恋のアンテナ
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (9

 

 

 

『花の茶館』のクローズは午後六時。

お客が残っている場合は、少々ずれるけれど、大抵は六時半には、わたしは店を出る。

咲子叔母さんは店を始めた折に実家を出ており、店の二階が彼女の住まいのスペースになっている。リビングと寝室、キッチン、バスといったささやかなその場所に、わたしは入ったことが幾度もある。

そこに、彼女の恋人の高見さんの影を見ることだってある。彼の残したシャツであったり、画集であったり、またはサニタリーのシェービングクリームだったり…。

「来てもらってもいいのだけれど、できれば、あっちゃんのアトリエに行きたいのよ。掃除もしたいし、それに、あの絵の具の匂いが好きなの」

叔母はそんなことを、ちょっとだけはにかみをのぞかせて、けれど微笑して言う。

すっかり安定しているようにわたしには見える二人の関係。甘いような、でもどこか淡々としているような。

冷めた部分を感じるのならば、きっとそれは叔母が放つ部分だろう。

彼の将来の束縛を、したくはないという。

「何にもあげられないから」

「結婚も、してあげられない」

彼女のもらす言葉。それは、多分妊娠の非常に難しい身体であることを踏まえたものだろう。

けれど、そんなに冷静でいなければいいのにと思う。自分に厳しくなくていいのに、と。

恋の只中の、穏やかさとか幸福に、もっと浸っていいのにと、やや歯がゆさを感じる。

それが、恋人より五つ大人の彼女の余裕であるのか。

離婚を経験した女の、ある種の勘のようなものなのだろうか。痛まないために、溺れないように。まるで透明なバリアのような…。

それは、店の壁に掛かる高見さんの絵に通じるように思う。去年の誕生日に贈られた、彼には珍しいらしい水彩のそれは、叔母を描いたものだ。

薄いブルーの水辺に佇む、白い服を着た彼女。水の中をのぞく横顔は淡く澄んで、きれいだ。

どんな思いで、彼はこの絵を描いたのだろう。

わたしはその絵の中に、彼の一心に叔母に向ける愛情を感じるのだ。こんなことを思うのは、ロマンチックが過ぎるのだろうか。

彼には、叔母に足りないものなど、きっと見つけられない。

きっと…。

 

空調の効いた店を出ると、すぐにむっとした空気が身を包む。生温い風。その中に、どこかからの夕飯の匂いや、夏の夕暮れの甘いような香りが混じる。

まだ周囲は明るく、子供たちが遊ぶ声が聞こえる。それを追うように親だろうか、注意をする声。「車に気をつけなさい」、「もうご飯よ」など。

駐車場のがらんと空いたスペースに、一台見慣れない車が停まっていた。黒のRV車。車の知識があまりないので、どこのメーカーの何という車種なのかは、わたしにはわからない。

敏生が乗っていたタイプなので、RVだということはわかるのだ。彼のは、左ハンドルの外国メーカーのものだった。

ドアにもたれるように立っていた人物が、わたしに気づいて、身を車から離した。

「仕事、終わったの?」

問いかけたのは、柏木さんだった。彼はこの日のお昼にケーキを持って、謝りに現れてくれた。

それが再びここにいる。仕事の後なのか、もうブルーのユニフォームは着ていない。ポケットから聴診器ものぞいていない。シャツにチノパンツの、ごく普通の格好をしている。

まさか、気が変わって、あのケーキを返せというのだろうか。そんな馬鹿なことを一瞬考えた。

「あの」とわたしが口を開いたとき、偶然彼も「あの…」と話し始めた。言葉がぶつかり、互いに黙る。

ちょっとの間の後で、彼が話した。「先日のお詫びをしたい」という。

「それなら、もうケーキもいただいたし、お詫びなんて……、本当にいいの」

「よく考えたら、ここカフェだったよね。僕、ケーキなんか持ってきて、後で気づいて、ケーキなんかきっと売るほどあるのにって。もっとましなものを、考えついたらよかったんだけど」

