歪んだ針のように
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (24

 

 

 

何を言っているのだろう。

敏生は一体何を口にしたのだろう。彼自身、その意味をわかっているのだろうか。

自分が何を言葉にしたのかを…。

微かな空調の音がする。わたしはいつもその音を聞くと、肌が乾いていくように思う。頬の、腕の、唇の皮膜から、水分が蒸散していくように感じるのだ。

かさかさと。

それだけではないが、わたしはバックを手にしながら、頬に掌をあてがった。

「最初から、やり直したい。君とゼロから」

敏生の顔はわたしを向いていた。

わたしは彼の言葉に、

「そんなことより、あなたの実家へ急ぎましょう。新幹線に間に合わなくなる」

スリッパの足を、既にリビングから玄関へ向けている。

立ち上がった彼の腕が伸びて、わたしの手首をつかんだ。

「時間ばかり気にするんだな、君は」

「当たり前でしょう。今日中に帰られると言うから、わたしはあなたについて来たのに。約束だって、あったのに…」

彼はわたしの手を放し、指で前髪をかき上げた。はらりとこぼれた髪筋が、彼の切れ長の瞳を少し隠した。

「ママは元気だよ。ぴんぴんしてる」

「え」

意味がわからず、彼を見つめると、ちょっとだけ唇を歪めた。

「脳梗塞じゃない。心筋梗塞だ。それも、手術で完治したよ」

「だって、あなた…、お母さんの形見って…、言って…」

彼は確かに帯を見せた。畳紙も古く、新しいものでもない。あれは多分間違いなく、元姑の持ち物だろう。

「君に帯をやりたいと言ったのは本当だ。君への仕打ちで心臓が参ったのだと、ぼやいてたよ。罰が当たったんだって。俺から渡してくれと言って、頼まれた」

「じゃあ、お見舞いは…」

「見舞うほどの病人じゃない。行きたければ会わせてあげるけれど、今は…」

彼は腕の時計をちょっと見て、

「帳場で、売り上げだの予約だのの確認で忙しいだろうね、ママは」

そこまで聞いて、わたしはすっかり彼に騙されていたことに気づく。

わたしはそのまま「帯はいただけないわ。あなたから、返して」と、彼に背を向けた。

「さようなら」

どうしてこうも、敏生という人は自分勝手なのだろう。

「やり直したい」など、馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。

きっと離婚後の生活で、面倒なことがあったのだろう。気に入るように服が用意されていないとか、食事の件だとか、不意に夜中にセックスがしたくなっても、相手がいなくて困るとか……。

その程度の下らない理由で、彼はわたしを思い出したのだ。

「薫子」

再び彼の手が、わたしの腕をつかんだ。ぐいと引き、振り向かせる。

「放して」

「男がいるんだろう? その男に会いに行くのか?」

彼の言葉に一瞬、返答が遅れた。

「…あなたには、関係がないでしょ」

「医者なんだって? 次の君の相手は」

「え」

どうして彼が、そんなことを知っているのだろう。わたしの驚く顔が面白いのか、彼が饒舌に言葉を連ねた。

聡ちゃんの出身大学、そして卒業年次、専門分野、そしてわたしですら知らない、彼の以前の勤務先の病院名…。

敏生はそんなことを、平気で口にする。

「爽やかな好青年だってね」

そのとき彼はちょっと唇を舐めた。気味の悪い仕草だった。

「調べたの?」

「簡単にね」

彼の許に電話があったのだという。

わたしの友人だと名乗る、若い女の声で、わたしが彼と別れて間もなく、新しい恋人とつき合い出したこと、その彼の名前と職業を知らせ、身をわきまえず、はしたなく浮かれて過ごしていることなどを、いちいち彼に報告してくれたらしい。

