答えは何だって良かったんだ、それが間違いだとしても
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (12

 

 

 

柏木さんは、それ以上病院に行こうとは言わなかった。

口ごもった後で、何かを飲み込んだように、「送るよ」と言った。

幾つかの言葉が、彼の口からもれた。

「どの道を通ったら、近いの」、「気分が悪くなったら、言って。停まるから」、または「シート、倒せばいいよ」と、身体をこちらに向け、腕を伸ばしレバーを下げ、シートを倒してくれた。

身を起こしているよりは幾分かは楽で、わたしは彼から顔を背け、ハンカチを口元に置いたまま横になった。

彼の腕の中にあったわずかな時間、その間に彼のシャツからは、雨の匂いがしたのを思い出していた。

目を閉じて、そんなことを思っていた。

優しい彼の気遣いは、医師であることから出るものと、彼が本来持つものなのだろう。

何も問わない。

少しは、わたしへの興味を感じていたはず。だから、メールを送り、そして休日にも会う。それが彼の中で、どれほどの大きさを占めていたのかは、わたしにはわからないけれども。

そんな彼を、わたしは微かに意識しながら、きっと同じようなものを胸に抱え、彼と接してきたのだ。

自分が敏生の子を妊娠しているかもしれないのに、その兆候のような体調の悪さを忘れて、出かけてきた…。

約束を反故にしかけた申し訳なさもある。でも、それだけではない。わたしは彼に会いたかったのだ。

会って、どうしようとしたのだろう。

別の男の子供を身ごもっているかもしれないわたしを、彼はどうしてくれると思ったのか…。

結局、抱えたものをさらし、こんな風に重いばかりの空気の中、身を横にしている。

彼は、どう思っているのだろう。その横顔をうかがう気力も、勇気もない。

妊娠した可能性があるのだ。それほど遠くない以前、わたしが関係を持った男を、ちらりと頭に浮かべてもおかしくない。それを、彼が、離婚した夫の敏生だと想像することは、きっと易い。

二月程度、もしくは三月。わたしたちが別れる間際。

離婚をするほどに冷めた関係の相手を、そればかりは別で、わたしが受け入れたとも、思うかもしれない。

避妊もせずに、最後に抱き合うわたしたちを、馬鹿みたいに思うのだろう。

後先も考えずに簡単に身体を許す、だらしのない女だと思うのかもしれない。

そして、妊娠の可能性を持ちながら彼の前に現れる、わたしという女を、いやらしいように思うのだろう。

この女は、一体何を考えているのだろう、と。

きっと彼は、そんな風に思う…。

柏木さんはわたしを自宅まで送り届けてくれた。車を下りる際には、手を貸してくれる。

「無理に連れ回したみたいで、ごめん」

どうしても、彼の瞳が見れなかった。恥ずかしさと、自分への惨めさで、胸が溢れそうだった。

つぶやくように「ありがとう」と返し、わたしは家に入った。

母が帰宅しており、茶の間からテレビの音と「帰ったの?」と問う、のんきな声が玄関に届く。

ほどなく、引き戸の向こうで彼が車を動かす音が聞こえた。

 

終わったのだ。

 

それは落胆の混じる安堵で、肩の力が抜けたように、わたしはそのまましゃがみ込んだ。

 

 

翌日、咲子叔母さんに断りを入れ、産婦人科を受診した。近所にも小さな婦人科はあるけれど、そこはどうしても嫌だった。

知り合いが看護師をしているし、離婚をして出戻ってきたわたしが受診をして、妙な噂がたつのも避けたかった。

夕べよりは身体は楽で、食欲はないものの、何とかお味噌汁くらいは飲んできた。

女性の医師の下した診断は、あっけないものだった。妊娠ではないという。

てきぱきとした口調で、不調の理由を告げられた。

「ごく最近引越しや、環境の変化があった方によくあるんです。自律神経系の乱れでしょう。それからくる、ホルモンバランスの失調ですね、きっと。それと、栄養状態がよくないですね。少し、お時間ありますか? 横になってもらって、点滴をしましょう。二時間程度で終わりますから」

