君という水に誘われたのは、蛍ではなく、僕だった
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (21

 

 

 

ゆりが、お舅さんから夕べ、我が家にパトカーが停まっていたのを聞き、朝まだ早い時間に様子を見に来てくれた。

きりっと髪を纏め上げ、化粧前の透明な肌のままの彼女は、粗方わたしが説明をすると、ほっと息をついた。

「夕べのメールじゃ、『大丈夫』てあったけど…」

下着泥棒の件もあるから、心配したのだという。

「うちに電話くれたらよかったのに。すぐにでも、喬さんに行ってもらうのに」

「ありがとう。でも、聡ちゃんに電話したら、仕事の後で寄ってくれるって言うから…」

「ふうん」

玄関のたたきに座るゆりは、わたしの肩越しに奥を覗き込む。何が見えるのか、ぷっと可愛く吹き出し、

「薫子の『聡ちゃん』、すさまじく寝相が悪いのね」

と笑った。「え」と振り返ると、開け放した和室の襖から、廊下に彼のジーンズの足がのぞいている。

「もう、どんな寝方してるのよ」

わたしも苦笑がもれる。

夕べはあのまま泊まってもらった。朝方早くに帰ると言っていたのに、まだ起きない。起こすのも可哀そうで、ぎりぎりまで寝かせておいてあげようと思う。

ゆりが帰った後、きんと冷えた和室のエアコンを弱め、そおっと彼の足を畳みの上に戻した。それでも起きない。長い睫毛の瞼をやや動かしたものの、ぐっすりと眠り込んでいる。

疲れているのかな、と思う。

夏に入って水の事故が増えた、ともらしていた。それから、夏休みのせいか、夜間の交通事故も多いのだという。

軽症者から重傷者、救える場合、そうでない場合…。彼の職場には、痛みを抱えた人々が次々と訪れ、目まぐるしく日々が動いているのだろう。

夕べの彼の言葉が、ふと甦った。彼は、「自慢じゃないけど」と前置きをして、医師が簡単になれる職業ではないと言った。

誰もが就ける仕事でないことぐらい、わたしにだってわかるつもりだった。

でも、現に彼の口からそう聞けば、その言葉には、ふっくらした厚みと意外なほどの重みを感じたのだ。

積んできた努力と経験、それゆえのほのかな自信…。

きっとそんなものらが、聡ちゃんが「自慢じゃない」と敢えて言わずとも、嫌味なくにじんだはず。

きれいな寝顔を見せて眠る彼を、ほんのしばらく見つめる。

とっくにあらぬ方へ追いやったタオルケットを体に掛け、襖を閉めた。

おいしい朝ご飯を作ってあげようと思った。

 

 

わたしが襲われかけた事件は、あっという間に町に広まった。

女性の注意を喚起するために、町内会でも、名を挙げずに回覧板などを回したせいもある。

『フード・デリバリ』の仁科さんも、どこで聞きつけたのか、配達の日でもないのに現われた。「とにかく、無事でよかったですよ」と言う彼は、この日、小さな女の子を連れている。

彼女にケーキを注文してやり、「別れた妻との間の子ですよ。夏休みだから、こっちに遊びに来ているんです」と、目を丸くするわたしと咲子叔母さんに説明した。

行儀よくケーキを頬張る可愛らしい茉莉ちゃんを、優しいパパの目で眺めながら、彼は事件の話を振った。

「それで、親が菓子折りを持って?」

「ええ、訴えないでくれって、向こうの父親が…」

事件の翌日には、あのクラタヨウイチの父親が我が家に現われた。会社を経営するという彼は、応じたわたしと母の前で、提訴だけはしないでほしいと土下座までして頼んだ。

立派な紳士にそうまでされては、居心地も悪くなる。大事に至らなかった訳でもあるし、曖昧に「はい」と言ってしまった。

大の大人が泣きながら「まだこれからの、息子の将来を」とすがり、哀願するのを聞くのは、被害者といえど堪らない。

警察からは、聡ちゃんが示唆したように、彼の犯行はわたしの件だけではないようなことをほのめかされた。「しかし、何分、女性側の申し出がない限り、立件は難しいでしょうけれどね」とも。

