あたたかなほたるのひかり
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (
18

 

 

 

誰かの彼女が買い出してきた、大きなビニール袋にたくさんのペットボトルを配るのを手伝い、勧められて余ったコーラを開けた。

甘い液体が、やや温く喉を流れていく。

中学校のグラウンドを借りての野球。ナイターのそれに、眩しいほどの照明が照らす。

以前彼が見に来ないかと誘った彼ら病院チーム『ドクターズ・イレブン』対某製薬メーカー『○○ケミスターズ』の試合だ。

時間ぎりぎりに着いて、すぐに開始。言っていた通り、彼はサードを守っていて、眠いのか、欠伸交じりに守備をしている。それでも流れたボールをちゃんと取る。

紺と白のどこかのメジャーチームのものをそっくり真似たデザインのユニフォームが、何だか彼によく似合って、眺めているわたしが、そんなことで嬉しくなるのだ。

メンバーの彼女、または奥さん、そのお子さん。他にナースも数人応援に来ている。

初対面の彼女らと少し話し、ちょっとだけ打ち解けたところで、

「ねえ、おトイレ一緒に行ってくれません? 夜の学校って、怖くて…」

そんなことを言われ、「いいですよ」と受け合うと、「わたしも」、「わたしも」と、声が続いた。

それはちょうど七回裏の『ドクターズ・イレブン』の攻撃のときで、ぞろぞろとベンチから女性が消えるので、「何だよ、見せ場なのに」、「覇気に関わるから、早くしてくれよ」などと選手から笑い混じりの不平がもれた。

トイレから戻ると、見せ場の攻撃は、あっけなくスリーアウト三振で終了していた。二対六と劣勢は変わらない。

「あっちのチーム。野球部が三人もいるらしいですよ」

道理で、強いはずと頷く

「先生たちの方は?」

「ゼロ…。しかもセンターの○○先生は、野球初心者らしいですよ。ルールも怪しそう」

「うちは、夜勤明けの眠気対策なのよ」

ナースの言葉に笑い声が続く。

前のベンチに掛けて、彼が同僚と話すのが聞こえた。

「柏木先生の彼女、きれいっすね」

ちょっと照れるような彼の後輩の問いかけだった。彼がそれをどう返すのか、聞きたかったが、隣の女性に話しかけられて、知ることができなかった。

次に聞こえたのは、彼がその後輩の彼女についてたずねた言葉だった。問いに答えた会話が続く。

「前から不穏な空気はあったんすけどね…、勤務先を変える気がないって知ったら、それでアウトっすよ。彼女、絶対、地元を離れたくないって」

「ああ、遠距離だって言ってたな」

「夜勤明けでも、寝ないで会いに行ってたんすよ。その努力は…、チクショーてな感じっすよ」

と吹っ切れているのか、あっさりと笑った。

それに彼が「わかる、わかる」と受けている。

「そんなときは、疲れを感じないんだよな」

「破局を迎えて、どっとくるんすよ。ははは、利息をつけて」

そこで、後輩くんが問う。

「柏木先生は、今の彼女さんと、どれくらいなんすか?」

それに聡ちゃんは、聞くわたしが驚く、嘘で答えたのだ。

「二年くらいかな…、多分」

「へえ、落ち着いてるんすね、いいっすね。」

 

試合の後で、駐車場に停めた車に向かうとき、ちょっと先を行く彼に訊いた。

「ねえ、どうしてあんな嘘をついたの?」

彼はユニフォームの上を脱ぎ、それを開けた車のリアシートに放り込んだ。振り返り、

「聞こえてた?」

と笑った。

「うん」

「お疲れ」と掛かる同僚の声に、彼は手を挙げて応じた。

車に乗りながら、こんなことを言う。

「見栄と、ゲンかつぎ。薫子と、すっかり落ち着いてるみたいに見せたいのと、僕らが、ずっと続くようにって」

「聡ちゃん……」

わたしは彼がハンドルに置いた手に、触れた。野球の後で、少し汗ばんだ腕に指を添わせた。

大丈夫、わたしは消えないから。

あなたの許を去ったりしないから。

心の中でつぶやく声。それは彼に聞こえなくても、何か、伝わるものがあるのだろうか。

彼はわたしの好きな、ちょっと少年ぽい笑顔を浮かべた。

 

 