ほっとしたのか、虚脱したのか。大きな安心に、ふわふわと身体が雲の上を歩くように感じた。

栄養剤をもらっての帰りの脚は、ひどく軽かった。

点滴を受けたため時間を食ったが、まだ昼を越していない。のんびり家で横になれる気分ではなかった。

そのまま、叔母の店に行き、エプロンを着けた。

 

叔母はわたしの受けた診断の結果を聞くと、ひどく喜んでくれた。手を握り、肩を抱いた。「よかったわね」と。

よほど、暗い顔をして心配をかけていたようだ。改めて詫びる。

「ごめんなさい、心配をかけて。もう大丈夫だから。薬も飲んだし」

「無理しなさんな。今日は顔を出しただけでいいから。帰りなさい」

ううんと、わたしは叔母の言葉に構わずに、ランチタイムの後で、シンクにたっぷりたまった洗い物を始める。

「動いてる方が、楽なの。熱もないし、大丈夫」

「そう?」

点滴の成果で、顔色にやや赤味が差しているのを認めるのか、叔母は遅い昼食のサンドイッチをつまみ始めた。「夏は、食べないともたないのよ。一人でやろうと思ったら、何があっても、食べないと。乗り越えられないわよ、体力がないと」

華奢な体で、そんなことを言う。そうやって何かをやり過ごし、自分を慰め、叔母もいろいろと、通り抜けてきたものがあるのだろう、きっと。

サンドイッチを幾つかつまみながら、彼女はぽつりと言った。

「あんただけじゃないのよ」

「何?」

「敏生さんが、あんたにしたこと」

叔母は口の中の物を、紅茶で喉に流してから続けた。

「わたしもそうよ。前の夫と別れる間際……。どうせ、お前は種無しなんだから、って…。手放すと思うと、見切った女でも惜しくなるのかしら、変ね」

叔母はわたしをいたわるために、そんな作り話をするのだろうか。けれども、伏せた彼女の瞼のひくひくという痙攣を見たとき、勘のように感じた。

同じような過去を、叔母も抱えているのだと。

そんな告白の後で、彼女はからりと笑った。

「独りよがりなセックスをする男なんて、ろくなのがいないわ」

止めていた手を動かし、わたしは食器を洗う。

「マザコンだったり」

笑って言うと、叔母が、「ケチだったり」と受けた。

「そういうのに限って、早いのよ、アレ」

瞬きする間で、「こそばゆいだけ」と叔母が言い、わたしがそれに大笑いをした。

「へえ、高見さんは?」

「あっちゃんは、しつこいくらいかしら? 眠いときなんかちょっと辛いわね。こっちは五つも年だから」

さらりとそんなことを言うから、冗談で訊いたこちらが、頬が熱くなる。今度高見さんに会うときに、余計なことを想像しそうで…。

叔母は、わたしに笑いながら言う。

「もろに性格が出るわよ、あのときって。次は、女の身体をきちんと愛してくれる男を選ばないとね」

叔母の言葉にじゅんとまた頬が熱くなる。こういうセクシャルなことを、ごく身内に諭されるのは、ひどく面映い。

それは案外至言なのかもしれない。言葉より密接に、濃厚に、きっと気持ちが伝わる。

「次は…」と叔母が付した言葉も、照れをあおった。ふっと柏木さんの顔が浮かび、そんなことはない、と慌てて打ち消す。

からん、とドアが開いた。

叔母やわたしの「いらっしゃいませ」の声よりも早く、腕にダンボールを抱えた『フード・デリバリ』の仁科さんが、

「配達に上がりました」

と明るい声を響かせた。

叔母がひっそりと肘でわたしの腰をつつく。「彼はどうかしら?」と。

そのささやきに慌て、しゃぼんだらけのグラスを取り落とすところだった。

 

