土と雨の匂いを感じながら目を閉じた
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (20

 

 

 

「ごめん、眠い」

ほどなく彼が口にしたのは、こんな言葉だった。小さく欠伸をする。嘘ではないみたい。

わたしのワンピースの裾を軽く引き、座らせる。横にると膝に頭を乗せた。問いは、彼に確かに聞こえたはず。

なのに、何も聞かなかったかのように、何気なくするりと、わたしの問いかけをかわした。

片膝を立て、手は、床についたわたしの腕をなぞるように触れる。

ぱちりと瞬き、「頭、重い?」と、彼の顔をのぞくわたしに訊く。わたしはそれに緩く首を振った。

言いたくないのだろうと、思った。

敢えて避けたのだろうと、思った。

同じ問いを重ねるのは、大人げない気がして、口ごもる。けれども、横になって、わたしの膝に頭を預けることでそれをかわす彼を、ちょっぴりとずるいと思った。

「聡ちゃんの、ケチ」

ぽつんと彼に落とした言葉。それに彼が、ぷっと吹き出すように笑う。肩を揺らし笑うので、それがわたしの身体にも伝わって響く。

「何で、そんなの聞きたいの?」

「何で、隠すの?」

「隠してなんかないよ。別に、今とは関係ないし」

彼はそう言って、わたしの腕をするりと撫ぜる。本当に、関係がないと思っているのだろうか。

散々残滓をちらつかせ、いまだ傷を引きずるような気配を見せて。

関係がないと、思いたいのだろうか。

 

何でもないのなら、わたしに感づかせたりしないで。

 

目を手の甲でこする彼を見ながら、「聞きたい」とつぶやいた。

「それで何かの参考になるの?」

彼はそんな冷めたことを言う。「つまんない話だよ」と視線を外した。

「どれくらいつまらないの?」

「…『源氏物語』くらい」

それがおかしくて笑う。

「長かったの?」

「ううん、ほんの数ヶ月」

それにちょっとだけ驚いた。何となく、長くつき合っていたのだろうと思っていたから。

わたしは彼の前髪に触れた。指に絡め、「きれいな人だった?」と問う。

なぜか彼は、瞳を閉じた。

「きれいな子だったよ」

再び目を開けたときに、わたしではない、その向こうを見るように瞳が、ふわりと泳いだ。ちょっとだけ笑う。「ふわっとしてて、生活感がない。植物みたいな感じ」と、つぶやいた。

胸の中の何かを推し量るような仕草だった。

思い出すような、大切にしまったものをそっと手に取り出すような。

そんな彼の優しいほどの気配に、わたしは、つきんと痛むように思った。

心ではなく、彼の重さを感じる膝から、それは子宮に届くように感じた。

 

「結婚しようと思ってた」

そう彼は言った。

「家に問題のある子で、それに巻き込まれて、ややこしい感じだった。傍に、頼りになる身内も、誰もいなくて…。一人ぼっちで、可哀相だった」

自分が傍にいてあげたいと思ったという。

彼はその彼女の背負う問題を解くために、あれこれ手を貸したらしい。相談にのったり、または弁護士の友人を紹介した…。

彼女の抱える問題が、彼の助力でようやく片付き始めた頃、彼女は消えたのだという。

「「あなたじゃないの、あなたじゃ駄目なの…」って、そう言われた。しばらく、立ち直れなかった」

そこで照れたように笑う。夢中になっていたのだという。馬鹿みたいだったと笑う。

「利用されていてもよかったんだ。僕に頼ってくれればいいし、助けたかった。でも、彼女に去られた後、それが頭から離れなくなった。利用価値がなくなったから、用が済んだから、彼女は僕から離れた。当然のことが、どうしようもなくきつかった」

ここまで相槌も打たずに聞きながら、わたしは、彼が利用されると感じることに、腹を立てやすいことを思い出していた。

それは、彼女が彼につけた傷なのだ。ときを経ても、それが誰かの言動で、きっとしみるように痛むのだろうか……。

みっともないけれど、と前置きをした彼は、

「仕事で、あり得ないミスもした。人に迷惑もかけた。このままじゃ、誤って、患者を殺してしまうんじゃないかとも思った…」

医者を辞めようかとも思ったという。ちょっとだけ笑い、

「こっちに帰って、みーくんの予備校に雇ってもらおうかと思ったよ」

「え、聡ちゃんが予備校の先生?」

「冗談。無理、無理。勉強なんか忘れたよ」と、やっぱり笑う。

「自慢じゃないけど、簡単になれないんだ、医者って。金も、時間もかかる。奨学金の返還も残ってるし、未練もあるし…。結局、辞める勇気なんかなかった」

それで、こっちに帰ってきたのだ。

やり直すためと、切り捨てるために。

埋まらなかった箇所を、ほろほろとピースが埋めていく。

彼の過去は、知ることで単純にすっきりとする楽しいものではなく、胸が、喉がつまるような悲しい思い出……。

問い詰めたことへ、ごめんなさいと詫びようかと思った。それが、唇を出かかった。

けれども、その言葉はちょっとそぐわないような気がした。

今、彼のきれいな瞳はいつものように、わたしに注がれ、そして和らいでいる。きっと彼は、何かを脱いだのだ。通り抜けたのだろう。

時間の作用、彼の持つ強さ、そしてそれにはわたしの存在も、確かに混じるのだ。

だから、わたしに話してくれる。

だから、ごめんなさいは、ちょっと違う。

「聡ちゃん、好き」

わたしは微笑んで身を屈め、彼の額にキスをした。

ありがとう、とささやく。

「ずっとこのままがいい」

すぐに身体を離そうとするわたしを、聡ちゃんは首に腕を回し、やんわりと抱いて止める。

「え、だってこの体勢、きつい」

「薫子の胸が当たって、気持ちいいんだけど」

「馬鹿」

身を起こすと、彼も身体を起こした。

ちょっと伸びをしてから言う。

「誤解しないで。彼女のこと、別に恨んでも、憎んでもいないんだ。助けてよかったと思うし、幸せにしていてほしいと思う」

「そう」

彼は優しい。

何となく、思った。「彼女」は、彼のこの優しさが、辛かったのじゃないのだろうか。真っ直ぐで真摯な彼の瞳を、同じ思いを抱かないままそばに受け続けるのは、心が痛んだのじゃないか…。

たとえば、傷つけたくない思いで、彼女が彼のそばを離れ、そのことで、彼はひどく傷を負ったのだとしたら…。

もしそうであれば、ひどく皮肉だと思った。

「あ、本城が前に言ってたんだけど…」

「何?」

「彼女と撮った写メをあいつに送ったことがあるんだ」

「ふうん」

「彼女の顔だけ、黒くつぶれて、なかったんだ」

「え」

彼のもらした話は、夏の夜に、背筋をぞくりとさせた。

「嘘」

「僕も見たから、嘘じゃないよ」

聡ちゃんの方のは? と訊けば、「あの後、携帯変えたから、さあ…」と言う。

薄ら寒くなるような話で、何となく彼に寄り添った。

「怖いの?」

「怖がらせようとしたくせに」

「電子的な不具合だよ、ちょっとした」

彼の腕がわたしを包む。

「僕には、君がいる」

「うん…」

いずれにせよ、今、彼のそばにいるのはわたし。

唇が重なり、彼がその狭間につぶやく。

「薫子しかいないから」と。

「君しか、見てないから」と。

それにわたしは言葉ではなく、彼の胸に置いた指先で答えた。

わたしも、あなたしかいない。

あなただけ。




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