土砂降りの雨に後ろ姿が掻き消える
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (11

 

 

 

数時間前までは和やかだった、わたしたちの間の空気。

柏木さんはわたしが着物姿なので、驚いたと笑った。

「きれいだよ」

お世辞の匂いもなく、あっさりとあまりに真っ直ぐに言ってくれるそれに、ちょっと戸惑ったほど。照れは遅れてやってきた。

話題を探して黙ったわたしに、彼が自分のことを少し話してくれた。帰郷して、今一人暮らしをしていることを告げる。それが糸口になった。

「お母さん、帰ってきてほしくて待っていたんじゃ?」

「姉貴夫婦と同居してるんだよ。その子供の世話でくたびれるってこぼしてたし、不規則な勤務の僕まで手が回らないよ。最近、犬まで飼い出したから、尚更」

そうは言いつつも、彼は大学を出て以来長く一人暮らしを経験し、その気楽さも知る。自立が身についている人なのだろう。

夕べは、母親に仕事帰りに呼び出され、犬の具合を診ろと迫られたという。

「動物なんかわからないって、言ったら、医者なら何でもわかるはずだって。とにかく診ろって。無茶苦茶を言うんだもんな」

診てあげたのかを訊くと、「下痢で嘔吐、っていうから、正露丸を割って飲ませようとしたら、グーで殴られた」だそうだ。

それで、母上の愛するビーグル犬『ヤンさま(韓流スターのあの人の名をつけたかったらしいけれど、おこがましいので、一字変えたのだそう)』と添い寝をさせられたらしい。

「『ヤンさま』って、国が違ってるし…」

そんなことを、笑いながら話してくれた。

彼の家庭の雰囲気が、目に浮かぶようなエピソード。彼はきっと、母親にも優しいのだろう。

わたしは彼の話に相槌を打ち、時に笑い、最近、ゆりとショッピングに行ったこと、そこで水着を買う篤子ちゃんと会ったことなどを話した。

どこで話が流れたのか、彼がペンギンを見たことがないと言った。

そして、今度の日曜に、ドライブを兼ねて水族館へ行こうと誘ってくれたのだ。

それにわたしは「皆で?」と、何気なく訊いた。

彼はわたしの問いに、ちょっと虚を突かれたようだった。明らかにおかしな問いかけだったと思う。

三十歳を過ぎた彼が、水族館にぞろぞろと出かけるなんて、思いも寄らないに違いない。

わたしは誘いの返事をすぐにしなかった。襟元に指先を入れてみたり、乱れてもいない髪に手をやったり。

戸惑っていた。

不意に、そんなわたしの横顔に降ってきた言葉。

「襲ったりしないから、心配しないで」

軽く笑いをにじませたその声に、わたしは思わず吹き出したのだ。

「そんなこと、考えていないわ」

躊躇やためらいが、ふっと跳んだ。

そして、頷いた。

簡単に約束を交わした。

 

京香のウェディングパーティーの後の車内の空気は、硬く重く、静かだった。折りから降り出した雨音しか、聞こえない。

「迷惑」

と、はっきりと告げた彼の言葉に、わたしは、ばちりと頬を打たれたように感じた。

どうして京香のあんな挑発に乗ったのだろう。知らん顔をして、やはり流し、今回は出席すべきではなかったのだ。

彼女自身はどうあれ、人生の華やかな輝く一日を送る花嫁だ。腹立ちにそれに影を差そうなどと、ちらりとでも考えたわたしがいけないのだ。

大人げないのは、わたしの方。無視するという形だって、取れたのに。

不快だと言われたその随分後に、「ごめんなさい」と口にした。彼が医者であるから、パートナーに誘ったのではなかった。

彼しかいなかったから、誘ったのだ。

それを言い、もう一度謝った。

それに、彼は言葉を返してくれなかった。雨の夜の運転に、集中しているのかもしれないし、話したくないだけなのかもしれない。

そうやって時間だけは過ぎ、ドライブが果てた。

彼は自宅まで送ってくれた。帰りにお礼を言ったわたしを一瞥し、「じゃあ」とだけ。

雨が跳ね、着物の裾に点々と汚れがついた。パーティーの食事は、あまり食べなかったのに、胃にもたれている。

つまらない見栄を張ったために迎えた、つまらない一日の終わり。

 