 

土曜の午後、小早川さんとゆりの旦那さん喬さんが、子供空手教室の後に寄ってくれた。互いにラフな、Tシャツにゆったりとしたジャージ姿。

土曜日はランチタイムもなく、割りに店は空いていることが多い。代わりに観光客がちらほらと訪れた。

カウンターに掛けた二人に、オーダーのアイスコーヒーを出す。

「咲子さんも、薫子ちゃんも慰めてやって。みーくん、落ち込んでるから」

「落ち込んでないよ」

小早川さんにたずねると、奥さんの篤子ちゃんが先週、友達とプールに出かけたのだという。その友達の中には、男の子も混じっていたのだとか。

「帰ってから、何かメールがよく届いてるみたいだし、ちょっと問い質したら……。○×大生だって」

叔母が「それで、喧嘩したの?」と問う。それに、小早川さんではなく喬さんが笑いながら答えた。

「あの篤子ちゃんを相手に、みーくんが喧嘩なんかできる訳ないだろう? めろんめろんなんだから。結局、泣き寝入りだよ」

喬さんの言葉が、わたしにはちょっと意外だった。小早川さんは、女の子に優しいし穏やかな人だけど、注意も叱責も、言うべきことははっきり口にする人に思えたのに…。

「泣き寝入りって、お前。友だちの彼氏とその連れらしいから、別に怪しいことはないみたいだし…」

「ぷ、すげ、無条件降伏…」

「何とでも言え」

喬さんは笑いを含んだ声で、「ビキニだって、黒の」と言う。

それに小早川さんは、苦い顔をして煙を吐いた。それから、喬さんの肩を手の甲でぽかっと叩いた。

「傷口をえぐるようなことを言うなよ」

そういえば、先々週、わたしは彼女にデパートで会っている。友だちの菫ちゃんと一緒で、「プールに行く」と水着を選んでいたのだ。ワンピースタイプにしようか、思い切ってビキニにしようか、それで迷っていた。

わたしもゆりも、てっきり小早川さんたちと出かけるのだと思い込み、二人でビキニを勧めたっけ。あのバストの辺りにレースついたデザインの黒いビキニは可愛く、彼女によく似合いそうだった。

知らなかったとはいえ、責任の一端を感じてしまう。

「ま、篤子ちゃんは、天然だから。悪気なんかないよ」

「あって堪るかよ。菫ちゃんも一緒だって知ったら、本城もショックだろうな。……ああ、何か夏期講習なんかどうでもよくなってきた」

「あらあら、みーくん。若い奥さんをもらうと大変ね」

喬さんもにやにやと笑いながらも宥め、叔母もわたしもそれに和した。

彼らが腰を上げたとき、小早川さんの携帯が鳴った。篤子ちゃんからのようで、何だかんだぼやいても、応じる声が優しい。買い物を頼まれたようで、気安くそれに応じているのだ。

二人が帰った後で、叔母に篤子ちゃんの水着の件を話した。

ぷっと吹き出し、

「それは、あんたもゆりちゃんも罪作りね」

「実は一緒に行かないかって、誘われもしたの。さすがに二十歳の女の子の前で水着にはなれないって、ゆりと断ったの、肌が違うって」

「一緒よ、二十歳も、二十六も、わたしからすれば。若い、若い。…篤子ちゃん、ああ見えて根性のある子よ」

学生結婚を選んだのは本人の選択だけれど、それに付いてくる家事も家業の旅館の仕事もこなし、その上学校にも通っている。

「きついお姑さんとも、上手くやっているみたいだし」

叔母はそう彼女を褒めた。

「たまには自由に遊ばせてあげたっていいのよ。それがわかってるから、みーくんも、強く言えないところがあるのじゃないかしら」

「ふうん」

有閑妻の経験しかないわたしには、彼女の務めているような日々は、決して務まらないに違いない。敏生の母親と同居し、同じ仕事をするなど、とても考えられなかった。

それを、傍目にやすやすとこなす理由も気持ちも、やっぱり小早川さんへの愛情に、他ならないのだろう。

 

