渇いた喉が痛くて苦しい、口の中は鉄の味がする
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (3

 

 

 

敏生が浮気を認めてからも、変わらない日々をしばらく過ごした。

変わったのは、わたしがほとんど話さなくなったこと、そして彼の瞳を見なくなったこと。

嫌いになったのではない。

憎い訳でもない。

ただ、彼という人がわからなくなった。

 

「とっくに薫子が気づいていると思ってた。気づいて、許してくれるんだろうと思ってたんだ」。

 

「他の女とした後で君とすると、新鮮だろう?」。

 

どうしてそんなことが言えるのだろう。

どうしてわたしの前で、笑ってそんなことが言えるのだろう。

ハンサムで、いい大学を出ている。お洒落で、冗談も言える。全体に優しい。お給料もよくて、家柄もいい。友人に自慢のできる夫。

いいことばかり。

そういった部分だけを、わたしは見てきた。それ以外の彼を、わたしは知らない。

浮気を問い詰めたわたしに対したのは、まるで未知の彼だった。

それが、心にひやりと怖かった。

彼のこれまでと変わらない、あっさりとした様子を見るたびに、肌がふっと粟立つような恐怖があったのだ。

この人は、わたしの気持ちを考えてくれているのだろうか。

わたしが夫に浮気をされても、平気でいられる女だと、思っているのだろうか。

新築の分譲マンションと、そこでの優雅な専業主婦の生活。自由になる時間もお金もあって、気紛れにショッピングを楽しめる毎日。似たような主婦の友達とのお付き合い…。

そんなものらを与えておけば、浮気くらい、わたしが許して笑っているとでも、彼は考えているのだろうか。

口数の極端に減ったわたしに、敏生もちょっとは気まずいらしく、浮気の発覚以来、数日は早めに帰ってきた。機嫌をとるためか、ケーキの箱や、花などを手に帰って来る。

そんなものを食べる気も、飾り眺める気も起きない。ケーキも花も、翌日隣家にあげた。

 

「いい加減、陰気な顔はしないでくれよ」

ようよう敏生が焦れ始めたのが、十日目を過ぎた頃だ。

残業で遅くなった彼が、用意した一人分の夕食を、無言でテーブルに並べたわたしに向けた言葉。

「俺が悪かったよ。ほら、謝れば、薫子の気が済むんだろ?」

彼から顔を背け、ダイニングのテーブルに手を着くわたしに問いかけた。やや呆れたような響きを持つ声で。

謝ってほしいのではない。

彼のちらりとも反省の色の見えない悪びれない表情で、言葉で、上滑りな詫びを述べられても、ちっとも心に届かない。

気味が悪いばかり。

 

あなたが、わからないの。

 

わたしは、ダイニングの壁に飾ったローランサンの複製を見続けた。黙って、彼から顔を背けたまま。

いつの間にか、リビングにいた敏生がこちらに来ていた。腕を取り、わたしの顔をのぞき込む。

「今度、ほしいって言ってたバック買ってあげるから。見に行こうよ、休みに。ほら、ディオールだっけ? フェンディだったっけ?」

「要らない」

わたしは彼から視線を逸らした。

たとえば浮気を許す代償が、ブランドのバックなのなら、きっとクローゼットはそのうちいっぱいになるだろう。十年もしない間に、どんどん増える。

きっと敏生は、ほしがれば、その都度買ってくれるはず。安いものだと。それでわたしが黙るのなら、笑っているのなら…。

どうして彼は言ってくれないのだろう。わたしへの裏切りを認めたのなら、その後に当然に続くはずの言葉を。

「二度としない」と。

どうして彼は決して口にしないのだろう。

 

どうして?

 

ひりひりする喉から、かすれた声で、わたしは久しぶりに彼へ問いかけた。

「どうして敏生は、浮気はもうしないって、言ってくれないの? どうして?」

彼はそれに小首をちょっと傾げた。目をぱちりと瞬いて、

「嘘はつきたくない。俺はきっと浮気はする。ただ、それはあくまでも、浮気なんだよ。薫子が一番。それが証拠に、毎日帰ってくるし、君の機嫌が悪いと、何か居心地悪い。俺は浮気の相手にバックだの、花だの贈ってないよ。彼女らは、単なる気晴らし」

笑みを浮かべる彼に、わたしは訊いた。

「寝るだけ?」

「そう、寝るだけ」

軽い彼の口調に、ぞっとする。本気でこの人は、そんなことを口にしているのだろうか。

身体だけの、気紛れな関係を持つだけなのだから、わたしが平気だと。知らない女を抱いた後で、「新鮮だから」と、彼はわたしを幾度抱いたのだろう…。

めぐらせた嫌な想像に、芯からぞっとする。

唇を噛み、黙ったままでいると、彼がため息をついた。

「うちの父親なんか、芸者とよく浮気してたけど、ママは少しも慌ててなかったけどな。男の甲斐性だって言ってさ」

がっかりだと、続ける。

「まあ、薫子にママのような肝の据わったことは、期待してなかったけど。あんまりうるさいことを言わないでほしいな。君は今のまま、可愛くしておとなしく、機嫌よくしてたらいいんだよ」

可愛くして、おとなしく……。

それが、彼が、わたしを選んだ理由なのだろうか。七つ歳下の彼に従順な、おとなしいわたし。

浮気を機嫌よく、プレゼントで許すわたし。

「わからないな、どうしてそんなにふくれているのか」

敏生の声。当たり前の、あっさりした口調。

わたしだって、あなたがわからない。

わたしの心に気づきもしない、あなたがわからない。

 

目が覚めたのは、唇に触れる感触だった。

肩を抱く腕の力に瞳を開けた。気づけば、わたしのベッドに彼の姿がある。

「何?」

「久しぶりだから、したい」

彼の生温かい吐息が耳にかかった。指が髪と首に滑り、わたしのパジャマのボタンを外していく。

とても、そんな気分にはなれない。彼に、ただほんのり触れられるのすら、今は嫌悪感がある。

「嫌、止めて」

「止めない」

振りほどこうとするわたしの手首を、抗えないよう、彼がしっかりとつかんだ。

よく知っているはずの、彼の愛撫。肌に彼の指が下着へ這うのに、言いようのない拒絶感がある。

「嫌だって…」

幾度もこの腕は、指は、知らない他の女の肌に触れた。その気味の悪い事実が、わたしの身体を閉じさせる。

抱かれたくない。

触れられたくない。

「嫌っ」

首を振り抵抗するわたしに、どうしてか彼は笑った。

「こういうのも、新鮮でいいな」

わたしの抵抗を煽るかのように、彼は唇に笑みを浮かべながら、荒く乳房を剥き出しにする。そのとき、びりり、とキャミソールの繊維が破れる音がした。

「後ろ向いて」

「嫌、止めて敏生。お願い……」

ねじ伏せるように力で組み敷かれ、ショーツを剥がれた。後ろ向きになったわたしの肌に、荒い息と舌、指が伝う。

「嫌、止めて」

愛撫ともいえない性急でおざなりなもの。背後から強引に貫かれる感覚、その痛み。痛みを伴うそれらに、わたしは自分の頬がぬれていくのを感じた。

 

早く終わって…。

 

早く。

耐えるのに、わたしは頬の内側をきつく噛んだ。噛み過ぎて、血の味がする。

夫にレイプされるということ。

それが、ひどくわたしの心を凍らせた。

この人と、もう一緒にいられない。

別れるのだ。

 

心のわからないあなたから、離れたい。




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