 

また、普段と変わらない日常が始まる。

朝起きて、手短に家事をこなし、家を出た。店に入ってケーキを焼き、ランチの下ごしらえをする…。

ばたばたと忙しいのはいい。余計なことを思わずに済むから。

咲子叔母さんの「パーティー、どうだったの?」との、さらりとした問いに、「京香、きれいだったわ」とのみ答える。わたしの短い答えに何かを読むのか、それ以上詮索はしてこない。

数日して、借りた着物が、クリーニングから返ってきた。

この間メールは送らなかった。

彼からもない。

切れたのだろうと思い。しょうがないと納得しつつも、どこかでひやりと痛む部分がある。

それにわたしは構わずに、知らない振りをし続ける。

 

連日の暑さに参ったのか、体調がよくない。夏バテで食欲が落ちて、疲れやすくった。口に入れるのは、アイスクリームやゼリーなど冷たいものばかり。冷奴ぐらいしか、ほしくない。

そのくせ、いつも胸焼けのような感覚が残っている。貧血気味なのか、めまいもするし、一度近くの医院で、点滴でも打ってもらおうかと思っていた。

「ねえ、薫子、変なことを訊くようだけれど、怒らないでね」

「何?」

カウンター内のスツールに掛け、ランチの喧騒の後で、しばしの休憩。昼食をろくに摂りたがらないわたしに、わずかなパスタを勧める叔母が、ことりと皿を置いた。

わたしは冷房で冷えたため、ホットコーヒーを飲んでいた。昼食代わりに、ミルクと砂糖を多めに入れて、それで誤魔化そうとしていた。

「あんた、ちゃんと生理はあるの?」

叔母の言う意味がわからなかった。ややして、夏バテで、食事も偏っているため、生理のバランスが崩れていないかと、心配されたのかと思った。

元々乱れがちな方なので、曖昧に首を傾げると、叔母は声を落とし、

「大丈夫なのね? 妊娠は」

「え」

それに、わたしは両手のマグカップを落しかけた。慌てて力を込め、掌で包む。

そんな馬鹿な。誰と?

そう笑って返したかった。けれど、瞬時にあの敏生にレイプされた宵が甦った。

その思い出に、吐き気が込み上げる。

あれから、きちんと生理があっただろうか。生活が変わり、忙しさにかまけ、きちんと記録も記憶もない。

短いものがあったような、あれはそうではないような…。

頭をもやが広がり、こんがらかった糸のようなものが渦巻くイメージ。それは黒く、重く、胸にわだかまった。

 

まさか……。

 

「ごめんね、変な気を回して。あんた、あんまり気分がよくないみたいだから、もしや、と思って。でも、敏生さんとは、いろいろあったのだものね。そんなこと…」

叔母が明るく否定しかけた。敏生が浮気を重ねていたことで、わたしたちの間が冷えていたと、彼女は思っているのだ。

それは正しい。

けれど……。

わたしは緩く首を振った。

「ううん、……別れる間際に、……レイプされたの」

 

 

すべきことは決まっている。早く診断を受けるべきであること。全くの杞憂であるかもしれないのだ。

早く、こんな思いを断ち切るべきなのだ。何を考えたって、堂々巡り。

どうしよう、そればかり。

けれども、「明日、病院へ行こう」、「来週にしよう」と一日一日と延ばし、ぐずぐずとしていた。

叔母はそんなわたしに、しつこいことは何も言わなかった。慮るように「早めに病院に行きなさいね」と、一度言ったきりだ。

万が一妊娠していた場合、わたしのこれから抱えるものが、大き過ぎる…。

堕ろすことは、考えたくはない。

けれども、ではどうするのか。

父親は紛れもなく敏生なのだ。認知であるとか、親権であるとか、わたしが一人で決めていい問題ではない。生まれてくる子供の将来に関わるのだ。

彼の元に戻ることも、考慮した方がいいのかもしれない。わたしに子供ができたら、あの彼の浮気も止むのではないか……。

馬鹿馬鹿しいけれど、そんなことまで考えてしまう。

母にはこれ以上の心配はさせたくないので、伏せていた。

確かめた訳でもなく、間違いかもしれないのだもの。

だったら、どんなにいいだろう。

悶々と、そんな堂々巡りが続く。

暑い日々の中、ひどくやりきれない。

 

