意図的に巡り会えたなら
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (22

 

 

 

交わす言葉はない。

つないだ手と、その先の指が絡むばかり。

「うなぎ? 食べれるよ。何?」

ゆりの問いかけに、聡ちゃんは答えている。今度、皆で天然のうなぎを食べに行こうという喬さんたちの誘いに、彼は「いいよ」と頷いた。

いつ頃がいいとか、どこまで行くのか、または車はどうしようか…、など。闇に浮かぶ蛍の小さな光の前で、遊びの予定を話し合っている。

篤子ちゃんは、手のうちわで蛍に風を送っている。それでぴょんぴょんと蛍の光が跳ねた。

蚊に刺されたと、菫ちゃんの声が上がった。そんなことに、おかしなくらい慌てる本城さん。

うなぎの話を振られ、小早川さんは「あ、僕パス」と逃げた。うなぎは苦手だという。

ふと、何でもないような声で、聡ちゃんがわたしに訊く。

「薫子は、うなぎ好き?」

それが、ちょっと頭にかちんときた。

特別な言葉もなく、当たり前のように腕を取って、引き寄せた。指を絡め、これまでのようにあっさりと問うのだ。

何もなかったみたいに、それでかわそうというのだろうか。

わたしがうなぎを好きかどうかより、他に訊くこと、言うことがあるはずなのに。

「聡ちゃんよりは、好き」

そう言った後で、下駄の足で彼のスニーカーを思い切り踏んでやった。

「痛っ…」

彼は踏まれた足を、痛みを誤魔化すためか、ちょっと前後に振っている。足を戻し、小さな声で、

「怒ってる?」

「さあ、…知らない」

戻るとき、わたしは彼の手を外そうとした。目も慣れて周囲がおぼろに見えるようになったし、ちょっとばかり彼が腹立たしかったし。

するりと、結ばる指を抜こうとした。

「あ」と思うほどに、その瞬間に強く掌を握られた。

「聡ちゃん…」

彼はわたしを見て、つないだ手を引く。

「暗いから、気をつけて」と。

「…うん……」

彼は態度で示してくれる。

わたしへの気持ちも、その強さも。真っ直ぐに、態度でくれる。

でも、言葉もほしいと思うのは、わたしが贅沢なのだろうか。わがままなのだろうか。

望み過ぎているのだろうか。

おかしい。

敏生のときは、彼の真剣な態度がほしいと思った。浮気などしない、わたしだけに気持ちを向けてくれる、言葉ではない、その姿勢がほしいと思った。

なのに、この真っ直ぐに態度で気持ちを伝えてくれる聡ちゃんには、言葉がほしいと感じたりしている。

「好き」、「薫子だけ」じゃない、別の、わたしの心のひだにまで届くような、そんな繊細な言葉がほしい。

きっとそれは、胸にしみて、じゅんと広がる。わたしのほんの芯の部分まで染めるように満たしてくれる。きっと……。

やっぱり、それは贅沢なのだろうか。

思い上がっているのだろうか。

一度、あなた以外の人の妻になったわたしは、多分それ故の経験で、こんなことをあなたに望んでいる。

それは、間違っているのだろうか。

 

蛍の後の飲み会の帰りに、彼は当たり前にわたしを送ってくれる。「車で来たから」と、彼はお酒を飲まなかった。

車に乗った途端、「ああ、早く帰って、ビールが飲みたい」そんなことをもらす。

皆の前では、気まずい今のわたしたちの雰囲気を引きずるのは、あまりに大人げない。さりげなくは振舞っていた。隣りに座りながらも、あまり目も合わさず、言葉も交わさなかったけれど。

