夜空の月は見ていた
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (19)

 

 

 

押さえつけられた身体を、それでも動かそうともがいた。

肩にかかる重さ。部屋着のワンピースの裾を割って入ってくる、ジーンズの脚…。逃れようと、精一杯の抵抗を繰り返した。

布を一杯に詰め込まれた口の中が苦しい。息が辛い。

玄関のたたきに当たった背中が擦れて痛い。

それでも、喋れない口で、何とか「止めて」に似たものを叫ぶ。声にならないくぐもった擬音でしかないそれに、男の返事はない。

ワンピースの上から身体をまさぐられ、その感触に恐怖も忘れて、怖気が走る。

そして猛烈に腹が立つ。

力を振り絞っての抵抗は、息がただでさえ苦しい中、途絶えそうになる。抗う力が、徐々に小さくなっているのを感じていた。

ちょっと気が遠くなりそうな頭に、新聞やテレビで見た暴行事件のニュースがちらりと浮かんでいく。ある女性は、抵抗したため、激昂した犯人の男に殺されていた。また別の事件でも、被害女性はひどい怪我を負わされたのだと……。

恐怖と絶望が胸をよぎる。

男の首の汗がぽとりと、わたしの頬落ちた。その気味の悪さ、不快感に、吐き気が込み上げる。

絶対に、嫌だ。

勝手な欲望の捌け口になんて、されたくない。

顔を横に振り、その反動で、口の中の詰め物が少し口から出た。ほんのちょっと息が楽になる。

思い切り息を吸い込んだとき、がらりと引き戸が開いた。

その音に、男が振り返った。彼の肩越しに、聡ちゃんの頭が見えた。

「おい」

聡ちゃんは、男の襟元をつかんだ。引っ張り、そのまま壁に突き当てる。どん、と男の背が壁に強く当たる音が響いた。

男はいきなりの展開に、わたしに対した勢いもどこへやら、慌てたように目をきょろきょろと泳がせている。

彼と比べればと、年齢の幼さと体格の差が目立つ。それでもわたしを突き倒し、自由を奪う力はあったのだ。

わたしは後ろも見ず、板間に上がった。ワンピースのまくれた裾を直し、口から布を放り出す。

それは藤色の布で、先日盗まれたショーツだということに、すぐに気づいた。男はそれを、当のわたしの口に突っ込んだのだ。

救われた今に、安堵で呆然となりながら、息を整える。胸の動悸がなかなか収まらない。

聡ちゃんはわたしに大丈夫かと訊いた。わたしがそれにうんと答えた後で、男に名前と年齢を尋ねた。

小さな声で、男がぼそぼそと名乗った。十七歳の高校三年生だと聞こえた。

「学校は?」

「それは……」

その問いには口ごもって、目を伏せた。

聡ちゃんはシャツの胸ポケットから携帯を出し、片手でわたしに放った。

わたしが受け取ると、「それで、警察に電話して」と、こちらを見ないで言う。

警察の言葉に、クラタヨウイチと名乗った彼は、突然うろたえた。首を振り、震えるようになる。

「止めて下さい、それだけは。警察には言わないで下さい、お願いします、お願いします」

半分涙声のようになりながら言う。

「この間の、模試でいい成績取れなくて……、受験まで半年しかないのに。親に無茶苦茶怒られて…、もうおかしくなってたんです。むしゃくしゃして。すみません、ごめんなさい、ごめんなさい。反省してます。二度と、こんなことはしません。お願いですから…」

野暮ったいシャツを着た彼は、ぶるぶると語尾を震わせ、それでも懇願を続けた。

ときにわたしに視線を当て、

「すみませんでした。きれいな人だったから……、一度近くで見てみたかったんです。話したかったんです。そうしたら…、訳がわかんなくなって、止まらなくなって…、ごめんなさい。許して下さい」

涙を流しながら謝罪をされると、開いた携帯のボタンを押す指も止まる。警察に言うまでもないのかも、と。

まだ高校生なのだし、将来があるのだし。

何より、こんなに反省しているのだし。

まず、大事に、至らなかったし。

親に連絡を取るくらいで、いいのじゃないか……。

そんな風に迷い出したとき、聡ちゃんの声が吐き捨てた。

「自分が何をしたのか、わかっているのか?」

もう一度、わたしの方へ向いたクラタヨウイチの頭をこつんと壁に当てる。胸倉をつかんだ腕は、ちらりとも緩んでいない。

「だから……、ごめんなさい……、僕…、反省して…」

「薫子、電話して」

「聡ちゃん、でも、可哀想じゃ…」

「早く」

彼は今まで聞いたことがないような厳しい声で、わたしに命じた。

 

