心の60%を占めるのはあなたのこと
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (14

 

 

 

花火の日は、昼頃まで雨が降った。

しとしとと降り続いて、いきなりからりと晴れた。それまでのにび色の曇り空が嘘のように濃いブルーの空に変わる。

何だか、誰かが着ていたユニフォームの色みたいな空だと思った。

日曜で店は休み。その晴れ時を待って、咲子叔母さんがふらりとやって来た。

彼女にとっても、暮林のこの家は実家になる。だから、がらりと玄関の引き戸を開け、「ただいま」の声が続く。

叔母は今日、日暮れからの花火大会に出かける浴衣を、母に借りに来たのだ。母は三味線の師匠をする職業柄か趣味からか、幾枚も浴衣を持っている。

昨日店を閉めるときに、叔母は「あのシャクヤクの柄のを、借りよう」などと言っていた。わたしは何の柄のものを着るのか、全く決めていない。

どこかで、午前中降り続いた雨がそのままじくじくと続き、花火大会が取り止めになればいいのになどと思っていた。

正直な所、楽しそうにしている叔母とは違い、あまり気が乗らない。

叔母は、お昼に食べないかと、タッパーウェアに詰めた野菜の揚げ浸しを持ってきてくれた。

そうめんと冷奴だけの昼食に、それを添えて食べた。

「お姉ちゃん、後で浴衣見せて。押入れから、勝手に出すから」

「ふん、好きにどうぞ。咲子、あんた、あっちゃんも浴衣なの?」

「まさか、着ないわよ、彼は。わたしと薫子だけよ」

「あんたと、薫子と、あっちゃんと、あのみーくんの友達の…、カレーを食べに来たあの子と四人?」

「お母さん、余計なこと言わないでよ」

叔母が母の問いに、怪訝な顔をする。ちょっと黙り、すぐに口元を綻ばせた。わたしにちらりと視線を流し、

「柏木くん、ここに来たの? ふうん、あんた何にも言わないから。そう……」

わたしは食器を台所に下げ、お茶の用意をして戻ってきた。その間に、叔母が母に話すのが聞こえた。今夜の一緒に行くのは、柏木さんではないこと、お店に顔を出す業者さんの人だということ。

「感じのいい人よ。花火大会に誘ってくれたのも、彼なのよ。薫子に気があるようなのよね」

なかなか男前なのだと、付け加えた。それに母が笑い、

「薫子、あんた敏生さんと別れてから、憑き物が落ちたみたいだわね。次々にいい人が現れて」

そんなことを言う。いつまでも離婚にじめじめしているよりは、いいと言う。

「敏生さんとの件は、あんたのせいじゃないのだし……」

けれども、「でも」と、しっかりと釘を刺すのが、やはり母親だ。

「あっちもこっちもと、だらしのないことだけは、嫌よ。ほら、やっぱり離婚するだけの娘だったんだと、よそに言われるのは、あんたなんだからね」

「止めてよ。あっちもこっちも、なんて…、ある訳ないじゃない」

ふくれて言い返すと、叔母がわたしの肩を叩いた。笑いながら、

「お姉ちゃんの口癖よ。わたしのときも、同じこと言ってたんだから」

「え、咲子姉ちゃん、高見さんの他に誰かいたの?」

叔母はふふと微笑みながら、お茶を啜る。母は眉をちょっと上げ、どこか楽しげに、

「咲子も、帰ってきてから次々とね……。ほら、どこかの議員の息子だのもいたじゃない、資産家の。いっときあんたに夢中になって、ほら」

「ああ、ああ。お金持ちはたくさん。飽き飽きよ。そうよね、薫子」

大仰に叔母は肩をすくめる。

「あっちゃんが、一番。何にもないけど」

 

 

白地に紅色のシャクヤクの柄の浴衣を着た叔母を、高見さんは嬉しそうに眺めた。花火の後で、彼女をスケッチをしたいという。

伸びかけた髪を厄介そうにかき上げ、白いシャツにジーンズをさらりと着た彼は、叔母の手を当たり前のように握る。

むっとする夏の宵、会場の河川敷には大勢の人が群れている。それぞれ手に団扇、扇子などを持ち、または夜店で買ったかき氷などを手に、騒がしい。

ここまでは、仁科さんが車を出してくれた。近辺の駐車場はどこも一杯になるが、知人の店に許しを得ていると、ごく近くのフードバーに停め、川べりまで歩いてきた。

ベージュのポロシャツを着た彼は、わたしや叔母の浴衣姿を褒めた。眼鏡の瞳を細め、「きれいですよ。すごく似合う」などと言ってくれた。ねばついた口調ではないので、答えを笑顔に紛らしやすい。

