赤い林檎に願いを込めた
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (17

 

 

 

知らないベッドがなじまずに、幾度か眠りが覚めた。

そんなとき、ちょっと動かした足先に、彼の脚が触れて、どきりとした。

触れる彼の髪の感触も。心地いいほどの呼吸の音も。

そんなものをぼんやりと感じて、またうとうとと眠りに戻る。

 

改めて目が覚めたのは、すっかり辺りがまぶしくなった頃。

まず彼の携帯のアラームが鳴り、それにわたしが目覚めた。彼は腕を伸ばして、ベッドヘッドに置いたそれを、止めた。

そのまま、伸ばした腕をわたしの肩に回す。抱き寄せて、

「冷たいよ」

キャミソールだけの肌を包んでくれる。

少し身体がだるい。夜中にときどき起きたからか、頭の芯がすっきりと目覚めない。

彼の腕に頭を預け、また目を閉じた。

どれほどたったのだろう、再びアラームだ。

「聡ちゃん」

横になったまま、隣りの彼を起こす。

「ねえ、聡ちゃん、時間じゃない?」

ようやく腕を伸ばし、携帯を手に取った彼が、「あ」と小さく言った。

最初のタイマーのコールで起きるはずが、寝ぼけて二番目に設定した、ぎりぎりモードで起きてしまったらしい。

「大丈夫?」

わたしはベッドに身を起こし、シャワーを浴びると、バスルームに向かう彼に訊いた。振り返り、ちょっと手を合わせる。

「病院は、ぎりぎり間に合うよ。でも、薫子を送る時間がなくなった。ごめん」

「そんなの、いい。自分で帰れるから」

もう一度謝る彼を、バスルームに急かし、わたしは目ぼしをつけたダンボールから、彼の着替えを用意しておいた。それを洗面台にタオルと一緒に置く。

わたしも急がなくてはいけない。

着替えに一度家に帰り、そこからまた咲子叔母さんの店に出る。

彼の携帯の時刻を見て、それに掛かる時間などを頭で考えた。

バス停から走れば、家まで五分ほど。着替えにもう五分…、間に合うかな……。

夕べ、友人のところに泊まると連絡をしておいたから、母はうるさいことは言わないはず。でも、今後もある。彼のことは言っておいた方が、安心するだろう。

彼の後でシャワーを借りた。

熱いお湯を浴びていると、樹脂のバスルームのドアを、こんこんとノックする音がした。わたしはそれに、ドアから背を向け、シャワーを止める。

ドア越しに、彼の声が聞こえた。

もう出かけなくてはいけないこと、そして部屋のスペアキーは玄関のところにおいてあるから、わたしが持っていたらいいこと…。そんなことを告げる。

「ねえ、お願いがあるんだ」

彼の手がドアを開ける気配がして、慌てて止める。

「開けないで」

「今日、七時半くらいに帰って来られるんだ。だから、そのとき薫子に、ここにいてほしい。無理かな? どう?」

今晩は、間違いなく送るから。

無理に泊まらせたりしないから。

わたしはそれに、「うん、わかった」と答えた。

彼は返事を聞くと、じゃあと出かけて行った。

遠く、ばたんと玄関ドアの閉まる音を聞き、再びシャワーのコックを捻る。

手早く髪や身体を洗いながら、思う。

どうして彼は、わたしに「ここ」にいてほしいと言ったのだろう。会いたいのなら、外でだっていい。午後七時半頃なら、ちょうど夕食の時間なのだし、外で待ち合わせて、そのままどこか食事に出かける方が便利だ。

彼がしてほしいのなら、掃除や料理なら、するのは構わないけれど。

「また……、抱きたいだけだったりして」

ぽつりとそんな独り言が出て、おかしくなる。

彼が触れた、やんわりと噛んだ肌。交わした言葉、そんなものを思い出す。

それらの記憶に、一瞬、どうしようもない波のようなものを心の奥に感じて、シャワーを受けながら、わたしは床にしゃがみ込んだ。

 

 

何となくわたしが勝手に醸す雰囲気からか、咲子叔母さんは、あっさりと夕べの外泊を見破った。

彼女からは、「熱くならないように」と忠告を受けていた。それがわたしのためだと。なのに、それからほどなく、わたしは彼と身体の関係を持ってしまった…。

それが恥ずかしく、叔母の「泊まったの?」の言葉に、瞬時に頬が熱くなった。

「お母さんが言ったの?」

ランチの準備をこなしながら、そう訊いた。叔母は壁の時計をちらりと眺め、「違うわよ」

と笑う。

やっぱりわたしが、夕べの余韻のようなものを引きずっているのかと、また恥ずかしくなる。そんな様子をしたまま、午後にふらりと店を訪れるだろうゆりの前に出るのが、億劫だ。彼女だって、きっとぴんとくる。