 

日曜日、わたしはだるい体を持て余し、ベッドに横になっていた。母は『花のや』で催される三味線の会に出ており、いない。

小さな家だけれども、人けがないと、がらんと広く感じた。叔母やわたしを嫁がせた後の母は、こんな空間に独りでいたのかと、ちょっぴりしんみりとなる。

窓を開け、午後の温い風を受けながら、ぼんやりとしていた。雨の音がし出し、やや冷えた風に変わる。下の間の風鈴の音がちりんと鳴った。

風鈴に誘われるように電話のベルがしたのは、雨が降り出してすぐ。

母が傘を持って、迎えに来てほしいというのだろうと思った。ついでに夕飯の買い物を済ませよう、そんな連絡だと思った。

階下に下り、茶の間の電話を取った。

「はい、暮林です」

聞こえてきたのは、母の声ではなかった。それは意外にも柏木さんの声だった。怒りをにじませた声は、「いつまで、待たせるの?」と続いた。

「え」

彼はずっと、待ち合わせの公園でわたしを待っていたという。

「今日のはずだったよね、水族館。僕、一時から今まで待ってたんだけど」

わたしはとっさに壁の時計を見た。三時二十分。彼は二時間以上も、わたしを待っていたというのだろうか。

一時と自分は言ったはずだけれども、二時とわたしがとったのかもしれないと思い、待ったけれども、そろそろすっぽかされたのだろうかと、番号案内でこの番号を調べてかけてきたのだという。

約束は間違いない。花滝温泉の入り口の公園。そこに日曜の一時。

けれども、わたしは京香のパーティーの夜のあのぎこちない別れで、彼とのこの日の約束は、自然ご破算になったものだと思い込んでいた。

「ごめんなさい。わたし、柏木さんが怒っているのだと思って。今日のことはなくなったのだと思ったの。ごめんなさい」

なぜか、彼は電話の向こうでちょっと笑った。

「どうする? 会えないのなら、帰るけど。もう水族館は、時間的に無理そうだし」

「あ、あの、ちょっとだけ待って。すぐに行くから。十五分くらい待って」

そんなことをわたしは口にしていた。体調が悪いことなど、どこかに置き忘れたように。

「待ちぼうけのついでだから、急がなくてもいいよ。僕がそっちに行こうか?」

「ううん、行く方が早いわ」

電話を切り、わたしは急いで仕度に掛かった。

身体のだるさは、気にならなかった。

わたしは彼に会いたいのだろうか。それとも、彼がわたしへの怒りを既に抱えていないことが嬉しいのか。

わからないまま、鏡に向かう。

日差しがふっと雲間から顔をのぞかせるように、心が晴れていくの感じた。

 

二十分後には、わたしは彼の待つ公園に着いた。

走って来たので、息が上がっている。車に乗りかけて、スカートにミュールで引っ掛けたのか、小さなしぶきがついているのが気になった。

彼は、わたしがいつまでも大きく息をしているのに、笑う。

「だから、急がなくてもいいって言ったのに」

「ごめんなさい。わたし、確認もしないで……。ごめんなさい」

「いいよ。気にしないで。僕も……、変にむきになって、ごめん」

ヘンリーネックのTシャツにジーンズ。その脚の先にはブルーのラインのあるスニーカー。履き慣れているらしく、くったりとしている。

「どうしようか?」

「何か、御詫びをさせて」

「会えたから、いいよ」

「でも……」

そんなことを口々に言い合い、時間ばかりが過ぎていく。

 