わたしが着たのは、紺の地に百合があしらわれたもの。叔母の柄と色的に対極に近いので面白いと、二人で選んだ。

浴衣を着るのは久しぶりで、ぴんと張った糊が、肌になじむまでがごわごわとおちつかない。

一つ二つ、花火が上がるたびに。わっと歓声も上がる。誰もが、上を向き、一心に花火が散る瞬間を見つめている。

「ねえねえ、仁科さん、花火って、一発幾らくらい?」

しゃりしゃりとりんご飴を噛みながら、そんなことを訊くのは喬さんの弟の亮くんだ。

前日、店に現われた彼に、仁科さんたちと行く花火の話をしたら、「何か嫌だなあ。絶対薫子さんに下心があるって、そいつ」と、どこまで本気かそう言うのだ。

意外にも、「僕も行く」と言い出した。わたしや叔母が、駄目だという理由もない。

この夜、当然といった顔で現れた亮くんの存在に、仁科さんは「あれ」という顔をしたが、すぐに笑顔になった。

人懐こい亮くんの態度に、初対面の仁科さんもすっかりのまれたらしい。次々と投げる問いかけに機嫌よく応じている。

「そうだな、大きさにもよるけど、一昔前は三十万とか聞いたけど。今は海外からも入ってくるから、随分と安いらしいよ」

「へえ、外国製の花火かあ、何か和の情緒に欠けるよなあ」

「生意気言って」

叔母が笑って返すと、

「え、僕、これでも美的センスに敏感なんだけど。ときどき人より先行っちゃうから、妬まれたり理解されにくいみたい」

「美的な『ALOHA』に何かついてるぞ」

高見さんがくすくすと指摘した亮くんのTシャツに、夕飯の食べこぼしか、ロゴの横の小さなフラダンサーに、ケチャップみたいなシミがついていた。

亮くんは、Tシャツの胸をびろんと引っ張って確かめ、

「大人はすぐ、ジェラシーで若い才能の芽を摘もうとするからな…」

おかしなことを言うので、皆が笑う。

この場に亮くんがいてくれて、よかったと思った。

人ごみの中、ほんのそばに仁科さんがいる。

ときにわたしに話しかけ、ちょっと笑う。温く蒸す空気に扇子を使うたび、ふわりと彼の匂いがする。意識せずに触れる腕。彼とそんな傍にいることの、軽い息苦しさ…。

それを亮くんの存在が、幾分か薄らげてくれる。

 

花火が終わったのは、午後九時だ。帰りの混雑を予想してか、その二十分ほども前には、人々が動き出した。それで大きな人の波ができる。

わたしたちは急ぐこともなく、フィナーレの水中花火を見て、それからゆっくりと動き出した。

「痛っ」

誰かの靴先が、裸の足を踏んだ。声に気づいた、どぎつい化粧の若い女の子が、もごもごとそれでも口の中で謝った。

不意に、ちょっとだけ先を行く仁科さんが、わたしの肩に手を伸ばした。「大丈夫ですか?」

軽く引き寄せ、自然な感じで手を握った。

「僕に、引っ付いていて下さい」

「いいわ。そんな…」

「人ごみを抜けるまでですよ」

わたしは彼の指を、やんわり解いた。笑顔を向け、

「大丈夫。ちゃんとついて行くから」

「そうですか…」

彼はまた背中を向けた。少し歩調を緩めてくれているようだ。

わたしは、彼の手を外した代わりに、やや後ろの亮くんのシャツをつかんだ。「ごめん」とささやいて。

浴衣なんて着てこなければよかった。歩き辛く、人ごみで、誰かにつかまらないと、どこかにでも流れていきそうだった。

亮くんは、わたしと仁科さんのやり取りも聞こえていたはずだ。すぐ傍にいたのだから…。

けれども、彼は黙って、わたしのつかむシャツに知らん振りをしてくれた。

 

咲子叔母さんと高見さん、亮くんとは、『花の茶館』の前で別れた。仁科さんは、自宅までわたしを送ってくれるという。

すぐ近くだからと遠慮したが、

「約束でしたからね。女性に夜道を一人で歩かせられない」と、押し付けない程度の強さで言われれば、強く断れない。きっと五分ほど。ドライブにも満たない。

ワゴンタイプの車に、叔母たちが抜けると、何だかしんと空気の密度が濃いような気になる。広くなったのに、おかしい。

「花火、よかったですね。三発目のあれ、不発だったの、気づきました?」

「ああ、あの、ぽすっといって、それっきりの……」

「そう、それ。今は花火の着火や発射も、コンピューター制御だそうですよ。亮くんじゃないけど、情緒もハイテクには敵わない」

他愛のない花火の話に終始し、自宅に着いた。

礼を言い、降りたところで、ちょうど玄関の引き戸ががらりと開いた。

珍しく、母が迎えに出たのかと思った。いつも、一旦座った茶の間から動くのを、面倒がる人なのに。「薫子、帰ったの?」と、それだけ。

玄関に立つのは柏木さんだった。仕事の後なのだろうか、Yシャツにネクタイ姿。胸のポケットには、ニ〜三本ペンがのぞいている。

不意に現われた彼に、わたしは全く動揺していた。      

 

どうしてここにいるのだろう。

 

何をしているのだろう。

彼はわたしを認め、ぱちりと瞬きをする。それからちょっと笑った。

「花火に行ってたんだって? お母さんが言ってたよ。僕、出張から帰った所で、お土産を渡しに来たんだ……」

そこで、彼の声が止まった。

ぱたんとドアを閉め、車を降りた仁科さんが、助手席側に回ってきた。

「どうしたんですか?」

ぽんと浴衣の肩に、手が置かれた。

「すいません、どなたでしょうか? あの、今夜薫子さんと花火に行った者ですが、何か、彼女に?」

柏木さんがまた幾度か瞬きをした。すぐ緩く顔を伏せる。それから口元に手を置いて、ゆっくりと顔を上げた。

瞳がもうわたしを見てくれない。

「いや……」

既に彼は身を背けていた。わたしから、わたしと仁科さんから。

ポケットのキーを探りながら、「お土産、捨ててくれればいいから」と、背を向けるのだ。

「あの、柏木さん…」

彼が家の斜向かいに停めた車のドアを、キーレスで開けた。その電子音に、わたしの声は届かない。

彼が車を出した後も、もうその車体が角を曲がり、見えなくなっても、わたしはぼんやりと、突っ立ったままだった。

幾度思っても、連絡すらくれなかった彼。その彼が不意に、一番現れてほしくないときに現われた。

腹が立った。

あまりの間の悪さと、そしてこの状況に。

何より、馬鹿みたいにうろたえ、まともな言葉一つ出せない自分に…。

 

みっともなくて、惨めで、腹が立つのだ。




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