「化粧ののりがおかしいのよ。鼻の頭が、ファンデーション、よれてるわよ。いつものものと違うのを使ったんじゃないの? コンビニの安いやつとか」

歌うように、そんなことを言う。

あまりに図星で、恥ずかしさに目がくらみそうになる。しかも急いでいたから、肌になじませる時間も惜しんで、とりあえず塗ってきたという感じなのだ。

「ちょっと直したら? ゆりちゃんなんか、きっと瞳をきらきらさせて突っ込んでくるわよ」

「じゃあ、ちょっとごめん」

トイレに入って、少し顔を直した。カウンターに戻ると、ちらりとわたしの顔を検めた叔母に言った。

コールスロー用のキャベツの千切りを始めながら、

「咲子姉ちゃんは、あんまり聡ちゃんのこと、薦めないけど、……わたしやっぱり、聡ちゃんが、好き」

傍らで彼女は鶏のつくねの仕度をしている。それに照り焼きソースを絡めて焼いたものと、コールスロー、そしてかぼちゃの煮物が今日のメニューだ。

「迷惑は掛けないようにするから、心配しないで」

叔母はふうんと言い、やはり笑う。

「別に、柏木くんに反対していた訳じゃないのよ。お姉ちゃんなんかは、いい子だって、気に入ってるみたいだし。あんたがそう思うのなら、いいのじゃない。気持ちは曲げられないからね」

「うん」

他の人は、考えられない。

条件がいいとか、離婚した自分に見合うとか、ゆくゆく自分が楽なのだとか…。

パーツ、パーツで選ぶことは、できない。

気持ちはもう、彼に決まっているのだから。

切り終えたキャベツを、氷水を張ったボオルに流し、次のにんじんに取り掛かろうというとき、叔母が肘でこつんとわたしの腰の辺りを突いた。

「柏木くんは、どうだった? アレ」

面白そうに笑って、そんなことを訊くのだ。

質問がストレート過ぎて、上手く答えをはぐらかせない。きっと、頬がチークも差さないのに赤いはず。わたしは彼女を睨みながら、

「変なこと訊かないでよ」

叔母はにやにやと笑い、軽く身体をぶつけた。

「あんたに優しかったの?」

「…うん、優しかった」

叔母はささやくように、「よかったわね。じゃあ、身体は忘れられるわね」と言う。

彼女が何を言いたいのか、その意味はすぐにわかる。

敏生との情事ともいえないような、最後の関係。

心の傷は簡単には癒えなくても、多分身体はもう、忘れている。

聡ちゃんに抱かれて、別の記憶を刻んで。

肌が、忘れたいといっている。

 

 

電話を切って、彼の部屋を少し片付けた。空気がむっとするようなので、換気をする。

暗くなりかけた夜の風に、ふわりとカーテンが揺れる。

この部屋に着いてすぐに、彼から電話があった。仕事がもう終わること、すぐに帰れることを告げた。

初め、何か料理を作ろうかとも考えたのだけれども、朝ざっと見たところ、あまりのことに、それはあきらめた。

キッチンにはほとんど調理用品らしいものがない。備え付けのガスコンロはあるものの、鍋もやかんも包丁すらないのだ。

ほとんど外食で、後は実家で済ますというから、必要ないのかもしれないけれど。

少し揃えてもらうように頼んでみよう。手料理くらい食べてもらいたい。

あちこちにふわりと重なる服を畳む途中、床に落ちた『イヌの心』という月刊誌を見つけた。表紙に、『夏の怖い犬の病気、ランキング10』、『愛犬が吐いたらチェックする点』、『獣医さんには、コレを伝えよう』……。