結局どこに行こうか、と迷った末、よかったら、と彼が友人の結婚祝いを買うのにつき合ってほしいと言われた。

ウィッシュリストがあるらしく、彼は鍋の担当だという。

デパートに向かい、そのキッチン用品のフロアを見て回る。

わたしが薦めた物を、彼は何のためらいもなく選んだ。「薫子ちゃんの意見の方が正しい」と、あっさり買ってしまうのだ。

まあ、鍋にこだわりなど、彼にはないのだろうけれども。

きれいにラッピングしてもらったそれを受け取り、カフェで休んでお茶を飲むと、もう五時半を過ぎた。

車に戻るとき、くらりと視界が揺れた。きついめまい。胸からせり上がるようなむかつきを、息を吸って何とか押さえた。

はしゃいだ気分に、紛れていた気分の悪さが顔を出す。

「夕飯つき合ってくれる? 薫子ちゃんの好きなものでいいから」

それにどう応えたのか。

ちっとも食欲がない。

ここに至って、わたしは忘れていた不安を思い出した。それは一気に頭を支配する。

何とか笑顔でやり過ごし、思いつきで、前に行ったことのあるロシア料理のお店はどうかと言った。

「ボルシチがおいしかったと思うのだけれど」

彼はそれで構わないと言う。

郊外のその店はカップルや、女の子同士のお客で賑わっていた。

食欲がないものの、スープぐらいは喉に流し、水ばかりを飲んだ。

「食欲ないの?」

彼の問いに、わたしは笑って応えた。

「ううん、ちょっと……」

「夏バテ?」

彼が医師であることが意識され、このときわずかに内を探られるような、ほんのりとした不安を感じた。

「ちょっとごめん」

ふと彼の手が伸び、わたしの頬に触れた。それは額に流れ、長い指が前髪をかきやった。

目の下を彼の親指が押すので、わたしは慌てて身を引いた。こんなところで診察されたくない。

「ごめん、嫌だった?」

「お医者さんは、もうおしまいにして」

笑うと彼は、ちょっと照れたように鼻の頭をかいている。

きっとひどく優しいのだろう。具合の悪そうな人を放っておけないのだろう。

やや伏せて、またわたしに真っ直ぐな瞳を向ける。

そんな彼は、少しだけまぶしい。

 

帰りの車内、どうにも気分が悪く、辛くなった。

胸がむかむかとしそれが止まらない。無理に食事を摂ったのがいけなかったのか。吐き気が起こり、何ともしようがなくなって、コンビニを通ったときに、停めてもらった。

トイレで胃の中のものを全て吐いた。気分の悪さを自覚し出して以来、吐いたのはこれが初めて。

口をすすぎ、顔を直してから車に戻った。閑散とした駐車場には、外れに大きなトラックが一台あるばかり。しぶしぶと降る雨がアスファルトをぬらし、小さな水溜りに辺りの照明を映している。

何ともない光景。なのに、物悲しく感じるのはどうしてだろう。気分が悪く、暗い不安のためにそんなことを思うのかもしれない。

わたしの表情に何を見るのか、「ね、病院行こう」と、彼はそう言った。

「顔色も悪い。近くの時間外の外来でいいから、行こう。ついて行くから」

「でも、保険証を持っていないの」

「そんなの、どうだっていいよ。診察代なら僕が出すから」

「そんな。……横になったら、治るかも…」

「夏バテや夏風邪なら、点滴でも打ったらもっと早くよくなる。医者の言うことじゃないかもしれないけど、耐性菌より何より、薬で楽になるのなら使う方が賢いよ」

それにわたしは返事をしなかった。喋ると、胸のむかつきが再び強まりそうで怖いのだ。

吐いたのに、まだ気分が悪い。吐くものなどないのに。頭も、振られるように目の前がふらふらとする…。

どうしてか、涙がにじんできた。

わたしばかりが、どうして辛いのだろう。どうしてこんなに悩むのだろう。

敏生はきっと今頃知らん顔で、何の憂いもなく、過ごしているのだ。

彼を憎いと思った。

 

あなたのせいなのに。

 

出かけて来なければよかった。よりによって、柏木さんと一緒に。

「どうしたの? 辛いの?」

ハンカチを当て泣くわたしの顔を、彼がのぞきこんだ。

「ねえ、薫子ちゃん」

「ごめんなさい……、わたし」

ふわりと腕がわたしの肩を抱いた。引き寄せる力、その心地のいい感覚。懐かしいばかりのそれに、涙があふれた。

「気分が悪いの? ねえ」

彼の胸に頬を預けたわたしは、やはりそれに言葉も頷きも返さない。

ちょっとの抱擁の後、剥ぐように自分から身を離した。

彼から顔を背け、暗いガラスの向こうに目をやった。

「わたし、妊娠しているかもしれないの……」




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