「いいえ、あれおいしかった。叔母と二人でもういただいたわ」

「あの……、薫子ちゃんさえよかったら、食事でもどうかな? この後無理なら、別の日でも構わないし」

そんなことを言う。瞳をぱちりと瞬いて、ちょっと視線を凝らし、わたしを見ながら。

わたしはそれに、「気にしないで」と繰り返した。異性に、離婚をして寂しげだと、同情されるのは、堪らなく惨めだ。

バーベキューの場で、彼に離婚の話などしなければよかった。その場限りなのだ、適当に流して誤魔化せばよかった。

きちんと向き合ってくれる男性が、きっとわたしには珍しかったのだろう。だから、つい、口が滑ったのだ。

敏生は、そんな人ではなかったから。きれいに飾った裏に、いつも何か隠していた…。

長くわたしは、そんな男性しか知らなかった。だから、この柏木さんのように、真剣に瞳をこちらに向けて対してくれる人が、単純に嬉しかったのだろう。

けれど、同情はしないでほしい。

わたしは離婚をして、可哀そうでも、不憫でも、不幸でもないのだ。

「迷惑かな?」

「迷惑だなんて……、でも、変な同情はしないで」

「同情?」

彼が耳の辺りを掻いた。そうして、また目をぱちぱちと瞬いた。

「一人になって、不幸でも孤独でもないの。可哀そうな女だと思ってくれているのなら、そうではないから」

「そんなこと思ってない。そんな風に、君は見えないし。ただ、その……」

と言いよどんだ。

そして、こんなことを言った。

「メル友になってくれないかな?」

「え」

驚いたのだ。

男性とアドレスを交換し合うことなど、懐かしいほどに長く縁がなかったし、メールを交わすこともほぼなかった。

敏生は携帯メールが嫌いで、ほとんどくれることはなかったから、わたしがやり取りしてきたのは、女友達ばかりだった。

「ああ、引いている? 変な奴だって?」

笑みでごまかしながら、実は、ちょっと引いていた。よく知らない者同士がいい年をして、何を悠長にメールで話したいのだろう。

戸惑いが顔に出たのか、彼は追って言う。

「最近地元に帰って来た共通点に、何か、惹かれるんだ。薫子ちゃんは落ち着いて、前向きな感じがする。それに可愛くて、美人だし…。そんな君から、仕事の後でメールをもらえると、きっと嬉しい」

下らない内容でいい。どうでもいいことで十分だという。大した内容でなくともいい、わたしと簡単なメールをやり取りしたいのだと。

「そう…」

ちらりと思った。

彼の浮かべる笑みに、そして清潔な印象の影に、ふと、ほのかに感じたのだ。

何かわたしと共通するような、傷のようなものを抱えているのではないか。そして彼は、もしかしてどこかでまだ、その傷で、ひっそりと辛いのかもしれない…。

似たような誰かと、つながっていたいのだろうか。それで、癒されたいのだろうか。

そんなことを漠然と思った。

わたしはちょっとの間の後で、頷いた。

「携帯を解約したばかりで、まだ買っていないの。わたしのパソコンのアドレスでよければ……」

「ああ、構わない、全然。ありがとう」

にっこりと笑うと、以前の印象のように可愛い。そばかすの点々とある鼻から頬が、笑顔でちょっと少年のよう。

勤務先の病院でも、もてるのじゃないかしら。「笑うと可愛い柏木先生」とか。

わたしは食事なら、これからうちに来ないかと誘った。カレーを煮込んであるし、母がいるけれど、よければどうぞと。

「いいの?」

目を見開いて驚いている。

「カレーでよければ」

「うん、大好き」

彼はわたしの自転車を、車の後ろに積んでくれた。

「乗って」の声に、助手席に乗る。知らない車内の匂いが鼻を突く。リアシートに乱雑に放られた学術書や地図、例のブルーのユニフォーム。なぜだかネクタイが一本混じっている。

彼を形作る、確かな一つのパーツ。

飾らないそれに、初めて触れた。

 