菫ちゃんが可愛い顔に似合わず、「お父さんの水虫が感染ったかもしれない。何だか足の指がかゆいの」と、神妙な表情で、疑問を彼に投げたのが、おかしかった。

「バスマットで感染るって、テレビでやってたの。本当? 柏木さん」

突然のそれに、彼は口の物をふき出しそうにしていた。

「…そうだけど、大丈夫。万が一感染っても、今はいい薬があるから、治るよ」

笑いをかみ殺しているのか、語尾が震えているので、笑いそうになった。

「でも、お医者さんに、わたしが水虫だって思われるのが嫌。男の先生ばっかりで、恥ずかしい」

この場で水虫の可能性をさらす方が、遥かに恥ずかしいのじゃないだろうか。篤子ちゃんに劣らず、菫ちゃんも天然さんであるらしい。

そんな菫ちゃんを、にこにこ眺めていた本城さん。彼にとっては、その言動全てがかわゆいのだろう。水虫は、関係なく……。

車を走らせながら、何となく思い出すのか、

「本城と菫ちゃん、上手くいくのかな」

彼がつぶやいた。

「あのとぼけた様子じゃ、もしかしたら彼女、本城の気持ちに気づいていないかもしれないな」

「そうね」

「いい奴なんだけどな、あいつ。面白いし…」

会話が途切れた。

そろそろ自宅で、わたしは窓の外を眺めた。このまま別れて、また気まずいものを引きずって過ごすのだろうか。

彼は何も言わないし、わたしも切り出せないでいる。

咲子叔母さんの言葉が甦る。胸に痛い。「後悔しないうちに、余計な意地は引っ込めなさいよ」。

その通り。

簡単な言葉も口にできず、ぐずぐずとためらう自分をひどく子供に感じた。

歳ばかり重ねて、経験ばかり増えても、わたしは、まだこんな些細な問題の前でうろうろと、自分を持て余している。

「聡ちゃん…あの」

窓を見ながらつぶやいた。

後悔しないうちに。

気持ちを伝えないと。

もう、家に着いてしまう。

「あの……」

「ごめん、メールしなくて」

彼がぽつりと言った。それが言葉を導くように、ほろほろと彼が話し出す。気持ちを教えてくれる。

わたしが例の事件の訴えを止めたことが、理解できなくて、いらいらしていたこと。

だから、メールを返さなかったこと。「喧嘩になりそうで、怖かった」ということ。

「薫子は、僕の言うことが理解できないと言うだろうし、僕は君の考えが理解できない…」

「わたしは、聡ちゃんの言っていること、納得できるの。正しいんだって。でも、いろいろあるし…、嫌な気持ちとか、不快だとか…、それを、聡ちゃんは、ちっともわかってくれないんだもの。頭ごなしに「おかしい」って。…ひどい、襲われかけたのは、わたしなのに……、ひどい」

聡ちゃんのは、理解できないじゃなくて、理解しようとしていない。

本当にレイプされたのじゃないから、平気だとでも思っているのだろうか。大したことじゃないって。

ちょっと唇を噛んだ。

家に着いた。とっくに家内の明かりは消えている。母はわたしに構わず、既に眠ったようだ。

わたしはドアのレバーに触れた。

彼が言うように、確かに、このままじゃ喧嘩になりそう。

言わなくてもいいことを口にしそう。きれいごとばかり偉そうに並べないでとか。関係ないけど、彼のお母さんが飼う「ヤンさま」の躾がなってないとか…。

「おやすみ」

「薫子」

彼の手がわたしの手を引いた。「帰したくない」と言う。

「聡ちゃん…」

彼はわたしを引き寄せ、そのまま抱きしめた。吸わない彼のシャツから、誰かの煙草の匂いがうっすらと香る。

「君だから、うやむやにしたくないんだ。他の誰かだったら、こんなこと言わない。薫子を襲おうとした奴だから、許せないんだ」

「え」

それは全くの予想外の言葉で、わたしは何も言えなかった。

彼は社会的な道義上のことで、わたしに腹を立てているのだと思っていたから。わたしが個人的な理由で、事件を表沙汰にしないようにしたことが、彼の考える正義とは相容れなくて、気に入らないのだとばかり……。