 

しばらくは、パソコンを立ち上げもせずにいた。

お風呂上りに、缶ビールを片手にふらっと電源を入れた。

大阪の友人からのメールもあるだろうし、ブックマークしてある、わたしと似たような境遇の最中にいる、誰かのブログをのぞいてみたい。日々頑張りながら過ごす彼女の日記は、ユニークで笑え、そして元気をもらえる。

ベッドに座り、膝の上にノートパソコンを置く。メールソフトを開き、一口ビールを飲んだ。

受信箱をざっと斜めに眺め、あるはずのない名前に、胸がどきりと鳴った。

三日前に、柏木さんからメールが来ていた。開けようか、そのままにしようかしばし戸惑い、やはり開けた。

 

『体調はどう?
よかったら、
電話してほしい。
090-×000000

 

カシワギ』

 

おかしなことだけれども、わたしはこれまで、彼の電話番号さえ知らなかった。メールアドレスしか、しかも携帯のものしか知らない。

どこに、どんな場所に住んでいるのかも。何が好きで、何が嫌いで、そして過去にどんな経験をしたのかも、ほとんど知らない。

何も知らないと言っていい。

知っているのは、きっと多分、何か傷のようなものを胸に秘めているのだろうということ。

そして、真っ直ぐにわたしにあのきれいな瞳を向けてくれること。

利用されると感じることに、少し、むきになりやすくて。

けれど、優しい。

パソコンを膝からベッドに下ろし、缶ビールをもう一口飲んだ。

部屋を出て、階下の茶の間に向かう。夜が早い母は、もう自室で休んでいる。明かりを点けて、受話器をとった。

壁の時計を見る。午後11時半。どうだろう、遅いだろうか。それとも仕事だろうか。

頭に入れた番号をプッシュする。

コールが幾つか流れた。ひどくそのワンコールが長いように耳に響いた。じりじりと胸が焼けるような、その瞬間。

けれども、あっけなく終わると、なんて短かったのかとも思う。

『もしもし…』

わたしは答えなかった。彼の声を聞き、ちょっと喉が詰まったようになり、声が出なかった。苦いような、つんとするような涙の元が、胸から喉にかけ上がってくる。

『薫子ちゃん? なら、返事して。僕、ここ数日、非通知に出る危険を、かなりかいくぐってきたんだけれど』

そういえば、我が家は女所帯とあって、電話は非通知設定にしてあったはず。逆に非通知の番号も拒否してある。

頬を涙が伝ったのは、「ごめんなさい」と声に出した後だろうか。それとも前だろうか。

『薫子ちゃん』

「わたし……、妊娠していなかったの。大丈夫だったの」

それは一番に、彼に伝えたい言葉だった。何よりも、先に伝えたかった。

彼はちょっと受話器の向こうで笑った。

『よかったね。どうしているんだろうと、気になってたんだ。よかったね』

彼は、体調はいいのかとたずねた。わたしはそれに、婦人科の診断を受け、薬も飲んでいると伝えた。

そこで改めて、いきなり電話をしたことにはっとなる。彼は今、電話などしていて、大丈夫なのだろうか。

それを訊くと、病院のロッカールームだという。ちょうど勤務明けで、これから帰って寝るという。

『明日、会える? 休みなんだ。薫子ちゃんがよかったら、水族館にペンギンを見に行こう』

涙で答えになったかどうか。

焦れたように彼が『どう?』と、問いを重ねる。

わたしは、うんと何度も頷いた。

 

 

眠りに着く前に、彼からメールがあった。

 

『ここずっと、
君の夫だった人に、
僕は、
すごく
妬いてた。

 

 

カシワギ』



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