手を伸ばせば、すぐそこにあったのに
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (16

 

 

 

互いのためらいが、更にためらいを生む。

重なった躊躇が、もう見えない檻のようで。

開ける鍵を探して、探すことすらためらって。

ほしかったのに、望んでいたのに。気づかないふりで、紛らせて誤魔化して…。

心を塞いだもの。わたしたちは互いのそれに、気づいている。

思いやる仕草でいたつもり。

けれど、結局は、怖いだけ。

怯えていただけ。

 

 

幾つかの取り決めをして、その夜は別れた。

次の休みの日に会うこと。彼の友人のウェディング・パーティーに一緒に出かけること。

互いの、一番近い存在でいること。

「何かあったら、遠慮せずに言って。宗教とマルチ意外なら、何でもする」

帰り、車で送ってくれながらそんなことを言うのだ。

シフトレバーから手を離し、わたしの手を握った。

「でも、君が薦めるのなら、多分妙な浄水器でも買いそう。……三セットくらい」

「馬鹿…」

おかしなことを落ち着いた声で言うから、恥ずかしくなる。まるで薬の説明でもするみたい。

自宅の前で、寝る前にメールを交わすことを約束して、彼は最後に、ちょっとわたしを抱きしめた。

「いい匂いがする、薫子ちゃん」

わたしはそれにひっそりと笑う。

あなたの髪は、ほんのりと日なたの匂いがした。

 

眠る前に届いた彼からのメールを、わたしはお風呂上りに、髪を拭きながら見た。

 

『ヤンさまが吐いた。
今、動物病院。

 

おやすみ

 

 

カシワギ』

 

 

小早川さんたちの予備校の近くに、『ルル』というバーがある。予備校の後で、よく飲みに寄ることもあり、常連のよう。

ここには、あの美馬くんがアルバイトをしているのだ。

「野郎が奢るから、おいで」と誘われて、ゆりと二人でやって来た。既に小さな店内のボックス席には、彼ら予備校の人たちが揃っていた。他に篤子ちゃんと亮くんの姿もある。

華奢な可愛らしい身体の一体どこにしまうのか、篤子ちゃんが手にしているのは大ジョッキのグラスだ。水でも飲むみたいに、するする喉に流している。

その飲みっぷりに、ちょっと目を見張る。「篤子ちゃんは、酒豪なのよ」とゆりがささやく。

わたしたちが席に混じると、美馬くんがオーダーに来た。生ビールを普通のグラスで頼む。

バーでありながら、フードメニューも豊富で、ここで食事を済ますことも多いのだとか。メニューを渡され、ゆりと二人でのぞいていると、

「ねえ、聡とつき合ってるんだって?」

以前のバーベキューの席で知り合った男性が訊く。それに曖昧に頷く。

このところ、ゆりや咲子叔母さんにもひやかされ続け、彼との共通の知り合いの前で、こういった風なことを訊かれることに、やっと照れも薄らいだ。

「いや、本城がさ…、拗ねて大変だったよ」

にやにやと笑う。

仲間内で彼女や奥さんがいないのは、本城さんと彼だけだったらしい。その唯一の『心の友』に彼女ができた。それで、本城さんは面白くない様子だったという。

「いや、別に薫子ちゃんに、当たるつもりはないんだ。全く」

本城さんは、多分困った表情をしたわたしに、明るく答えた。手を振り、「いいんだ。二人が幸せだったら…」などと言う。

ゆりが何かツボに入ったらしい。おかしそうに、肘でつついてくる。

そこで、亮くんが、ピザが食べたいと言い出した。ゆりも、

「わたし、シーザースサラダ。薫子は?」

「じゃあ、わたしは……、この、コーンクリームコロッケ」

グラスを手に、あれこれと話す。

何となく、本城さんがやはり湿っぽいので、皆がからかい半分、励ましている。

それらに本城さんは、ふうとため息をつく。

「何が違うのかな、聡と僕と。あいつ、帰ってきたと思ったら、即効で彼女ができて……。何が違うんだろう。一卵性双生児のような気分でいたのに」

DNAから違うだろ」

「本城と違って、聡はインテリ臭がないな」

「ジュースでたとえたら、聡はあっち系じゃない? ほら、あいつ爽やか炭酸飲料って感じ。本城は…」

「フルーツ牛乳」

「それって何か、微妙。いいのか、そうでないのか」

上がる笑い声に、本城さんは口をへの字にしている。

「何だよ、お前ら、面白がって」

「だって、お前が面白いことを言うからだろう」

小早川さんが引き取って、

「お前の好きなのは、菫ちゃんだろう? やっかむなよ、聡に」

思い出したように、篤子ちゃんも、

「あ、菫、今度英会話を始めようかな、なんて言ってた。海外旅行で、少し喋れたらいいなって」

その声に、「ほら本城、偽ネイティブ・スピーカーの出番」、「得意の、アとエの中間音を教えてやれよ」、「うかうかとラジオ英会話に、英語の筋肉を鍛えさせるなよ」などと続く。