「ごめん……、僕はずっと、それが頭にきていたんだ。簡単にあいつを許す君が、理解できなくて、腹が立って……」

もちろん、再犯を防ぐためもあるし、被害に遭った女性の救済につなげる

ためでもある。

でも、真ん中にはわたしが襲われかけたことへの怒りがあって、だから、犯人を許したくないのだという。

彼の言葉は、鮮やかに胸にしみた。

それは感ずるほどに熱を持ち、広がって胸いっぱいに満たしていく。

わたしは目を閉じながら、彼のシャツからやっぱり香る、日なたの匂いを感じながら訊いた。

「どうして、それを言ってくれなかったの?」

「言ったよ、最初に。「君だけの問題じゃないって」、覚えてる?」

ああ……。

「君だけの問題じゃない」と、確かに彼は言った。わたしはそれを、社会的な意味だと捉えた。

だから、わたしを思いやってくれない彼に、腹が立って、意地を張って……。

彼の足を踏んづけた。

黙ったままのわたしを、彼はどう思うのか、

「思いやりが足りなかったのなら、ごめん、謝る。でも、全く自分だけの問題にしてしまっている君が…ちょっと、憎らしくて……」

「だって、聡ちゃん、いつもデリカシーがないもの」

嬉しいくせに、彼の腕の力にときめいているのに、わたしはまだこんなことを言っている。

「いつもって、ひどいな。これでも、懸命に考えているのに。…薫子には、物足りないかもしれないけど」

「ごめんなさい」

 

今の聡ちゃんで、十分。

 

わたしが勝手に耳を塞いで、あなたを悪者にしていたのだ。無神経だとか、デリカシーがないとか、意地っ張りだとか……。それは幾分、当たってはいるけれど。

彼は警察なら、自分も一緒に行くと言ってくれる。ずっとそばにいるから、と。

「ねえ」

彼の声にわたしは小さく頷いた。

彼はそれに「ありがとう」と言う。それを言うのは、きっとわたしの方なのに。優しい彼。

「ありがとう、聡ちゃん」

その優しさに、わたしは甘え過ぎないようにしよう。

当たり前に思わないように。

媚びたりしないで。

あなたに、ずるい女でいたくないから。

「僕の薫子だから」

髪に感じる彼の指。それがつるりと頬に流れて、キスに交わるのだ。

仲直りはこんなにも他愛ない。

絡んだ唇に、あっさりとわだかまりも溶けて、ふっくらとした幸福感が胸に押し寄せる。

「ねえ、言っていい?」

やや離した唇で、彼がささやく。

「何?」

「薫子の浴衣、すごくそそるんだけど」

脱がせたくなる、と彼は小さく笑う。こんなときまで、彼の声は何だか透明に響く。

「馬鹿」

けれども、別れがたくて。離れがたくて。

わたしたちは長く口づけて、抱き合ったままでいた。

 

 

咲子叔母さんの店を出たのが、いつもの午後六時半頃。

自転車のペダルを漕いで、家に向かう。

今夜は彼と会う日だった。

着替えて、髪を直して……、母にご機嫌を取るつもりで、好きな散らし寿司の用意もしてある。うるさくは言わないけれど、外泊をする日は何だか、ちょっぴり後ろめたいから。

急いで帰り、夕飯の仕度を整え、身支度を終えた。座敷で、いまだ次の会のために三味線をさらう母に声を掛けた。

「お母さん、わたし出かけるから。朝言ったけど、泊まるの、聡ちゃんのところに」

「はいはい。聡ちゃんでも、あっちゃんでも好きな方へ」

母はやや眉を上げ、からかうのか、そんなことを言っただけだ。

「止めてよ、「あっちゃん」は咲子姉ちゃんの」

「あら、そう?」

「じゃあ、行くから。ご飯、作ったから食べてね」

携帯で時刻を確認しつつ家を出たのが、午後七時半過ぎだ。既にうっすらと暗い。

花滝温泉の入り口にある公園前のバス停まで、小走りに歩く。これならちょうどいい時間にバスが来るだろう…。

しゃわしゃわと虫の音がする。近道の公園の駐車場を横切るところで、不意に声をかけられた。

「薫子」

ぎょっとしたが、すぐそれを、聡ちゃんだと思った。

彼の勤務明けは十時だと聞いたが、何かの都合で、早く上がれたのだろうと思った。そんなこともあるのかもしれない。それでわたしを迎えに来てくれたのだろうと。

だから、不用意に振り返った。声のする方へ。

そこにいた人に、わたしは自分の目を疑った。

見間違えようのない姿と知り過ぎるそのシルエット。

彼ではないその人に…。

どうしてここにいるのかに、わたしは声も発せないほど驚いた。

ベージュのパンツにストライプのシャツを合わせた敏生は、ちょっとだけ笑みを唇に浮かべ、ごく自然に、もう一度わたしの名を呼んだ。

「薫子」と。

そして、あっさりと言葉をつなぐ。

「君を迎えに来た」




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