはずの設定が、今では馬鹿みたいに苦いものになっている。

ため息の後で、わたしはもう一度、断りを繰り返した。

それに彼女は「今更欠けると、困るのよ」と、返事の遅れたこちらの落ち度を突いてくる。それを言われると、非がある分、弱いのだ。

「一人で気楽に来てよ。楽しみにしてるから」

あまりにくどいので、根負けした形で承諾してしまった。「でも、都合が悪くなったら、ごめんね」、我ながら惨めな逃げ場を用意しておく。

行かないつもりだった。どんな席だって、欠席者の一人二人は出るもの。大勢のお客の中に、わたしの欠席など、すぐに紛れてしまうだろう。

キャンセル料で迷惑をかければ、それは後で詫びて支払えばいい。

電話を終え、またため息だ。

京香が自慢したいドレスもパーティーも、見たくなどない。まして、新たな出会いの場など、ちっともほしくない。

 

 

翌日は日曜で、ゆりとショッピングに出てきた。

家から彼女の運転する車で、約二十分。城下町で小京都の一つに数えられる街は、わたしが高校までを過ごした頃より、ビルも人も車も増えたように思う。

名刹や城址も近く、日曜日ともなれば、買い物客の他、観光客も多い。

デパートで、わたしは目当てのワンピースを一枚買い、ゆりは今度京香のパーティーで着るドレスを探した。

「何か、ぱっとしないな」

シフォンの柔らかい生地を指でつまみながら、ゆりは唇を尖らせる。指を離し、「止めた。やっぱり着物にする。暑いけど」と、わたしに向き直った。結婚の際に作った訪問着に、まだ袖を通していないのだという。

「薫子はどうするの? 京香のパーティー」

「行かないわ。別に会いたくもないし」

彼女には、夕べもらった電話の大体の経緯は告げてある。ゆりの第一声は、「京香らしい」だった。

それに、今日は彼女らしい分析が付いた。

「あの子、昔から薫子のこと、やたらとライバル視していたもん。ほら、京香が好きだったバスケ部の近藤くん。結局彼が、薫子を好きだったじゃない。あれ以来よ。いまだにそれを根に持っているのよ」と。

結婚した相手の男性が、なかなかの資産家の息子であること、兄が弁護士で、その兄の弁護士事務所に勤めながら司法試験に挑戦していることなどなど、京香は随分友人たちに吹聴したようだ。

「半年ほど前のことだから、薫子は知らないだろうけれど、そりゃ自慢していたのよ。あんたたちとは違うんだって、顔して」

そこで、ゆりは声を落として言う。

「京香は、薫子に見せつけたいの、今の自分を。薫子より自分が上なのだって。だから、あんたをやたらと呼ぶのよ」

「上でも下でも、どっちでもいいわ」

「ねえ、行こうよ。パーティー」

「え」

ゆりがわたしの腕をつかんだ、ぶんと振り、

「行こう。ちゃんとパートナーも連れて。喬さんと四人で行こう」

「ちょっと、何言ってるの? ゆりはいいけど、わたしにパートナーなんていないじゃない」

「馬鹿ね、いるじゃない。ほら、柏木さん。毎晩もう十日以上も、メールをしているのでしょう? 彼にお願いしたら、喜んでOKしてくれるって」

 

あ。

 

『メル友』の彼。柏木さん。彼とは毎晩、眠る前にごく些細な内容のメールを交わす仲だ。

暑い天気のこと、または忙しい仕事のこと。そんなことを、ほんの数行の文で送り合う。

それだけの、仲。

けれど、敢えて交わす仲。

確かに、嫌とは言わないと思う。

都合さえ合えば、「いいよ」と言ってくれるとは思う…。

どこかに、わたしの中に、ばちりと小さな怒りの火が燃えていたのだろう。消したように思い、気づかない振りもし、けれどもやっぱり、胸をじりじりとさせる嫌な京香への反発心。

彼女をあっと驚かせてみたい気持ち。それは確かにある。

「でも…」

ためらいも、またある。

彼女の幸せそうな表情。満ち足りた雰囲気を目の当たりにすれば、それらに敗れた自分を省み、わたしはきっと惨めになる。

自分で飛び出したくせに。我慢がならないと、敏生を振り切ったのに…。

「ね、行こうよ」と、ゆりの微笑む楽しげな表情が、躊躇するわたしの背をぽんと押す。

気持ちがちょっと跳ねた。

やはり前者の方が大きい。

 

 

『構わないけど、
何を着ていったらいいの?