聞いているだけで、おかしい。

きっと今頃、彼は病院で、くしゃみの連続なのじゃないかしら。

「ああ、僕、菫ちゃんが薦めるんなら、怪しい磁気付きの布団でも買うだろうな。三セットくらい…」

本城さんのしみじみとしたつぶやきに、わたしは口に入れたピザを吹きかけた。

 

 

店に配達に現われた仁科さんに、今度食事でもどうかと誘われた。

叔母は配達の品の確認に集中している振りをしている。それを意識しながら、断った。つき合っている人がいるから、と。

「あの彼ですか?」と訊かれた。

仁科さんの指す「あの彼」とは、あの彼に他ならない。花火の後で、わたしを送り届けてくれた、あの夜の気まずいばかりの空気を、仁科さんは知っている。

「ええ、そうなの」

「そっか……。いや、気にしないで下さい、さっきのは」

彼はごくあっさりと言葉を引っ込めた。よく焼けた腕を首に回し、ちょっと後ろの髪をかくようにして、

「何だか僕が、二人の後押しをしたみたいだ」

そう言って笑った。品物の確認に集中していたはずの叔母が、

「この子、年の割りにうぶなのよ。さっさと一人に決めちゃって。仁科さんだって、これからってときに。ねえ?」

そんな茶々を入れる。

「もう、咲子姉ちゃん」

彼も仁科さんもと、都合よく両天秤みたいなこと、できる訳がない。

「あははは、参ったな。でも、咲子さんの言うとおりですよ。まあ、遅きに失しましたがね。仕方がないから、よければ補欠要員にでも入れておいてもらおうかな」

如才のない営業用の表情で、そんな風に笑いに紛らせた。ごくあっさりしたアピールも耳に軽く、妙な後味がない…。

次、店で顔を合わせることを考えても、気持ちが楽だった。

彼が帰った後で、わたしは叔母に、ちょっと愚痴った。

「何? 咲子姉ちゃんは、わたしに仁科さんを勧めたいの?」

わたしの声に振り返った彼女は、粗熱の取れた手のシフォンケーキを差し出した。それをわたしは型から出し、等分に切り取り、ショーケースに入れる。

「そうよ」

叔母は素直に認めた。「柏木くんが駄目だというのではないのよ」と、そう前置きをして、

「あんたも思っているだろうけれど、仁科さんは大人でしょう」

「聡ちゃんだって、大人だわ」

いつしか、わたしは彼のこと名前で呼ぶようになた。彼が好むからだ。そうして彼も、わたしを時に「薫子」と呼び捨て、ときに、これまでのように「薫子ちゃん」と呼ぶ。

「そりゃあ、柏木くんだって、いい子よ。きちんとしているし」

「じゃあ、何がいけないの?」

叔母はわたしに、「熱くなりなさんな」と静かに言った。何が言いたいのだろう。

恋をしろと勧めていたのは、叔母のはずだ。出会いがあったら、いじいじしないで前向きでいろと言っていたのに…。

わたしは焦れたように、ちょっと唇を噛んだ。

叔母の答えをもらう前に、数人のお客が入り、その応対に追われた。ようやく彼女の言葉が聞けたのは、店の閉店間際だった。

後片付けの最中、クリップでまとめた髪に叔母は手をやり、

「わたしは、あんたにもう一度、幸せな家庭を持ってもらいたいの。わたしなんかの真似ではなく、ね。子供を生んで育てて、悩んだり、喜んだりしながら、幸せになってほしいの」

 

え。                           

 

叔母がそんなことを、わたしに対して思っているとは意外だった。

結婚に破れたわたしが、一人で強く生きるのを、見守ってくれているのだと思った。結婚だけが、全てではないと。何よりも、彼女のライフスタイルが、それをアドバイスしているように思えたのだ。

黙ったままのわたしに、叔母が続けた。

「薫子、あんた、ちらりとも柏木くんに引け目がなくいられる? それなら、何も言わないわ。でも、少しでもそれがあると、女は、ちょっと…辛いから」

「え」

「だから、仁科さんを選んでくれればいいと思った。彼はバツイチで、こっちがそんな引け目を持たずに、きっと楽でいられるわ」

彼女はわたしの肩を緩く抱いた。ぽんぽんと叩き、

「ごめんね、楽しい最中に、変な忠告をして。でも、あんたにはもう、傷ついてほしくないのよ。泣いてほしくないの」

「……うん」

だから、叔母は言うのだ。冷静でいろと、賢くいろと。

見極めて、溺れないように。

 

 

その週の日曜に、彼が京都の病院にいた頃の同僚のウェディング・パーティーに出かけた。

湖のそばに立つホテルのガーデンパーティーで、かしこまらない軽い雰囲気だった。男性はほぼスーツ。女性は誰もが派手なドレスも着ていないし、ちょっとだけお洒落をしたという程度。