買ったばかりの下着を盗まれた。

母が取り込んで、空いた和室に放っておいたものを、わたしが夜に畳むときに気がついたのだ

これまでもなかったことではない。けれども、ブラもショーツもセットでないとなると、さすがにおかしいと気づく。

身に着けていたのも、洗ったのも自分で、間違いようがない。

翌日、店で咲子叔母さんに打ち明けると、「気味が悪いわね」と眉を寄せた。

「戸締りは、お姉ちゃんにも言って、きちんとしなさいよ」

「うん」

こんなときに女ばかりの家というのは、心細い。午後に現われたゆりにも話すが、彼女は首を捻った。

「うちは大丈夫みたい。ほら、ごついのがいるから」

「ああ、喬さん怖そうだものね。空手も強いし」

「うん。あれ…、そういえば、前に、篤子ちゃんもそんなことを言ってたような気がする。ええと、あれいつ頃だろう。夏前かな」

「同じ犯人かしらね?」

叔母はつぶやくように言って、「若い子じゃない? むらっときたのよ、きっと」と続けた。

「へえ、じゃあ薫子の下着にむらっときたのか。どんなの干してたのよ」

「全然普通の。知らない誰かが持ってると思うと、気味が悪い」

「下着はね、特に。何に使うのか、想像つくし…」

「最悪。人の下着使って、「ハアハア」やられたら、堪んない」

「あははは、「ハアハア」って、表現がグロイ」

そんな風に流れ、下らない笑い話になる。

ゆりは帰り際に、「小母さんと二人だもの、夜は気をつけないと。何かあったら、すぐに電話でもしてよ。喬さんを行かすから」と言ってくれた。

 

面白くないことは続くのか、聡ちゃんと喧嘩をした。

正確には、わたしがつむじを曲げたというか、彼の言葉に腹を立てたのだ。

デートの際の食事の途中だった。

調理用具を一通り揃えてもらい、彼の部屋のキッチンで、リクエストのクリームシチューを作った。

おいしいとお替りまでしてくれて、話しながら、その場は和やかだった。連休が取れそうなこと。前の野球の試合で、彼のナースをしているお姉さんが、実は応援に混じっていたこと…。

「え、わからなかった。どうしよう、挨拶もしなかったわ」

「あっちも名乗ってないって言ってたから、気にしなくていいよ。薫子のこと、褒めてたよ。可愛い子だって」

「ふうん」

わたしは、あの場の女性たちの顔を順に頭に思い起こしても、どうしても彼の姉らしき人に辿り着けないので、いい加減であきらめた。

どこで話がそんな風によじれたのだろう。

気づいたときには、わたしは立ち上がり、帰る、とバックをつかんでいた。

その様子に呆気に取られた彼が、小首をかしげ、「どうしたの?」と不思議そうに訊いた。それがまたわたしには癇に障るのだ。

わたしの感情に、ちっとも気づいていない彼に、苛立ちを覚えた。

どうして、そんな悪びれない表情でわたしを見られるのだろう。どうして、あんなことを言ったのだろう…。        

一人で帰ると言うわたしに、彼が「駄目だよ、送るから」と手を取った。

「何が、気に障ったの?」

帰りの車の中で、繰り返す彼の問いに、わたしはほとんど答えなかった。

いい加減で焦れたのか、

「はっきり言って。何が気に入らないの?」

やや尖った声で問う。

シフトレバーから手を離し、わたしの膝に手を置いた。

「ねえ、薫子?」

「どうせなら、黙っていてくれたらよかったのに。酷い」

「だから、何を?」

「あなたの部屋のベッド、本城さんの使ってたものだなんて、絶対知りたくなかった」

彼はこのほんの前、何かの話のついでに、ほろりと面白そうに話した。今使うベッドが、友人の本城さんの置いていったものであることを。

「あいつ、今は菫ちゃんに賭けているから、前の彼女の残り香を感じるようなものは、切り捨てるんだってさ」と、笑ったのだ。

それが嫌だった。

本城さんが嫌なのではなく、友人が使ったベッドで、どうしてわたしを抱けるのだろう。更に、その友人すら、前の彼女の思い出が残るから捨てたい、というベッドなのだ。

他人の感じ方は知らない。わたしが嫌なのだ。

「酷い」

繰り返すと、彼はおかしそうに笑った。

「そんなことで、怒ってたの?」

やっぱり何も感じていないらしい。弾けるように笑う。

ようやく笑いが引いた頃、

「だったら、ホテルは尚のこと駄目ってことだよね? 不特定多数の誰かが使うんだから」

「ホテルは誰が使ったのか、知らないじゃない。お金を払って決まった時間、泊まる空間だからいいの。その場限りのことだし……。でも聡ちゃんの場合は違う」

「何? もしかして本城が、気味悪いの?」

訝るような声は、やや不機嫌に聞こえた。

そうじゃないと、わたしはつぶやいた。そして黙り込んだ。

本城さんであるとか、そうでないとか、関係がない。よく知る彼の友人が使い、その彼女との思い出が残るというベッドが嫌なのだ。

そこで、平気でわたしを抱く彼の無神経も、信じ難い。

彼はそれをどう取ったのか、

「よく…わからない。薫子の言っていること」

無神経で鈍感な彼は、むっつりと言い、それきり黙りこんだ。

わたしも何も返さなかった。

彼とは逆に、わたしが神経質なのかもしれない。けれども、別の誰かの気配を感じるベッドなんて嫌。

こだわり過ぎるのかもしれない。けれども、わたしの匂いしか感じないベッドがいい。

 

ずっと続くのでしょう?

わたしが一番なのでしょう?

 

面倒がらずにベッドくらい、新しく買ったらいいのに。

聡ちゃんのケチ。

                         

 

『まだ
怒ってるの?