制服の警察官が二名現われたのは、連絡をして五分ほどたった頃だ。

まず、聡ちゃんが抑えていた少年を、一人の警察官がパトカーに乗せた。残る一人の警察官が、わたしと聡ちゃんに質問を幾つかした。

「…じゃあ、あなたがここに到着したときにはクラタヨウイチは、こちらの暮林薫子さんに襲い掛かっていたのですね?」

わたしも聡ちゃんも頷いた。彼はわたしに、下着泥棒に遭ったこと、その盗まれた下着が、襲われた際に口に押し込められたことも話すよう促した。

その後で、彼はわたしが気づかなかったことを話した。

「あの彼、ポケットに折りたたみのナイフを持っていましたよ」

その言葉に、慄然となる。何かのタイミングで、それを使われていたかもしれないのだ。

ふむふむと聞いていた警察官が、書き物を終えると、わたしに訊いた。

「無事だったということで、必要ないかもしれませんが、病院には行かれなくていいですか?」 

それには彼が先に、自分が医者であることを告げた。

「なら、大丈夫ですね」

事後の説明を受け、所定の用紙に署名をした。警察官が帰って行ったのは、彼の時計で十二時半を過ぎていた。

どっと疲れが押し寄せてきた。

板間にぺたりと座り込んだままのわたしに、聡ちゃんが改めて大丈夫かとたずねた。

「うん…、平気だけど」

大きく息をついて、顔に両の掌を当てる。めまいがしそうなくらい本当は疲れていた。安堵と、恐怖の残ったもの、そして恐ろしさが去った後の虚脱感だ。

彼が玄関の床に膝を着き、わたしを抱きしめた。

「本当に、何にもされなかった?」

「突き倒されて、少し服の上から触られただけ」

「頭にくるな、それでも」

彼の腕がわたしの髪から背を撫ぜる。それに溶けるように、何だか力が抜けていく。

よかった。

聡ちゃんが来てくれてよかった。

「もうちょっと、僕が着くのが遅かったら……、薫子がひどい目に遭ってたんだ。そう思うとあいつが許せない」

胸で聞くわたしには、彼の声がちょっとくぐもって届く。そして思い出した。「早く」と怖いほどの声で命じた彼のあの厳しい声音と、そして瞳。

それは、わたしを思ってのためなのだろうか。

そうだろうと思い、それを彼の口から聞いてみたいと思う。

「ねえ、聡ちゃん、妬いてるの?」と、そう口にしかけたとき、彼は、

「あいつ、初めてじゃないよ。前にも同じようなことをしてる」

ぞくりとするような気味の悪いことを言った。

「え」

下着を盗んでいることから、先に下見をして、女所帯であることを確認してあったはずだ、と彼は言う。そして、わたしの一人になった際を狙って入ってきたのだ、とも。

それも、忍び込む手間をかけずに、堂々と玄関から、わたしに鍵を開けさせている。

暴行に及ぶのも、声を出させないように女性の口に用意した布を押し込む。更に、抵抗がひどいようなら、ナイフをちらつかせて脅す……。

「場数がある、間違いないよ。被害に遭っても、のち警察に届けにくい女性側の立場を知っているんだ」

そこで、明らかにレイプ被害を受けて病院にやってきた女性を、幾度も診たことがあるとつないだ。彼女たちは問題になるのを恐れて、大抵が否定するという。

彼氏とちょっと喧嘩をしただけだとか、または怪我だけ診てくれればいいと突っぱねたり……。

だから、彼はわたしが警察に通報することを強いたのか。医師として職業柄、クラタヨウイチの振る舞いなどから、彼にはあまりにはっきりとその本性が見えたのかもしれない。

「可哀想なのは、絶対あいつじゃないよ」

わたしなど、急に子供じみた泣き声に、うっかりと心を揺すられてしまったのに。「可哀想」と、警察沙汰にすることをためらいすらした…。

「あいつ、さっき成績の件でむしゃくしゃしてとか、何とか言ってたろう」

「あ、うん…」

「理由が何であれ、個人的な苛立ちを暴力で人にぶつける奴は、卑怯だよ。絶対に自分より強い相手のところには行かない、必ず自分より弱い者へ行くんだ。女性だとか、子供だとか…」