わたしは、パフスリーブのワンピースを着た。そこだけがちょっとフォーマルを意識して、小粒のパールのネックレスを着けた。

彼の知らない元同僚に混じり、過ごす時間はやはり緊張が続く。その間、ずっと彼はわたしの手を握っていてくれた。それがちょっと照れくさくもあり、また心強かった。

会が終わったのは、四時近かった。

帰りの車では、彼がシャツのボタンを一つ外し、ぽつりと、

「彼女が、おめでただって。だから、急いだらしいよ。目立たないうちに」

「ふうん」

ほっそりとした白いドレスの美しい花嫁さんの姿を思い出しながら、わたしはぼんやりと相槌を打った。

とりとめのない話を交わしながら、眠気を感じた。適度に飲んだシャンパンのせいかもしれない。

瞼の重いわたしに、彼が「眠かったら、寝ていたらいいよ」と言ってくれた。

「ううん、大丈夫」

そう答えたのに、抗えないほどに眠気が襲う。早起きと気疲れが二人になって、ふっと緩んだ気持ちにたたる。

いつの間に寝てしまったのだろう。

目が覚めたのは、唇に何かを感じたから。

「え、何?」

それが彼のキスだと気づいたのは、ちょっと後だ。寝覚めで頭がぼんやりとしている。

「薫子が、あんまり可愛いから」

「…もう」

身を起こすと、辺りが既に暗いことに気づいた。

じきに着くという。高速道路を降りて、路肩に停めていた車を彼が走らせた。

どれくらい寝ていたのか、ナビのデジタル時計を見ると、午後九時になっている。二時間近く寝ていたことになる。

「ごめんなさい。ずっと寝てしまって」

「いいよ」

笑いながら彼が言う。わたしが小さく寝言を言ったという。

「よく聞き取れなかったけど」

「嘘」

「嘘じゃないよ。「違う」とか、「そうじゃない」とか…そんな感じ」

「言ってない」

「言ってたよ。ねえトシキって、誰?」

どうしてここで、敏生の名が出るのだろう。

「その名前も聞こえた」

寝言で敏生の名をつぶやいたのだろうか。彼の夢など、ろくに見ないというのに。

ぽつりと「別れた夫」だと告げた。

ちょっとの間、沈黙。

ふと、その果てに彼が口を開いた。わたしの手を握りながら、

「ねえ、今夜泊まれない? 無理?」

「え」

彼はわたしと一緒にいたいと言う。わたしを抱きたいと言う。

つき合って一月あまり、まだ唇を合わせる以上のことは、彼とはない。はっきりとした意思表示に、返事が口ごもる。

嫌なのでも、不快なのでもない。まさか惜しむ気持ちや駆け引きも考えてなどいない…。

ただ行為への、ちょっとした、ほんのりとした不安感がある。そのことに、自分でもやや驚いているのだ。

黙ったわたしに、彼が、前の夫にまだこだわる気持ちがあるのか、と問う。馬鹿げた問いに、

「止めて、そんな訳あるはずないじゃない」

と一蹴した。

敏生のことなど、ここ最近考えたこともなかった。頭にもちらりとも浮かばなかったのだ。

彼とつき合い始めて、二人の時間ができて、敏生のことなど忘れたように消えた。

「ねえ」

わたしはうんと頷いた。何かから踏み切るようだと、何となく思った。

 

どうしてだろう。

幾度だって彼の他の人に抱かれ、その温もりも、熱も、痛みすら知っているのに。

わたしはどうしてだか、彼の下で確かに震えている。初めての少女のように…。そこでふと気づく。何も知らないから怯えるのではない。

知っているから怖いのだ。

彼の部屋のベッド。木のそれは、動くたび少しだけスプリングがきゅっと鳴る。

「僕が怖いの?」

微かな震えを感じるのか、彼がわたしの首に置いた唇を外した。

「それとも、寒い?」

「…ううん」

寒さじゃない。彼への怖さでもない。それはきっと行為への恐怖心。怯え。最後にわたしを貫いたのは、ひどいばかりのあんな痛みと屈辱だった。

それが、いまだに尾を引いている…。

彼の指が髪をなで、それからするりとわたしの乳房に流れた。指の腹で乳首に軽く触れる。

「避妊なら、心配しないで。ちゃんととするから」

そうじゃない、そうじゃない。

そんなことを気にしているのじゃない。

わたしは彼の肩に唇を置いた。

「前に、敏生にレイプされたの。だから、少し怖いの…」

わたしの告白に、彼が絶句した。

「ごめんなさい、嫌なこと言って…、聡ちゃん」

余計なことを、と口にした後で臍を噛んだ。肌を滑る彼の指が、少し止まる。

けれども、彼に不満や不安を感じていると誤解させたくなかった。理由は今ではない、わたしの過去の中にあることを、知ってほしかったのだ。

どれほどの後だろう。

耳に届く声だ。「優しくする」と。優しい暖かな声がした。

 

「僕は、君を絶対に傷つけない」

 

彼の言葉は、肌に近く届く。

「…うん……」

それは熱く、触れて、じんとわたしの中を酔わす、潤ませる。

肌の熱がくれる、多分嘘のない恋。

それは彼も感じてくれるだろうか。同じような重さのわたしの恋を。

あなたは受け止めてくれるのだろうか。

重なって、溶けて、感じて。

わたしたちはきっと、互いの心の深い場所に何かを刻んだ。




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