 

カシワギ』

 

そんなメールが幾度か届いた。夜だけではなく、珍しくお昼にも。

最近携帯を新しく買ってアドレスも番号も彼には伝えてある。着信を見ると、今日もやはり届いていた。

忙しさの後でメールを開く。                         

 

『ねえ、
頼むから
返信して
薫子ちゃん

 

カシワギ』                           

 

徐々にメールの内容が、懇願調になっていくのが、彼には申し訳ないけれど、おかしい。

ばたばたと仕事中は忙しく、返信は帰って落ち着いてからにしようと、そのままに、エプロンのポケットにしまった。

「これ、もらって帰っていい?」

「いいわよ」

仕事の帰りに余ったお昼のサラダをタッパーに詰めた。

いつもはしないが、今日明日は、母が『花滝温泉女将の会』に呼ばれ、鬼怒川温泉に泊まりに行っているのだ。一人の夕飯を作るのが面倒で、このサラダとトーストで済まそうと考えた。

それを咲子叔母さんが、

「また夏バテになるわよ。あっちゃんも来るから、夜は一緒に食べましょう」

「ふうん、何作るの?」

そうねえ、と思案を始めた。

「揚げ出し豆腐が食べたいのよね」

結局、その日は二人で夕食を作り、七時半ごろ現われた高見さんと三人でご飯を食べた。

片づけを手伝って、帰ったのが九時半を過ぎていた。

玄関に鍵を閉め、一度携帯のメールを確認する。もう一件、聡ちゃんから届いていた。

 

『仕事が
手につかないから、
お願い、
何か言って

 

カシワギ』

 

それにわたしはやっと返した。「もう、いいの」と。

確か今日は、遅くに仕事が上がるはずの彼を思い出し、せっかく一人なのだから、こんな日に一緒に過ごせたらよかったと思った。

そう思えるほど、怒りなんてもう消えている。

お風呂に入って湯船に浸かったとき、磨りガラスの窓の奥が、がたりと鳴った。風が強いのかと思った。庭の何かが木に当たったのだろうと思った。床下のバケツとか、放水ホースとか。

洗った髪をタオルで巻いて、湯船から上がったとき、何気なく窓を見た。

「ひっ」

思わずもれた声。

すぐにタイルの床にしゃがんだ。

窓の外に、肌色をしたものが見えた。誰かいる。

かけ湯もそこそこに、わたしは脱衣場に逃げた。急いで部屋着を纏い、茶の間に移る。

覗かれていた。

瞬時に、あの盗まれた下着のことが頭に浮かぶ。あれを盗ったのと同じ人物なのかもしれない。

女所帯であることは、干した洗濯物で知れる。そして、今夜は母がいない。しばらくこの辺りにいたのなら、わたしが帰って初めて明かりが灯されたことで、今この家には女が一人しかいないことが、相手に知れるのだ。

お風呂上りに、背中がぞくりと寒くなる。

ちょっと迷った末、携帯を取り、聡ちゃんにかけた。忙しいときなど、出られる訳がないのだけど。

思いがけず、何度かのコールの後で、あっさりつながった。

「聡ちゃん?」

『ああ。どうしたの?』

仕事中に電話などしたことがない、わたしからの連絡に、彼の声はちょっと驚いているように聞こえた。

わたしは今話して大丈夫なのかを問い、彼がそれに頷いた後で、お風呂を覗かれたようだと告げた。

『お母さんは?』

「今日は旅行でいないの。泊まりだから、怖くって…。この間、下着も盗まれてるし……。ごめんなさい、仕事中にこんなこと」

『いいよ、暇だったんだから。じゃあ、仕事を上がったら、行くよ。あと一時間くらい、待てる?』

「うん、大丈夫」

『何かあったら、警察に言って。僕より早いから』

「うん」

そこで彼が、ちょっと間を置いた。『もう、怒ってない?』と、そんなことを訊く。

こんな電話をかけるのだから、気づいているだろうに。メールだって送ったのに。

「うん」

彼は電話の向こうで、やはり笑う。『よかった』と。

切った後も、何だか耳に残る、彼の『よかった』に、わたしは自然に頬が緩んだ。

 

電話をしたことで落ち着き、テレビを見てしばらく過ごした。

彼は泊まるのだろうか。

おなかは空いていないのだろうか。

そんなことが浮かで、彼が今夜来ることに、心が弾んだ。

どれほどたったのか、玄関の扉がどんどんと叩かれた。急いで向かう。

磨りガラス越しに、彼のジーンズの色が見えた。

鍵を開け、がらりと引き戸を引く。

いきなり手で口を覆われた。立っていたのは聡ちゃんではない。

ほの暗い照明ではっきりとしないものの、ごく若い高校生ほどの男の子に見えた。

それでも背もわたしより高く、力も強い。

彼は、わたしをたたきの床に強く押し倒した。わずかに口の手を外し、代わりに、布の塊を口の中に詰め込んだ。

声が出ない。

足を懸命にばたつかせた。その脚の間に、彼のジーンズの脚が割ってくる。

顔にかかる荒い息遣い。

それに凍るほど恐ろしさを感じながら、それでもわたしは抗い続けた。

 

声が出ない。

息が苦しい。





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