そんな風なことを説明すると、仁科さんはちょっと眉を寄せた。

「それじゃあ、罪に問われないかもしれないんですか? それはちょっとおかしいですよ」

叔母は彼の言葉を受け、にんまりとわたしを見ながら、

「それでこの子、彼を怒らせたのよね。そりゃ、現行犯で捕まえた柏木くんにしてみたら、面白くないわよね」

「だって、あんな風に泣いてすがられたら、本当に弱っちゃったのよ」

正直、早くけりを付けてしまいたい問題でもあったし。

それらを告げると、聡ちゃんは「君だけの問題じゃない」と怒ってしまった。これで大事にならずに済んだら、味をしめ、少年はまた犯行を繰り返すと、彼は言うのだ。

それを言うと、仁科さんも、聡ちゃんの意見に賛成だと言う。

「子が子なら、親も親だ。まずくなったら、とにかくなりふり構わず詫びれば済むと、勘違いしているんでしょうね。間違いなく、ほとぼりが冷めたらまたやりますよ、そういった手合いは。親が、幾らでも後始末をしてくれるんですから」

「お金は受け取ってないの。いきなり小切手を持ってこられてびっくりしたわ」

叔母が、「サン、ビャク、マン」と、区切って仁科さんに告げる。

彼はほお、と感嘆し、

「受け取らなくてよかったですよ。金でどうとでもなると見くびられては、堪りませんからね」

ケーキを食べ終わった茉莉ちゃんが、大人の話にそろそろ焦れ出し、仁科さんは彼女を抱き上げて帰って行った。

午後はぽつぽつとアイスティーが出る。朝作ったレアチーズケーキも、ほぼ完売してしまった。

わたしは手が空くたびに、エプロンのポケットの携帯を確認した。変わりのない表示に、ちょっとため息をつく。

彼からのメールは届いてない。

訴えを行わないことに決めたと告げた日から、聡ちゃんはメールをくれなくなった。

彼は案外そういう面がまめで、簡単でも連絡を必ずくれる。会えない日でも、つながっている感じが嬉しい、わたしたちの日課だった。

つき合い出してから、毎日あったそのメールなり電話のやり取りが、ふつっと途切れた。

今日で丸三日になる。

『怒ってるの? でも、わたしの気持ちも考えて』

そう送ったのに、メールの返事がない。

彼の空いている時間に、電話をしようかとも考えたけど、わたしも少し意地になってしまって、できないでいた。

あの父親の、芝居がかったほどの鬱陶しい懇願を長々と見せつけられた。しかも訴えるとなれば、あれこれ何度も細かな証言をしなくてはいけないのだ。

身体のどこをどのように触られたのだとか。どこまで事が及んだのだのだとか…。証拠物件として、あの口に押し込まれた、盗まれたショーツの提出もある。

繰り返すのだって恥ずかしく、嫌で、苦痛なのだ。

それを聡ちゃんは、ちっとも考えてくれない。

ただ、今後の再犯を防ぐためと、他の被害に遭った女性の救済にもつながる可能性がある、とそんなことばかり。きれいごとばかりだ。