「ヤンさま」のために、これを真剣に読む彼を想像して、おかしくなった。気になる箇所なのか、隅を折ったページも幾つか。

わたしの笑いが収まる頃、彼が帰って来た。チノパンツにチェックのシャツ。わたしが朝に彼に用意したものだ。そのまんまの格好で、彼は帰って来た。

当たり前のことなのに、何だか朝の続きのようにも思える。時間だけが過ぎ、空だけが暮れ、同じようにわたしたちは同じ場所にいる。

「お帰りなさい」

どうしてだか、彼はわたしをじっと眺めた。

小首をかしげ、きれいな瞳を瞬かせ、彼は玄関に迎えに出たわたしを見つめるのだ。

何も言わない。

「ねえ、聡ちゃん、キッチン何にもないのね。おかしなくらい。今度何か作るから、簡単に調理用具を揃えたいのだけど…」

また一つ、彼はぱちりと瞳を瞬かせた。

どうしたのだろう。疲れて、眠いのだろうか。

「ねえ、聞いてる?」

その返事はなく、代わりに彼の腕が伸びた。引き寄せて、痛いほどに強く抱きしめる。

「聞いてるよ」

「だったら、返事をして」

「ごめん、ちょっと感動してた」

わたしがいることが嬉しかったのだという。

当たり前にそこに立っていることが、嬉しかったのだという。

「いないかもしれないなんて、思った」

「だって、さっき電話で話したじゃない」

「でも…、もしかしたら、いなくなっているかもしれないって、思った」

これまで彼が見せなかった胸のうち、そんなものがはらりと覆った幕を落すように顔を出す。

ほろりと、音がしそうに。

きっと彼は、ある理由でわたしの知らない「彼女」を失ったのだろう。同じ腕で、強さで抱くほどの焦がれた人を。

現れない「彼女」。または消えた「彼女」を思って、辛い思いをしたのだろう。

だから、消えない「わたし」を見て抱きしめるのだ。嬉しいと言ってくれるのだ。

心の奥で、それほどに彼に痛みを刻んだ誰かを、ほんのりと憎いと思う。

そして、あっさりとわたしの前でそんな「彼女」を思う残滓をさらす彼を、ちょっぴり酷いと思った。

「ねえ、聡ちゃん…」

わたしの方が、あなたの胸に大きな存在でいるのでしょう?

そんな影のような嫌な思い出は、わたしが忘れさせてあげる。

触れて、感じて、存在する確かなわたしという証。「彼女」などではなく。

あなたのそばにいるのは、わたし。

だから、わたしに、あなたがかつて「彼女」にそうであったように、夢中になってほしい。

ゆらゆらとした嫉妬を隠して、わたしは彼の腕の中にいる。

「薫子、大好き」

「うん…」

 

食事を外で済ませて、手をつないでマンションまで歩いた。

温い夏の夜の空気が、頬を腕を撫ぜる。

彼は忙しかった今日の一日をつらつらと話し、今度の週末に、病院のチームの野球があるから、見に来ないかと誘った。

彼をちょっと見上げて、訊く。

「聡ちゃんも出るの?」

「うん、多分サードかな。相手は製薬会社の研究員チームで、『○○製薬ケミスターズ』だって。ネーミングが硬いよな、もっと捻ればいいのに」

「聡ちゃんたちは?」

「……ドクターズ・イレブン。もっとひどい」

「二人多いし」

笑った後で、彼がぽつんと訊いた。腕の時計を見ながら、「早くないといけない?」と言う。

「…うん……」

夕べは外泊だった。今夜も遅いのであれば、母はあまりいい顔はしないだろう。だらしないことだけはするな、というのが口癖の人だから。

彼と会っていることは告げて出てきたれど…。

「今日は、帰る。もう九時だし……」

「じゃあ、送る」

部屋に置いた薄手のカーディガンを取りに戻り、腕にかけたところで、彼が後ろから抱きしめた。

「ずっと一緒にいたい」

耳にかかる言葉がひどく熱かった。けれど、言った言葉を彼は、すぐに軽く笑いに紛らせた。

「ごめん、勝手に言ってるだけだから、気にしないで」

「聡ちゃん……」

彼がわたしのうなじの髪を指ですくった。そこに唇を当てるのがわかる。ちょっときついキス。

きっと痕がつくだろう。わたしは明日、髪を結うことができない。

離れがたいのは、わたしも同じ。

ずっと一緒に、夜を過ごしたい。

わたしは彼の後ろから回す腕に触れた。指を滑らせ、彼の指に自分の指を絡める。

溺れないようにと、咲子叔母さんは注意した。

二人の時間が始まったばかりの、こんな濃密な空気にいるわたしに、その言葉はひどくわずらわしく、重い。

結局、ごく軽い言葉だけの冷静さは、あっけなく、触れた肌の温もりと、首筋に続く彼のキスで流れてしまう。消えてしまう。

崩れるように床に膝を折るわたし。

「抱きたい」と、真っ直ぐな熱をくれる彼。

ちょっとたじろぎ、やや身を引くことが、気持ちを煽る。彼の、そして強くなる抱擁に、わたしも。

つないだ手、絡めた指。

すぐに深くなるキス。

溺れないように、急がないように。頭の芯の冷めた部分はそう伝えている。

けれど、わたしたちは、他愛のない互いの肌に、こんなにも簡単にうっとりとしている。

憑かれたように、または何かを脱いだように。

 

抱き合うその最中の彼の瞳が好き。

きれいなその横顔が好き。

時に、わたしにたずねる優しい言葉が好き。

柔らかな髪が好き。

滑らかな肌の、その熱が好き。

あなたが、好き。




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