「相撲部屋とか、大学の空手部の寮とかに乗り込めばいいのに」などとぼやくから、ちょっとおかしくて、笑みが出た。

どことなく透明にも思えた、彼の心の奥の強さに触れた気がした。彼はわたしが知るより、きっとずっとかっこいい人。

それに、胸がきゅっとなるほどにときめいた。傍にいられる自分が誇らしいような、嬉しいような。

「聡ちゃん…」

「僕は、ああいう卑怯な確信犯が、生理的に駄目なんだ」

いまだどこか、彼の声は尖っている。怒りを引きずっている。それに自分でも気づくのか、ちょっと照れたように笑った。

「ごめん、何か、薫子が襲われそうになっているのを見て、気が立ってるんだ。頭にきて…」

「ありがとう、来てくれて」

「もう、完全に怒ってない? ベッドのこと」

「やだ、もういいって言ったじゃない」

「でも、会うまで不安だった」

髪をかきやり、うっすらそばかすのある鼻と頬に触れる。きれいな瞳の彼に、ふと唇を寄せた。

きっと初めて、彼に自分からキスをした。

 

おなかが空いているという彼に、サンドイッチを作って缶ビールと一緒に出した。

彼はそれをほお張りながら、またベッドのこともう一度繰り返した。

「いろいろ考えて、やっぱりよくわからなかった。君が、本城が使ったあのベッドを気持ち悪がっているんだとしか、想像がつかなかった」

それで、同期の女医さんが病院にいるから、偶然会ったときに、訊いてみたのだという。

それにどきりとする。

そういうところが、デリカシーがないんだってば。

「そんなこと訊いたの?」

ちょっとふくれて、わたしは缶ビールを口に運んだ。

「だって、わかんないし。それに彼女、さばさばしてて口も堅いし」

「それで?」

彼はサンドイッチをビールで喉に流し込み、続けた。

苦笑混じりに、

「絶対嫌だって。特に知っている人物なら尚更不快感が増すとか、あんたは本当の馬鹿だとか、彼女が気の毒だとか…。言いたい放題言われた」

そのときの、あっけに取られた彼の表情を、見てみたいような気がする。

だから、と彼は手を合わせた。「ごめん」と言う。

「無神経だった。僕にまつわることじゃないから、構わないんだと思い込んでた。単純に、君のわがままだと思ってた。ごめん」

「もういい。怒ってないし。わかってくれたのなら、いいの」

わたしは彼が食べ終えた皿を下げ、台所に運んだ。

背中に、茶の間から彼が、「すぐ薫子の好きなベッドを買うから、許して」と、ちょっとおかしなことを言うのが聞こえた。

それに、簡単に洗い物を済ませながら、笑みが浮かぶ。

洗った皿をかごに立て、きゅっと水道のコックを捻って止める。

「僕にまつわること」と、彼は言った。

ふと胸に引っかかった彼の言葉だ。

それは彼も大人で、いろんな恋愛の経験があるだろう。

女は、わたしが初めての訳がないのだ。

わたしだって同じ。幾つかの恋をして、苦い経験を超えて、そして今ここにいる。あなたと出会って恋をした。

だから、責めるのではないし、詮索するのでもない。

ただ、知っておきたい。

何が辛くて、悲しかったのか。

あなたの心の一番深い場所にあるものに、わたしは触れたい。ときにわたしへの「不安」を口にする彼の、その気持ちの弱さが、何に由来するのか。

わたしにはそれが断てないのか。

いつだって、これまでそれが気になって、胸に小さなしこりのようになっていたのだ。

 

見えない、影のような『彼女』。

 

「ねえ、聡ちゃん」

茶の間に戻り、両手を後ろにつき、ジーンズの脚を伸ばす彼は、他愛なくわたしを見た。真っ直ぐにわたしを向く、そのきれいな瞳。

ひどいのだろうか。

むごいのだろうか。

「あなたの、前の彼女って、どんな人だったの?」

それに彼は、一瞬凍ったように表情を固めた。

瞬きさえ、閉じ込めたように思えた。

「知りたいの。教えて」

わたしは彼の瞳を見返しながら、尚も言い募る。

何でもない声で、当たり前のようにたずねるのだ。

「ねえ、どんな人だったの?」

乾いた彼の唇が、ようやく開いた。




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