それは正しいことなのだと、理解はできるけれど、少しはわたしの気持ちもくんでほしい。

そんな思いがあって、電話をかけようと思う気持ちが削がれてしまうのだ。

聡ちゃんだって、思いやりが足りない。

言い方だってあるはず。「薫子の気持ちはわかるよ、でも考えて〜」とか、「嫌な気持ちは、すごくわかるけど〜」とか、優しい温和な表現が。

頭ごなしの、「おかしいよ、薫子の考えは」じゃなくて。

そんなことを考えていると、唇を噛んでいたようで、叔母に笑われた。わたし腹立ち紛れに、彼女に彼のことを愚痴った。

「あんたと柏木くんって、くっついたり離れたり、大人げないわね」

などと、叔母は面白がっている。

大人げないのは、聡ちゃんの方。わたしより六つも年上のくせに。

わたしの少し尖らせた口に、ケーキの飾り用に切ったフルーツの余りを一つ押し込み、

「お互い好きなくせに、変な意地張って」

と言った。「悔やまないうちに、余計な意地は引っ込めなさいよ」、と付け加える。

「それ、わたしじゃなくて、聡ちゃんに言ってほしい」

噛みしめたグレープフルーツの果汁が、口いっぱいに広がる。その軽い渋さに唇をすぼめる。

ちょっと渋くて、だけど甘い。何だかわたしたちの恋のような味。

 

 

店が終わった後、天気がよければ、夜は蛍を見に行くことになっていた。

しっとりと湿気のある夏の宵が始まる頃、約束通り、わたしは浴衣に着替えた。

髪をまとめ上げ、ヘアクリップで簡単に留める。少し襟足辺りにほつれるけれど、構わないでおく。

花滝温泉の町を貫く渓流のやや川上に、蛍がたくさん見られる場所がある。それを見に行こうと、いつものメンバーで集まることになった。

これには裏の話があって、本城さんのための企画なのだ。

小早川さんが、先日『花の茶館』に来たときに、

「菫ちゃんと今一つ進展に欠けるから、何か考えてくれって、本城に頼まれてるんだけど…」

と、頭を悩ませていた。ストレートに迫るには、本城さんはあれでかわゆくて、なかなか行動に移せないという。

ちょうど居合わせたゆりが、「蛍を見に行くのは?」と提案し、とんとん話が決まった。

女の子はゆりと篤子ちゃんに菫ちゃん、そしてわたし。気分が盛り上がるから、浴衣にしようと決め合った。男の人は喬さんに小早川さん、もちろん本城さん、そして聡ちゃん。

食事の後で、ぶらぶらと歩いて川上まで行って、蛍を見た後は、喬さんのお宅お邪魔して、飲んだりすることになっていた。

ゆりを手伝いに家まで行き、先に、一緒に飲む仕度を整えておく。

キッチンには包んだ重箱があった。ゆりがハムの切れ端をくわえながら、

「篤子ちゃんが持ってきてくれたの」

篤子ちゃんが忙しくなる前に顔を出し、旅館『花のや』の板場に頼んでおいた折り詰めを持って現われたのだという。中をちょっと見ると、華やかな色合いの料理が、おいしそうに詰まっている。

