ファイティング・ガールの憂鬱
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (23

 

 

 

久しぶりに会う敏生は、髪が少し伸びていた。

前髪と耳元に遊ぶ髪が、わたしの記憶よりもやや長い。

薄いブルーにグレーのピンドット・ストライプのシャツ。その胸のポケットには、コンタクトの苦手な彼が、ドライブ中にかけるほっそりとしたタイプの眼鏡が、フレームをのぞかせている。

手を腰に当て、あっさりと笑う。ハンサムなその笑顔は、かつてわたしが友人に密かに誇らしく感じていたものの一つ。

スマートな挙措だとか、彼の持つもの慣れた雰囲気。腕を組んで歩くことに、優越感すら抱いていた。

こんな素敵な彼が、隣りに置くのはわたし。妻に選んでくれたのは、わたし…。

そんな、今とは色合いの違う幸福感を、敏生は確かにくれた。

 

一時の驚きが去ると、わたしは彼の突然の出現が不審で、眉を寄せた。声が尖っていたと思う。

「何をしてるの?」

彼は歩を進め、わたしとの距離を縮めた。手を伸ばし、バックを持たない方の手を取った。

「言ったろう? 君を迎えに来た」

そんなことを当然のように言い、彼はわたしの手を引く。乗れということか、顎で示した先には、見覚えのあるワインカラーのRV車が停まっている。

「何、言っているの?」

わたしは、彼の手を振りほどこうとした。指が離れる瞬間、彼が言葉を放った。

「ママが脳梗塞で倒れた」

「え」

元姑は、寝たきりの状態で、夏の酷暑の中、どんどん気も滅入り、衰弱していっているのだという。

そして、弱くなった心で、離婚の際にわたしに対して取った態度を悔やんでいると、敏生は言う。

「君のあの若い叔母さんから言われたことが、よほど堪えたらしい。薫子には責任がないのに、随分と冷たくあしらってしまったと、ママには珍しく、くどくどと繰言を言っているんだ」

敏生は、ぽつりと付け加えた。

「夏一杯、もたないかもしれない」

だから、見舞いに行って顔を見せてやってほしいと言う。わたしを前にきちんと詫びれば、胸の整理がつくのだと、会わせてくれと、息子の彼にねだったらしい。

「どう? まんざら知らない仲でもないんだから、会ってやってくれないか。このままママが死んだりしたら、君だって寝覚めが悪いんじゃないか?」

「知らなかったら、寝覚めも悪くなかったわ」

それに、彼は唇の端を上げて笑った。会わない間に気が強くなった、とでも思っているのだろう。

「今からなら、高速を飛ばせば二時間弱だ。ちょっとママの相手をしてやってくれたら、帰りはまたここまで俺が送る。ぎりぎり、今夜一杯には帰れるだろう」

「あなた、仕事は?」

それに答えずに、別のことを訊ねた。訊ねながら、考えているのだ。行くべきなのか、そうでないのか。

あの気丈でつけつけとものを言う元姑が、寝たきりになったことに、少し胸を打たれた。いつだって圧倒されるほど元気で、料亭を切り盛りし、更に息子夫婦を支配するほどの余力のあった人だ。

敏生は夏休みだと答えた。彼の勤める会社は、毎年大型の夏季休暇をくれる。

「ああ、そう…」

「だから、俺のことは気にしないでいい。明日も時間は自由だから」

「気になんて、していないわ」

「やれやれ、気の強い女になったもんだ」

わたしはしばらく考えた末、頷いた。最終の新幹線の時間までなら、つき合うと告げた。

帰りを、彼に送ってもらうつもりなどない。彼は「十一時台にあったな」、とつぶやいた。

随分ぶりに、彼の隣りのシートに座った。シートやハンドルに張られた革の匂いがする。懐かしいその匂い。閉じられた二人の空間に、おかしなほどの違和感が包んだ。

ここは間違いなく、わたしの場所だったのに。

エンジンをかけ、彼がゆっくりと車を走らせ始めた。わたしはバックから、携帯を取り出し、手早く聡ちゃんにメールを打つ。

『ごめんなさい。用があって、会うのが遅れます。夕ご飯、済ませて。

また、連絡します』

送信を完了し、携帯をしまう。疑問に感じていたことを敏生に訊ねた。

どうしてあんなにいいタイミングで、彼がわたしを見つけられたのか、ずっと気になっていたのだ。

それに敏生は当たり前のように、

「薫子の家に電話しただけだよ。お母さんが出て、簡単に教えてくれた。名乗らずにいたら、俺のことを、誰かと勘違いしたみたいだったな」

こんな風にした、と彼はハンドルから手を離し、ちょっと鼻をつまんだ。

「『ソウちゃん』て、誰?」

母は敏生とそう電話で話したこともない。声を覚えてはいないのだろう。だからあっさりと、聡ちゃんと彼を間違えるのだ。

わたしは彼の問いに答えなかった。

窓を眺め、早く時間が過ぎればいいと思った。

 

