さびしいなら口で言って、わたしは読心術なんて出来ない
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (13

 

 

 

お昼をどこかで食べようと、昼前に待ち合わせをした。

以前と同じ公園に、柏木さんが来てくれた。

曇天の空に、気紛れに雲間から日が差す。その瞬間、きりっとした夏の光が熱をもって肌に触れる。

どれほどわたしより先に着いていたのか、彼は車の運転席で、ハンドルにうつ伏せて眠っていた。

ちょっとだけ間を置き、わたしは窓をノックした。その音に弾かれるように、ハンドルから彼が顔を上げた。

わたしに気づき、目をこすりながら笑った。

助手席側のドアを、身を乗り出して開けてくれ、「乗って」と促す。

眠いのかと訊くと、夕べ寝ようとした頃に、友人が現われたのだという。

「覚えてる? 前にバーベキューで会った、あいつ、本城」

彼はぐるりと髪をかき混ぜるようにかき、それから小さなあくびをした。

「ほら、横もでかくて、みーくんと予備校をしてる」

「ああ、あのうどんの…」

そこで彼はまた笑った。

「そう、そのうどんの本城」

彼がいきなり現れ、重大な恋の相談があるから聞いてくれと、朝方まで彼を寝かせてくれなかったという。

「大丈夫? 眠いのじゃ…」

「平気。昼近くまで寝ていたし、薫子ちゃんに会って、目が覚めた」

そんなことをからっと言い、笑う。

ブルーのチェックの半袖のシャツにジーンズ。やっぱり足は、くったりとしたスニーカー。

ぱちりと大きめな瞳を瞬いた。わたしをその瞳で見つめ、

「じゃあ、とりあえず水族館に向かおうか」

それにわたしは頷いて答えた。

彼はナビを操作し、目的地を検索し設定する。

先週、わたしはこの同じシートで、どうしようもない嫌な気分を味わっていた。同じく隣りには彼がいて、ハンドルを握っていた。会話もなく、時に窓を打つ雨音だけだった。

目の前に当たり前にある昼の明るい日差し、夏の容赦のないきつい熱。

なんてあの夜と違うのだろう。

「それで、あいつ…」

彼の話す夕べの本城さんの話に、おかしさで笑う。

なんて違うのだろう。

そして、あの夜を越えた今、このシートに再び座っていられる自分に、やや不思議な思いでいる。

もう会えないと思った。

終わりだと思った。

それなのに、わたしはあなたのそばにいる。

「ねえ、何食べようか? 何か異様に腹が減ってきた」

そして、彼のわたしに向ける視線が、当たり前のように柔らかく、笑みをにじませているのが嬉しい。

 

ドライブの途中、彼は本城さんの話から、自分のことをほろほろと話してくれた。

わたしの知らないことばかり。

今のマンションは、実は本城さんが以前住んでいた部屋なのだという。予備校に近い所に引っ越す彼が、ちょうどこちらへ帰って来た柏木さんに、よければと、勧めてくれたのだという。

「探す手間が省けたよ。それにあいつ、要らない家電とか、置いてってくれて。だから、洗濯機もテレビも、買わずに済んだ」

「ふうん」

「けど、くれる前に、まず条件を出すんだ」

「何? 条件って」

彼はおかしさを思い出すのか、もう笑ってる。

「僕に彼女がいたら、やらないつもりだったんだって。何でそんな条件出すのか、わかんないよ。要らないなら、さっさとくれりゃいいのに」

高校から一緒だったという本城さんや、小早川さん、喬さんの話。それから、母親の飼う「ヤンさま」の具合がよくなったこと。勤務先の病院の食堂の日替わり定食が、安いこと。姉が夫婦喧嘩をしたようで、実家でも機嫌が悪かったこと……。

とりとめのない話、他愛のない近況。

わたしは彼に軽い相槌のような問いかけを返し、彼がそれに答える。狭間に、わたしへの質問が入り、重さのない彼の疑問に、頷いたり、笑ったりした。

途切れなく続く、けれどどこかほんの少し上滑りな会話。

肝心のことに、互いに触れない。

夕べの、彼がくれたメールのことも。

本当は知りたい、彼が京都の病院を辞めた理由も。

敏生との別れの訳も。

そしてこれから、わたしたちがどうしたいのかも。

触れないまま、わたしたちは何かを共有している。

 