 

カシワギ』

 

あっけないほど簡単に、彼は京香のパーティーに出ることを承諾してくれた。ゆりの旦那さんの喬さんが一緒なのが、やはり気楽なようだ。

旦那さんと出かけるゆりとは別に、柏木さんがわたしを迎えに来てくれることになった。

着ていくものに迷い、結局ゆりと同じで着物にした。涼しげな絽のあっさりとしたものを、咲子叔母さんが貸してくれた。

「訪問着ほども重くないし、薫子たちが着るにはぴったりよ」と言う。

美容院で髪をまとめ、母に着付けを手伝ってもらった。ちょうど仕度ができてほどない頃に、柏木さんが訪れた。

彼はこの日、スーツを身につけていた。暑いのでジャケットは車の中に置いてきたという。結んだネクタイが、シャツの上でちょっとねじれている。

どこかで見覚えのある柄だと思えば、彼の車にでろんと放られていた、あの一本だった。ありふれたブルーのレジメンタル。

それでも三割増にスマートに感じ、ちょっと嬉しくもなる。

わたしが着物なのに、彼はちょっと驚いたようで、瞳をぱちぱちと瞬いている。女の着物姿が珍しいみたいに。

そのまま彼の車に乗り、会場へ向かう。

京香たちは、郊外の高原にある新しいオーベルジュを、この日借り切ったのだという。パーティーは午後六時からで、ほぼフルコースのフレンチ・ディナーが出るのだとか。

パーティーの会場となるオーベルジュの庭に、テーブルが幾つも設けられていた。照明やキャンドルが灯り、緩い音楽が流れ、お洒落をしたカップルがお喋りをし合う。

テーブルにセッティングされた光る陶器と銀器、おびただしいほどの花々…。

席に着いた早々、喬さんはささやいた。

「二次会の割に、金、かけてるよな」

それに柏木さんが、頷きつつ、きょろきょろと辺りを見ている。

「あ、河村、あれ、あいつじゃない? ほら、高校のときのバレー部の…」

知った人物がいるのか、そんなことを話している。

主役が現れるまでにしばし。その間に、久しぶりに会う友人とちょっと話したり、微笑み合ったりした。

六人掛けの席にゆりたちと四人で着いたが、残りの二席の名札の主は、会が始まっても現れなかった。見回せば、そんなテーブルが、ちらほら目につく。

「異性のパートナー同伴」としたおかしな設定が、わたし以外にもネックになった人はきっとあるだろう。敢えて出てこなくとも、何事もなかったのかもしれない。ここまでで、出てきたことを特に後悔はしていないけれど。

主役が現れるまでに、と隣りの柏木さんに声をかけた。彼には、受付で会費を二人分支払ってもらっていた。気がかりの立替分を返そうと思った。

「ねえ、さっきの一万円…」

それに彼は、首を振った。要らない、という。

「え」

「いいよ、女の子にもらえないから」

「そんな、無理言って来てもらったのに…」

「無理じゃないよ、休みで暇だったし」

「でも」

こそこそやりとりするわたしたちに、喬さんが割って入った。「薫子ちゃん」とわたしへとりなすように、

「そうが出してやるって言ってんだから、甘えとけばいいよ。でかいボーナスはもらってんだから、構うことないって」

「ほんとにいいよ、もらう気ないから。ボーナスはでかくないけど」

どうしよう、とためらううちに、照明の輝きが強まり、音楽が変わった。主役の登場だ。

オーダーをしたという裾の長い白のオフショルダーのドレスで現われた京香は、腕いっぱいに花を抱き、幸せそうに微笑み、きれいだった。

隣りの、どこか線の細いイメージの彼が旦那さまらしい。彼女の腰に腕を回し、テーブルごとに二人で挨拶に回る。

どれほどたった頃か。たっぷりと時間を置かれ、料理もメインが運ばれた頃に、ようやく京香がテーブルにやって来た。

「ゆりも薫子もよく来てくれたわね、ありがとう」

パーティー用に貼り付けたような微笑みも、美しい、きれいだ。彼女は紛れもなくこの場の主役なのだ。

ゆりとわたしのお祝いの言葉に鷹揚に頷いた彼女が、わたしの隣りの柏木さんに目を向けた。あれこれ彼から職業や歳などを、そつなく聞き出している。ワインをわずかに口に含みながら、やっぱり始まった、と思った。