三ヶ月程度。

それでも時間というのは大きな作用を持つもので、わたしは隣りの敏生に、以前のような憎しみめいたものを、もう抱いていないことを感じる。

最後に彼から受けた、思い出すのも惨めな悔しい記憶も、心の奥に眠り、こんなにそばにいながら、腹立たしくもないのだ。

それは彼との共有する未来がないから。接点などもう持たないから。

だから、わたしはこんなにも静かな気持ちでいられるのだろう。

ドライブの途中、彼が気を利かせてサービスエリアで買ってくれたコーヒーを飲んだり、三年の結婚生活の中で、幸せだった頃の思い出を話し合ったりした。

新婚旅行の話、そこでのちょっとしたドジ。またはバリ島に行った際の、うっとりとするような夕景のこと…。

そんなことを彼と話す分には、一向に構わなかった。

その心の強さは、時間だけがもたらすのではない。

敏生ではない別の彼とのこれからを、わたしは持っているから。

忙しい日常に、周囲の暖かな人々。

ささやかで、けれども幸せに満ちた日々をわたしは持っているからだ。

だから、今、こんなにも穏やかでいられるのだろう。

見覚えのある防音壁が目に入る。その狭間に、びっしりと建ち並ぶビルと家屋が垣間見える。

「もう、着くよ」

運転の疲れなど見せずに、彼はちらりと視線をわたしに向けた。

「ママが、変なことを言ってたんだ」

「何?」

「薫子に、自分の帯をやりたいって。若い頃に使っていたものらしい。よかったら、もらってほしい」

「そんな…、もう他人なのに、いただけないわ」

「形見の品のつもりなんだろ」

これからついでに千里のマンションに寄って、それを取ってくるという。

「でも、やっぱり…」

「薫子がもらってくれない方が、ママは悲しむ」

相手が退くと、わかりきっている、傲慢さののぞくちょっとした強引さ。敏生は少しも変わらずに、わたしにそれをさらす。

「ね、いいだろう?」

かつてわたしが、彼にこれといって逆らったことがなかった頃のように。彼に嫌われないように、彼の好むように振舞っていた頃のわたしのように。一瞬、彼の視線と、声の甘い強さにたじろぐのだ。

落ち着いたはずの、静かだった気持ちが、それでざわざわと揺れる。

馬鹿みたい。

「君が見て、あんまりにも気に入らないんなら、別の帯と変えるって言ってた。できれば、締めてほしいんだろ、やっぱり」

結局わたしは頷くのだ。心の妥協じゃなくて、譲歩のつもりで。

敏生は「ありがとう」と言った。

わたしはそれに返事をしなかった。

早く、聡ちゃんに会いたいと思った。

会って、あなたの瞳を見たい。

そうすれば、胸をざらりと撫ぜるようによぎった、あの嫌な感覚をすぐに消してくれる。

わたしの居場所はもう、敏生の隣りではないのだから。

 

地下の駐車場から、エレベーターで階上に上がる。

結婚していた頃のように、敏生は開いたエレベーターの扉へ、先にわたしを促した。

静かなフロア。

明るい照明に、並んだ茶褐色のドアとトランクルームのレバーが光る。お隣の高橋さんの部屋の前には、まだガジュマロの植木が置いてある。お舅さんが置いていったのだと辟易していたのを、わたしは知っている。

「さ、入って」

もう二度と入ることのないと思った室内に、わたしはまたいる。ミュールをそろえて上がると、室内は思いの他きれいに保たれている。

不思議な顔でもしたのだろう。敏生は、週に二度家政婦さんに来てもらっているのだと説明した。

「ちょっと待ってて。クローゼットに放っておいたんだ。探してくる」

リビングにわたしを残し、彼は寝室の方へ向かった。

アイボリーのラムスキンのソファに掛ける。軽い身の沈む感覚に、自分が当たり前のようにここに座った日常が、ふわりと甦った。

ローテーブルの上のアール・デコのランプ。アイビーが透かし彫りされたそれは、少し値が張ったのだが、一目惚れし、敏生にねだって買ってもらった品だった。

あれは、どこでだったろう。神戸に遊びに行ったときの、あのアンティークショップだったろうか。それとも、小樽の…。

目を転じると、部屋のそこかしこに確かにわたしがなじんだ思い出が、ぽろぽろと見つかる。

壁のマリー・ローランサンのリトグラフ。これは彼の父が所有していたものを、結婚の記念にと譲ってくれたものだ。

ベランダ側のカーテンは、あれこれ悩んで、オーダー後に色の変更をして、お店の人を困らせた。その不満をはっきりと顔に出すので、敏生はそれにややもきつい声で、応対してくれた。

それからカップボードは、長く使うからと、とっても頭を悩ませたもの。デザインも、素材も、触れて手になじむものがいいと、何軒もお店を回り、彼はそれにくたびれながらもつき合ってくれた。「薫子の気に入るように、どうぞ」と……。

次々に目に入るそれらに、くらむような思いで、わたしは目を伏せた。

まざまざと、自分が結婚に敗れたのだということが、実感として迫った。

あんなにもときめく思いで準備をし、変わらぬ未来を手に入れたと、自分自身を抱きしめたくなるほどに感じた幸せだったはず。

けれどもそれは幻で、わたしの描く他愛のない童話のような頼りのないものだった…。

それらの亡き骸が、この部屋には満ちている。

「これだよ」

いつ戻ってきたのか、傍らに敏生の気配を感じた。彼は畳紙に包まれた帯を、テーブルに置いた。

見ろと言うので、封を解く。落ち着いた地に亀甲をあしらった帯に、わたしは頷いた。不満などあろうはずもない。

再び紐を閉じる。隣りに掛けた敏生が、軽いため息をつくのが聞こえた。

視線を向けると、膝に肘をつき、両の掌で目の辺りを押している。

「運転、疲れたの?」

往復だったのだ。かなりの距離になる。疲れない訳がない。

けれども、もうわたしはここにいたくはない。申し訳ないけれど、彼には疲れを押して、すぐ彼の実家まで行ってもらわないと。

わたしも免許はある。彼の車を運転したこともある。

「何だったら、運転、代わるわ。道を教えてくれたら…」

「なあ、薫子」

わたしは立ち上がった。早くここから出たかった。

まだ同じ姿勢の彼にやや焦れた。早くしないと、最終の新幹線の時間に障るのだ。

「なあ、薫子」

彼はもう一度繰り返した。

「何?」

わたしの問いに、彼は答えた。

やり直さないか、と。




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