家にはお客があり、母が茶の間で対応していた。

りゅうとした着物姿のすんなりと背の高い美人。花滝温泉一の美人女将と噂される旅館『花のや』の女将さんだ。

ちなみに、みーくんこと小早川さんの実の母親でもある。わたしたちには「絹子小母さん」で通る。

「あら、薫子ちゃん、お帰り」

話は済んだようで、小母さんは座布団から腰を上げた。

母に、『花のや』の離れでの三味線の会を頼みに、仕事の合間にその相談をしに来たのだという。これまでも、そういった会に、母は引っ張り出されてきた。

小母さんは、わたしが伴った柏木さんを見つけ、「あら、あら珍しい」と、ぽんぽん息子の友人の肩を叩く。高校時代からよく知るらしく、気安げに声をかけ、

「なあに? あんた、ここの薫子ちゃんと何かいいことあるの?」

「何かって、別に、夕飯をご馳走に……」

「へえ、うちじゃなくて、ここに。ほお……、いいわねぇ」

小母さんはにやにやと笑い、「うちにもいらっしゃいよ」と帰って行った。

わたしは、思わず彼を見た。彼がうちにカレーを食べにきたことは、きっと小母さんから小早川さんに伝わり、そう時間を置かずにゆりに伝わるのだろう。

彼女の目のきらきらとした輝きが目に浮かぶ。「待ってた、この展開!」とか何とか、満面の笑みで言うのだろう。

想像して、ちょっと力が抜ける。

「大丈夫?」

「何が?」

噂になりそうなことを、気にも留めていないようだ。わたしはううん、と首を振り、彼に座ってくれるよう促した。

夕飯の仕度に台所に入ると、彼が初対面の母に挨拶をしているのが聞こえた。

「すいません、急にお邪魔して。薫子ちゃんがカレーを食べさせてくれるって言うんで、それに甘えて」

突然わたしが連れてきた彼が、あの小早川の「みーくん」の友達と知り、母は安心らしい。如才なく応じ、

「女二人の世帯だから、いつも余るくらいですよ。たくさん食べていって下さい」

その後で、わたしがバツイチであることに加え、咲子叔母さんもが、離婚して出戻ってきたのであることなど、彼にいちいち説明しているのが耳に届いた。

余計なことを、と台所にいながらはらはらする。

「全く、女手一つで苦労して育てて、その二人が二人とも出戻ってきたら、こっちは気が抜けますよ。何か悪い霊でも憑いているんじゃないって、さっきも『花のや』の女将にこぼしていたんですよ。お祓いをした方がいいんじゃないかって」

「霊ですか?」

「そんな傷んだの、あなた知らないでつかまされたら、気の毒でしょ? 知った上で、それでもどうしても、って言うのなら、こっちも気持ちよく、はいどうぞと差し上げられますからね」

母の愚痴ともつかない妙な話に、彼がおかしそうに笑うのが聞こえた。

「お母さん、いい加減にしてよ」

堪らずに声を張る。

サラダのレタスを、氷水を張ったボウルに投げ入れた。

 

食事の後で、お皿を台所に運ぶと、嫌なものが流し台の横の壁を這うのを見てしまった。黒くて艶々とした気持ちの悪い触覚を、ふらふらと揺らすゴキブリ。

最近出ないと思ったのに、いきなりどこから現われたのか。

お皿を手にしたまま、固まってしまう。虫は嫌い。特にゴキブリは大嫌い。

どうしよう、どうしよう。

「お母さん、ちょっと。ゴキブリ」

母を呼ぶと、代わりに柏木さんが台所に入ってきた。「どこ?」と言う。

「あれ」

わたしの指した方向から、するすると動き、板の床に移動した。いつ手にしたのか、彼は新聞の丸めたものを手にしている。

「ちょっと気味が悪いから、見ない方がいいよ」

その言葉の後で、ばんと床を新聞で打った。彼の肩越しにそっとのぞくと、ゴキブリは潰れていた。

見たことがない光景ではないけれど、やっぱり気味が悪く、すぐに目を逸らす。

彼は新聞でゴキブリを包み、始末してくれた。床まで拭いてくれる。それを生ごみのバケツに捨てた。始末が流れるように手慣れているのだ。

「うちでも、母親と姉貴にいつもやらされてたから」

とのこと。

また違った、この人の一部を見たことで、胸に新鮮な驚きが増えていく。

「ありがとう」

「どういたしまして」

彼はその後で、手を洗うと帰って行った。

 

深夜、教えてもらったアドレス宛にメールを打った。

柏木さんが望んだ、簡単なごく軽い内容。それを読み返しながら、今日のことを何となく思い返してみる。

ふと感じたように、やはり彼の中にも何か傷があるのだろうか…。

それに、ほんのりとした興味はある。

送信したメールが、ほどなく返ってきた。

 

『カレーごちそうさま。
おいしかった。
おやすみ

 

カシワギ』

         

子供っぽいほどの、単純な内容だ。唇に、くすりと笑みが浮かぶ。

待つ誰かにメールを送る、ほどなくその返事がある。それは、思いがけず気持ちをふわりと華やがせた。

明日も多分、何か話題を見つけ、わたしは彼にちょっとしたメールをするのだろう。彼の返信も、きっとあるはず。

それに何の意味があるのか、意味をもっていくのか…。

どうなのだろう。

ただ、彼もわたしのメールを、ちょっと笑みを浮かべ眺めてくれていたらいい、そう思うのだ。




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