背伸びして買ったミュールを履いて貴方の元へ
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (15

 

 

 

模様ガラスをはめ込んだ玄関の引き戸からは、家内に灯った明かりがもれてくる。

どれだけわたしは、そのままでいたのだろう。

「彼に…、余計なことを言ったかな……」

仁科さんがちょっと困った表情を見せた。きっと彼には、おかしな光景に違いない。

柏木さんがいきなり現れことに、わたしがまずうろたえた。言葉も上手く返せないほどに、固まったと言っていい。

そして仁科さんの存在に気づいた柏木さんのとった態度。ぎこちない硬い声と、ぷいっと背を向けて帰って行ってしまったこと。わたしを見ようともしなかった…。

自分の知らない何かがあるんだろう、この二人には。

そんな風に、仁科さんの辿った思考など、容易に理解できる。

わたしは彼を向き、礼を言った。今夜の花火のこと、送ってくれたこと。

「ごめんなさい、気を使わせてしまったみたいで」

「迷惑でしたか?」

「そんな……」

腰に手を置き、ちょっとわたしの表情をのぞくように、彼は言う。

「本当に? 何だか、泣きそうな顔をしているから」

泣きたいのではない。きっと悔しいのだ。

柏木さんに、何にも言えなかったこと。そして彼が、何も言ってくれなかったこと。

ようやく会えたのに、まるで歯車がずれたように上手く噛み合わない。それが悔しい。

「大丈夫」

そう言って、仁科さんには笑った。胸の中ではざわざわとひどく騒がしいのに、それをしまってわたしは緩く微笑んだ。

純情な小娘ではないのだ。

こんなことぐらい、大丈夫。

 

仁科さんと別れ、家に入ると、母が、柏木さんがお土産を持って来てくれたと、教える。

「今週、広島に出張だったのだって。これ、あんたにって」

母が飯台に置かれた手提げの紙袋。鳥居のイラストが描かれたその包みの中には、さっき彼が「捨ててくれていい」と言い残した、お土産の箱があった。

「暑かったでしょ、浴衣に慣れていない人が、着て出歩くには。お風呂に入ったら?」

「うん…」

母には着替えてくると告げ、その手提げを持って、自室に入った。ベッドに掛け、包みを膝に乗せた。

十字に縛った紐の下に、白い長方形の紙が見える。箱を出してよく見ると、それは名刺だった。

勤務先の病院名と所属の部署名、連絡先、そして医師として彼の名が連なった。

 

柏木 聡一郎

 

友人には「ソウ」と呼ばれていた彼の名が、(ソウイチロウ)であることは知っていたけれど、こんな字を書くのだと知らなかった。わたしはそんなことすら知らない。

裏を見ると、ボールペンの筆圧のやや強い、四角い文字が並んでいた。

 

『薫子ちゃんに
話がある。
聞いてほしい。

 

柏木』                                                         

 

まるで彼がくれるメールのような文。短くて、あっけない。

こんな字を書く人だったのか。

わたしは文字を、人さし指でなぞった。なぞりながら、胸の奥が、つんと痛いような、切ないようなもので、溢れそうになった。

 

 

翌日、店の後で、わたしは一旦自宅に帰り、歩いてバス停に向かった。

時計を確認すると、午後七時近い。ほどなくやって来たバスに乗り、JRの駅の裏口で降りた。

その辺りをうろうろと探す。確か某エステと、△旅行会社の入っているビルだと聞いていた。

仕事帰りの人々の中で迷い、やっと目的のビルを見つけた。『○○大学進学ゼミ』と、ガラス窓に大きく名前がある。高校生に混じり、エレベーターに乗り、受付のある三階で降りた。

降りてすぐが、椅子や自動販売機の置かれたホールになっており、そこで学生が数人、お喋りをしながらジュースを飲んでいた。ちょっと学校の雰囲気に、何だか懐かしくなる。

受付カウンターのガラスは、カーテンが閉められていた。「御用の方は、呼び鈴を押して下さい」との張り紙がある。呼び鈴を押すと、しばらく待って、カーテンが開き、ガラスも引かれた。