何となく、ゆりと目を合わせる。彼女は、ちょっとおどけたように瞳を開いて見せ、わたしはうっすら唇を歪ませた。

「お忙しい中いらして下さって、ありがとうございます。薫子、今夜のパーティーに来てくれるって、なかなか返事をくれなかったので、心配していたんです。離婚して、そのショックからまだ立ち直っていないんだって。でも、こんな素敵なパートナーを連れて来てくれたのだもの、安心した」

そこでわたしに目を転じ、にっこりと笑う。

「でもよかった。思ったより立ち直りが早いのね。離婚の後で、すぐに新しい人を見つけてくるなんて、正直驚いたわ。あ、前から条件のいい人を見つけるの、得意だったわよね。鼻がいいのかしら。別れた敏生さんもそうだったし、柏木さんはお医者さまだし」

そう言って、また笑う。白く厚塗りした化粧の顔でにやりと笑うのだ。

こんな場にあって、こんなせりふを笑顔で口にできる彼女とは、もう友達ではない。少なくとも、彼女はとうにわたしをそう思ってはいなかったのだろう…。

ずっと彼女が話す間、わたしはワイングラスの脚の部分に触れていた。目の奥がちかちかと熱い。

ほっそりした薄紙のような京香との友情だった。先に破ったのは、彼女。それに何の痛痒もないけれど…。

のっぺりと塗りたくった澄ました顔に、わたしの方こそそれを突きつけてやりたい。

 

やはりこんな場に来るのではなかった。

 

胸ににじむ後悔を感じながら、わたしは京香に向け、微笑んだ。

三年間の有閑妻の生活で覚えた、ちょっと艶然とした笑み。そんなものを浮かべてみる。

それは余裕のある妻の笑みだ。例えば、メニューにはないけれど、何となく食べたい品を、行きつけの洒落たイタリアンのシェフに頼むときのあの笑顔。「できたら、お願いしたいの。いいかしら?」。首を傾げて、通らないことなど多分ないことを知っている、そんなやや奢った笑顔。

当たり前に表情に乗せていたそんなものを思い出し、

「そうね。とっても残念だけど、京香にはない才能ね」

そこで、向かいに座るゆりが、ぷっとワインを吹いた。

 

パーティーが終わったのは午後九時頃。それから二次会に流れる人たちもいる。

それに加わらず、ゆりは喬さんと帰った。車に乗り込む際までわたしを見て、にやにや笑いを止めないのだから、少し恨めしい。

わたしが京香に返したせりふが、おかしくてならないのだろう。自分が誘ったくせに。どこかで、わたしがふいっと彼女に反論するだろうと、きっと知っていたろうに。

帰りの車の中は静かだった。柏木さんは、何も話さない。

タイは既に外し、ぽいっとリアシートに放った。ああやって、車にネクタイが放置されるのだ、と何となく感心する。

少し、居心地が悪かった。

彼の機嫌が悪いように感じるのだ。

これから送ってくれる家までのドライブは、一時間ほどもあるのに。

「ごめんなさい、面白くなかったでしょう? つき合わせてごめんなさい」

信号の停車待ち。赤いシグナルが青に変わるその瞬間。

彼の言葉が返るのが、長く感じた。

ちらりとうかがう横顔は、真っ直ぐに前を見ている。

「ねえ、薫子ちゃん」

不意に彼がわたしを呼んだ。

けれど、目はこちらを見ずに、前を向いたまま。

「今夜のパーティー、あれ、僕が医者だから誘ったの?」

「え」

彼は乾いた声で問う。

「友達に自慢できるから?」

「柏木さん?」

彼は何を言っているのだろう。硬い、乾いた言葉で続ける。

「迷惑」

「え」

「訳のわからない女の子の見栄なんかで利用されるの、すごく不快」

それきり、彼は黙った。

わたしも口を閉ざした。

何を返していいか、浮かばない。

やり切れない時間が、二人の間に過ぎていく。




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