水族館に着くと、少し小雨が降った。

家族連れやカップルで、ぱらぱらと人手が多い。目当ては一時半からの屋外プールのイルカショーで、それまで空いた時間に、館内をぐるりと一回りした。

ブルーの淡い照明。厚いガラスの向こうで回遊する魚たち。

きらきらと鱗を光らせる珍しいそれらを、彼と見て回る。空調の効いたフロアは少し寒いほどで、フレンチスリーブの腕が冷えるのを感じる。

「あ、すいません」

腕を抱いたときに、すぐそばに立つ学生風の男の子に肘が触れた。彼女風の女の子を連れた彼が、なぜか先に詫びた。わたしの肘が当たったのに。

「いいえ、こっちこそ」

そう返す。ほどなく、緩く抱いた腕に指が触れた。柏木さんがわたしの組んだ腕を解き、自分の手とつないだ。

彼はそれに何も言わなかった。わたしも何も言わない。緩めた歩調のまま、目を水槽に当て、どこかぼんやりと見つめる。

軽くつないだ手。その彼の乾いた大きな掌が、わたしの指先を包んでいる。

 

 

「花火をしない? 去年のが、余ってるの」と誘われ、ゆりの家に来た。夕飯の後で、スイカを食べて、線香花火をして遊ぶ。

庭先にバケツを置いて、そのそばにしゃがんだ。

ほんのりと湿気ているのか、火のつきが悪い。それでもじっくりと先を炙ると、ぱちぱちと小さな光を発した。

縁側から、喬さんがこちらをのぞき、「蚊にさされる」と、虫除けのスプレーを辺りに撒いてくれた。

隠しごとをしたくなく、訊かれるままに、わたしはゆりに柏木さんと会っていることを話した。

以前の京香のウェディングパーティー以来、三度会っていること。ほぼ毎日メールを交わしていることなど。

「やっぱり。お似合いだと思ってたんだ。何か嬉しい」

「まだ、わかんないわ」

いきなりシュウッと勢いよく火花が散る花火に、わっと身を引く。

「何で? 三回もデートして、何がわかんないのよ」

ゆりは軽く身体をわたしにぶつけてからかう。

「いい人じゃない。喬さんたちの高校からの友達だし、身元は確かよね。彼女もいないし。ほらバーベキューのときの件を、わざわざお昼休みに謝りに来てくれるなんて、薫子が好きじゃなかったら、絶対しない」

「あははは。気まずいままが、嫌いなだけかもよ」

「それじゃあ、次に誘わないわよ。それでおしまいのはずでしょ」

「うん……」

わたしはゆりに曖昧な相槌を返して、下を向いた。新しい花火に火をつけることに集中している振りで。

柏木さんは、水族館の後何も言ってくれなかった。次にどこかで会うことも、わたしへの気持ちのことも。何もなかった。

ただ和やかに時間が過ぎただけ。

当たり前のように、またメールだけの日々を、もう一週間以上も繰り返している。

 

『ひたすら
眠い
一日だった。
お休み

 

カシワギ』

 

『狂牛病の
不安について、
やたらと訊かれる。
不安なら、
食べなきゃいいのに。
僕にも
わからないって

 

カシワギ』

 

軽い、そんなやり取りばかり。わたしもそれに、ごく他愛なく返すのだ。

忙しいのだろうか。それとも、わたしとは敢えて二人きりで会う意味が、もう彼にはなくなったのだろうか。

興味が消えたのだろうか。

くるくるとそんなことが頭を巡る。

わたしは、彼がひっそりと行った幾度かのテストに落ちたのだろうか。つき合うに足りない、女だと。

または、わたしの離婚歴が気にかかるのかも…。

考えても栓のないこと。彼しかその答えを知らないのだ。

「薫子は好きじゃ、ないの?」

「え」

不意のゆりの問いは、わたしの虚を突いた。見つめた先の、線香花火が燃え尽きてぽとりと落ちた。

顔を上げると、こちらを見る彼女の視線に会う。

「気が乗らないのなら、これ以上は言わない。ね、正直なところ、あんたはどうなの? 柏木さんのこと」

終わった花火を、ぽちゃんとバケツの水に浸す。中では幾つもの黒くなった花火の跡が、漂っている。ゆらゆらと。

頭をよぎる不安も、メールを確認するときめきも。きっとわたしの中では出来上がっている。

「多分、好き」

わたしはつぶやいて返した。

 

 