「はい、何か…?」

現われたのは、ノーネクタイにYシャツの美馬くんだった。ゆりが絶賛する、「人生を早まった」と思わせるハンサムくんだ。

彼はわたしに気づいたのか、微笑んで、自分は頼まれてここでバイトをしていることを告げた。「メインのバイトの休みの日だけ。生徒の質問に答えたり、電話番です」と。

「薫子さん、何か用ですか?」

そこでわたしは、彼に小早川さんは授業中かとたずねた。すると、椅子のきしっときしむ音が、美馬くんの後ろから聞こえた。

「何? 薫子ちゃん。大学進学なら、相談に乗るよ」

そんなことを言いながら現われたのが、当の小早川さんだった。ネクタイの先っぽをシャツのポケットに突っ込み、いつものちょっと眠そうな目で笑う。

「大学はもう、十分。あの……、教えてほしいの」

美馬くんが事務室の奥に下がったのを待って、わたしは切り出した。柏木さんのマンションの住所を教えてほしい、と。

「聡の? いいよ」

あっさりと了解し、彼はそばのメモ帳を引き寄せる。胸のペンを抜き、さらさらと地図を描いてくれた。

それを受け取り、礼を言った。

「今から行くの?」

「うん…」

「今週日勤が多いようなこと、聞いたけどな…。ごめん、はっきり知らない」

「ううん。いいの、待つから」

それに彼はやや笑いを噛み殺し、

「ああ、本城が泣くなぁ。『心の友』が帰ってきたって、喜んでいたのに」

わたしはそれに曖昧に笑って答えた。ちょっと恥ずかしい。

予備校を後にして、街をまた歩く。暮れかけた、温い空気。柔らかい夜が辺りを包み始めている。

 

 

途中のコンビニで買ったウーロン茶。それが半分に減り、バックに収まっている。

化粧レンガ張りの十階建て程度のマンション。エントランスにはまばらに人の出入りがある。その前の駐車場で、わたしはもう二時間近く待っている。

彼はきっと、夕べのわたしと仁科さんを誤解しているだろう。電話やメールでは、もうまどろっこしい気がした。

そして、彼がわたしに「聞いてほしい」と記した、その内容を、直接に聞きたい。

ちらちらとこちらを見る人の視線に、わたしは顔を背けた。怪しい人ではないから、心配はしないでほしい。

立ちっぱなしに疲れ、時々近くを回り、またはしゃがむ。顔をスカートの膝に伏せていると、親切な人が「具合が悪いんですか?」とたずねてくれた。慌てて顔を上げ、「大丈夫です。友人を待っているだけです」と答えた。

しゃがんだまま、改めてバックからウーロン茶を取り出し、一口飲んだ。しまった所で、すぐそばに、わんと小さく吠えた犬の声がした。

「何してるの?」

聞き慣れたあの声に立ち上がる。

彼は目の前に立っていた。グレーのTシャツを着て、腕に犬が入るバスケットを提げていた。

小首を傾げ、わたしの瞳を見つめる。

どうしてそんなことを訊くのだろう。知っているくせに、きっとわかっているくせに…。

「あなたを待っていたの」

 