九時ごろにぼちぼちと人が集まった。

小早川さん、本城さん、そして篤子ちゃん、菫ちゃん。彼女たちもそれぞれ淡いピンクとブルーの浴衣を着ていて、小柄な二人が並ぶと、お人形のようで、とっても可愛い。

ゆりがこっそりと、

「あの二人は、年下好きには堪んないわね、確かに。見てよ、小早川さんと本城さんの顔」

と、さすが趣味のチェックは怠らない。

「ほんと、めろめろって感じ」

どっちの表情も、優しさ満開といった嬉しそうに目許が緩んでいる。

そろそろ時間で、出かけることになった。

聡ちゃんは現れない。元々、『ごめん、遅刻必至』とメールがあったという。わたしではなく、喬さんに。

「聡、場所知ってるかな?」

「わかんなかったら、電話するだろ」

来たくないのかもしれないし、来ないのかもしれない。

本城さんはお目当ての菫ちゃんの隣りで、彼女の浴衣姿を褒めたり、機嫌を取り結ぶのに、あれこれ忙しい。

小早川さんは、篤子ちゃんと深刻な話をしている。

「実家のお母さんが、二世帯住宅を建てるから、一緒に住んでほしいって…。どうしよう、先生?」

「え…」

こんな場所でする話題でもないだろうに。小早川さんは、すっかり弱ったように、頭をかいている。確かに篤子ちゃんは、筋金入りの天然さんらしい。

わたしのちょっと前を歩く喬さんとゆりは、ときにわたしに話題を振ってくれる。

「聡、いつも遅いの?」

喬さんの問いに、わたしは「忙しいみたい」と、曖昧に笑った。

聡ちゃんの勤務の時間が合えば、今度四人でどこか遊びに行こうか、誘ってくれた。

それにゆりが、

「あ、わたしうなぎ食べに行きたい。天然の」

「へえ、いいな。うなぎか。薫子ちゃん、うなぎ、大丈夫?」

あんまり得意じゃないけど、ひつまぶし程度の量なら、食べられる。「うん、大丈夫」と答えた。

「柏木さんは?」

「聡は食うだろ、きっと」

そんな話をしながら、川上まで歩いた。

 

ちょうど、あやとりの橋のようなデザインの橋のたもとを、石の階段を降りて行く。かんかんと女の子が履く下駄の音が響く。

観光客の姿もちらりと見られた。宿泊する旅館の浴衣を纏った人々とすれ違う。温泉に浸かった後の夕涼みには、ちょうどいいのかもしれない。

渓流とは岩で別れた草むらがあり、小さな流れが生まれている。そこに蛍が現れるという。

階段を降りる途中から、澄んだ川の水の流れる匂いが漂ってきた。

慣れない下駄履きで足元が覚束ない。照明も少なく、ほとんど下は真っ暗と言っていい。

ペンキの禿かけた手すりに手を添え、ゆっくりと降りる。

泳いだ左手、空いたわたしのその手を、不意に誰かがつかんだ。

「あ」

小さく声を上げ、隣りを見ると彼がいた。

ヘンリーネックのTシャツの彼が、わたしの手を握り、そこに立っていた。

足元の暗い階段に気を取られていたのか、彼がいつ現われたのか、気がつかなかった。

つないだ手を、彼はちょっと引いた。簡単に、わたしの身体は傾いた。

ワッフ地の彼のTシャツが、頬に当たる。ふんわりと日なたのにおいがする。

メールを返してくれなかったこと。わたしを放っておいたこと。気持ちをくんでくれなかったこと……。

彼に告げたい文句はあるのに。

触れた腕に、その温もりに、他愛なく喜んでしまうわたしがいる。

前を歩く喬さんとゆりが、振り返らない間に、彼はささやいた。

「怒ってる?」

わたしは唇を噛んで、返事をしなかった。

「ねえ?」

彼がささやく。

「意地っ張り」と。

「それは聡ちゃんでしょ」

わたしもささやき返した。

それに彼は低く返す。つないだ左手が、急速に絡む。

「……我慢の限界。会いたくてしょうがなかった」

わたしはまた黙った。最後の階段を降り切る。ぷんと緑の草の匂いが立ち込める。

そこには点々と、既に蛍の放つ光がもう見て取れた。暗闇に浮かぶ柔らかな光の粒の群れ。ときに灯り、ときに止む幻想的なそれに、誰もが見入った。

突然現われた彼に気づいた皆が、びっくりしたように声を上げた。

「何だよ、聡。びっくりさせるなよ」

「いつ来たの?」

それらに彼は、いつものように、どこか爽やかに笑った。

「今来たとこ」

彼と、きついほどに手がつながれている。

蛍の光に目を奪われる素振り。

彼が友人と交わす言葉。

その狭間に、絡めた指に、少し痛むほどに感じている。

彼の気配と自分のそれと、温い空気と、儚いほどの蛍の光の中で知る。

 

会いたかったのは、わたしも同じ。

 

胸が迫るほどに、あなたを求めていた。

わたしたちは指を絡めたまま、ごく自然に、当たり前のように蛍の光を見つめ続ける。




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