夕刻に近い頃、小早川さんの奥さんの篤子ちゃんが、店に顔を出した。紅茶を買いに来たという。

くりんとした大きな瞳の彼女は、決めてあるのか、すらすらと茶葉を指定した。

それをパッケージに詰めるわたしのそばで、咲子叔母さんにあれこれ紅茶のことを尋ねている。そろそろ入荷するダージリンのセカンドのことや、入ったら教えてほしいことなど。

「はい、どうぞ」

紅茶を渡すと、彼女は嬉しそうに受け取る。代金を払い、『花のや』入るまでにはちょっと時間があるといい、朗らかにわたしたちの問いに応じる。

「男の子とプールに行ったんだって? みーくんがぼやいてたわよ」

「そうそう、怒られなかったの?」

「ううん、でも、もう行かないでほしいって。別に何でもないのだけど、あの人たちとは。本当に友達の彼氏とかだし。」

小早川さんが何を気にかけているのか、理解できないようで、やや困った表情を見せるのだ。

「今度友だちに、同じメンバーで海に誘われてるんだけど…」

叔母とわたしは顔を見合わせた。

「みーくん、ショックよ。篤子ちゃんが、また男の子と海になんか行ったら。寝込むかも」

柏木さんと水族館に行った日に聞いた、彼が本城さんに「重大な恋の相談」と持ちかけられたのは、男の子とプールに行った菫ちゃんの真意についてだったそう。

それを思い出し、

「本城さんも、菫ちゃんが一緒でショックだったんじゃない?」

「うん、先生がそう言ってた」

そこで篤子ちゃんは、意外な話をぽろりともらした。落ち込んだ本城さんが、しばらく柏木さんの部屋に入り浸っていたことだ。

せっかく予備校の近くに引っ越したのに、以前の遠くのマンションからわざわざ出勤してくることを、小早川さんがおかしがっていたことなど。

「柏木さんも、毎晩来られて呆れているみたい。今週一杯は出張で留守だから、本城さんと離れて寝られるって、喜んでるんだって、先生が言…」

彼女のころころと明るい声が告げる内容に、わたしははっとした。

先週からずっと、柏木さんからのメールが途切れがちだったのだ。忙しいのだろうと思い、静かに納得していた。

眠いのかもしれないし、ひどく疲れているのかもしれない…。

そんなことを思って、気にしないようにしていた。

頭から追い出そうとしていた。妙な想像や、または不安。考えても、つまらないものばかり浮かぶから。

もう、駄目なのか。もう、会わないのか。そんな負のイメージばかりが頭を占める。

だから、なるべく彼とのことは、考え込まないようにしていた。答えの出ない問いをぐじぐじ抱えているのは、ひどくやりきれない。

そうか、メールが滞りがちなのは、出張が理由なのか……。

それくらい、知らせてくれてもいいだろうに…。

メールでのごく簡単な連絡だ。そんな造作ないことすらしてくれないのは、わたしの存在など、視野にないのかもしれない。

胸の、ふくらみ始めた彼への期待が、しなしなとしぼむよう。軽く裏切られたような勝手な腹立ちと、自分への惨めさ、それに切なさが加わる。

 

彼のテストに、やっぱり落ちた……?

 

頬にのせた上辺の笑みが、こわばってぴりぴりと痛む。

気紛れに優しさを投げて、気紛れにそれを引き揚げる。きっと彼にとっては、それだけのことに過ぎないのだ。

 

 

「行きましょうよ。今年は水中花火もあるらしいですよ」

そんなことを言って、週末の花火大会に誘ってくれたのは、『フード・デリバリ』の仁科さんだ。この近くに来たついでに、と店に顔を出した。

「咲子さんも、高見さんと一緒にどうですか?」

それに叔母は乗り気で、手を打って「行くわ」と楽しげに答えた。肘でわたしの腕をつつき、

「薫子も行こう。ほら、浴衣を着て」

「え、でも…」

ためらうのは、今更に柏木さんに気が咎めるからか、この目の前で微笑む仁科さんに対するものなのか…。

「帰りもちゃんとお送りしますから、安心して下さい」

彼はそう言って誘う。

ちょっと目を伏せた。

その後で、わたしは「じゃあ、ご一緒します」と瞳を上げた。

「浴衣姿、楽しみだな」

目が合った彼が、笑顔で言う。

それで、眼鏡の奥の瞳は、線を描いたように細まった。よく焼けたきれいな鼻梁の顔が、それで和らいだ。

わたしは軽い笑みを返す。

多分、ひどく曖昧な笑顔だ。




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