彼の部屋は、引越しメーカーの名の入ったダンボールが幾つもあった。他に適当に本が積まれ、適当に服が放られている。

数ヶ月も前だろうに、彼がこっちへ帰ってきたのは。それが、いまだにダンボールに囲まれて生活をしている。

不思議そうな顔をしたのだろう。わたしへ「片付けるの面倒だし。これで合理的なんだ」などと言う。

彼は部屋に入ると、まず犬をバスケットから出した。フローリングの床を、ビーグル犬は、はしゃいで走り回る。

ダンボールの一つにぶつかり、ばうと鳴いた。

「『ヤンさま』、あれが。おふくろ、旅行だから、一晩預かってくれって言われたんだ」

彼はデスクの椅子を引き、それをわたしに勧めた。本でも詰まっているのか、ダンボールの縁にもたれている。

ヤンさまを抱き、頭をなぜる。

「どれくらい、待ったの?」

「いいの、そんなの」

ぽつりぽつりと言葉がこぼれていく。

「危ないよ、女の子が夜に一人は…」

だって、わたしはあなたの仕事がいつ終わるのか、いつ始まるのかも知らないのだもの。当てずっぽうに、ひたすら待つしかないじゃない。

「誰かに訊いたの? ここの住所」

「小早川さんに…、予備校に行って訊いたの」

「え」

わたしの答えに、彼が軽く絶句した。瞳がわたしを見る。ぱちりと瞬く。

迷惑だったのだろうか、友人に、わたしがここの住所をたずねたのが。わたしとの仲を勘繰られるのが、嫌なのだろうか。

「だって、教えてくれないのだもの」

「どうして、僕に訊かないの?」

発したのはほぼ同時。ぶつかって消えた言葉。けれどもわたしは彼の声を、確かに捉えた。

 

ドウシテ、ボクニキカナカッタノカ。

 

そして彼にもきっと、わたしの声は届いた。

 

ダッテ、オシエテクレナノダモノ。

 

互いの胸にそれらが届いた後も、わたしたちはまだ黙り込んでいる。

それを先に破ったのはわたし。花火のことを詫びたかったから。仁科さんのことは、何でもないこと。

そして彼がわたしに残したメッセージの件を聞きたかったから。

だから、口にした。

「あなたが、好きなの」

だから、二時間も知らないマンションの前で待っていたのだ。ときにしゃがみ込んで、気を紛らせて。

それでもあなたに会いたくて。誤解を解きたくて。

「ごめん、先に君言わせた」

立ち上がった彼の膝から、ヤンさまが滑り降りた。それが不平なのか、ばうと一鳴きし、床をまた走り回る。

座ったままのわたしへ腕を伸ばし、彼が抱きしめた。シャツの胸に顔が当たる。

「僕は、君のことばかり考えている。だから……、少し、怖くなった。また勝手に夢中になって、君に去られるのが、怖かった」

だから、距離を置いたのだという。

冷静になれるように。

そしてわたしが息苦しくないように。

「どうして?」

「君は、そんなに早く、僕を受け入れたくないのだろうと思った。そんな風に見えた。ゆっくりと考える時間がほしいのだろうと思った」

あ……。

敏生の子を妊娠したかもしれない、という恐怖があった。結局杞憂だったけれど、随分と悩んだし、ひどくうろたえた…。

そんなわたしだって、苦しかったとはいえ、自分だけの問題に夢中で、彼への態度もメールも、おざなりにしたではないか。

言葉足らずのそれが、彼には、頑なにも意志にも見えたのだとしたら、わたしのせいだ。

「ごめんなさい…」

「謝ることじゃない」

「…お古でもいいの?」

そんなことをほろりと訊くのは、どこかに本音と胸の動揺を隠すため。自嘲めいたことを口にして、胸の驚きを隠していた。

「また勝手に夢中になって…」。それは、彼がふともらしてしまった、心の声のはず。

わたしがその影を感じていた、彼の抱える微かな傷の気配。それは、きっと……。

きっと以前の恋だ。彼を深く傷つけた、わたしの知らない誰か。

それが彼をためらわせ、距離を置かせた。冷めていたいと思わせた…。

どんな恋だったのだろう。

彼はその人を、どんな腕の熱で抱いたのだろう。

その想像に、ちくんと指す、胸の熱さ。

知らない誰かに、彼のほんの傍で、わたしは妬いている。

馬鹿みたいに、ほんの少女のように。彼の過去に、ほのかに妬いているのだ。

「僕の方が、きっと君を好きだ」

彼の腕の中にいて、彼のシャツの匂いを感じている。わたしを抱くその力も。

そして触れた唇に、恋の確かな胸の高鳴りを思い知る。

戻れない。




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