「誰か知らないけど、いい友達を持ってるな、薫子」

京香だ。

彼女以外いない。

あの彼女のウェディング・パーティーでのわたしの放った言葉を、今も許せず、しこりに思っているのに違いない。だから、こんなことをする。

毎年の年賀状で、ここの住所も電話番号も知っているのだから…。

瞼が痙攣するのを感じた。

自分が空に放った礫が、自分の顔に、ぐしゃりと落ちる感覚。わたしは自分で原因を蒔いたのだ。

唇を噛む。

「俺は、君が、帰ってくるとばかり思ってた。害のない浮気くらいで飛び出して、実家に帰ってもきっとすぐに音を上げて、俺に泣きついてくると思ってた。許してって」

敏生はなぜか微笑んだ。「それを、楽しみに待ってたよ」と。

 

彼の腕がわたしの肩に回った。軽く抱き寄せ、その瞬間彼の好むコロンの香りが、ふわりと漂う。

「なあ、もう一回やり直さないか? 君がいないとやっぱり面白くない。俺のそばで、これまでそうだったように、いてくれないか? 働きたいというのなら、趣味程度なら構わない。何だって、君の好きにしていい。習い事も、買い物も、インテリアも、旅行も、好きなようにしていいから」

わたしは彼の肩に乗る腕を解いた。解きながら、首を振る。そんなものがほしいのじゃない。

「わたしたちは終わったの。もう一緒にいられないの」

「薫子…」

解いた腕を、彼は再び回す。包むようにわたしを抱く。

「止めて、敏生。放して」

両手で抗うと、彼はそれを封じるように力を込める。

「本気じゃないんだろ? 今の男のことは。なあ、遊びなんだろう?」

何を言っているのだろう。

自分と同じだと言いたいのだろうか。気紛れで、ちょっとした憂さ晴らし。ほんの遊びで恋をしているのだと。

「本気よ。本当に好きなの。彼以外、考えられないわ」

彼だけ、聡ちゃん以外は嫌。

放してと、わたしは彼の胸を押した。離れたいと身をよじった。

それが敏生の何かを確かに刺激した。怒り、欲情、または支配欲…、そんなものをわたしは知らず、自ら引き出してしまった。

「嫌っ」

乱暴に突き倒された。わたしはソファに後ろ向きに倒れ、身が沈む感覚に、数ヶ月前のあの夜を思い出した。

鮮やかに瞼の裏に浮かぶ情景。

眠れずに過ごした早朝のバスルーム。その鏡に映るわたしの顔は虚ろで、肌に着けたスリップは、彼の力で肩も背中も破れていた。

そこから、蒼ざめたわたしの素肌がのぞいたのだ。傷の皮膚は痛み、長く、熱過ぎるシャワーを浴びても、肌の粟立ちは消えなかった……。

二度と、嫌。

あんな思いは、二度と嫌。

わたしの腕は後ろに伸び、あちこちを彷徨った。重く覆いかぶさる敏生の身体に抗い、それでもわたしは腕を彷徨わせた。

何かを指が触れた。引き寄せつかむと同時に、彼の手がわたしのシャツを剥いだ。

ブラの谷間に指が沿うのがわかる。

「あの医者がつけたの?」

敏生の声がする。

「あ」

数日前の蛍を見た夜に、車の中で聡ちゃんがつけた痕だ。彼の指はわたしの浴衣をはだけさせ少し胸に触れ、彼の唇は、そんな痕を残した…。

ちょうど同じ場所、その辺りに敏生が舌を這わせた。

ぞわりと全身が粟立つ感覚が走る。わたしは引き寄せた右手のものを、思い切り彼にぶつけた。

アール・デコのランプは、わたしが引っ張ったコードに引きずられ、空を飛び、彼の背中にぶつかる。

繊細なガラスのランプシェードは割れ、その破片が散った。

「痛っ」

思いがけない逆襲に、敏生は身を起こした。頬にすっとした小さな切り傷ができている。

眉をしかめ、立ち上がった彼の背中から、ぱらぱらとガラスが散る。

わたしも身体を起こした。服を直し、「帰る」とつぶやく。

立ち上がり、玄関へ向かうと、彼がそれでも肩を引いた。

「悪かった。つい、かっとなって…」

どうしてだろう、わたしはこのとき目に涙が溢れるのを感じた。それはふっくらと瞳の中で溜まり、溢れ、頬を伝う。

何が悲しいのだろう。

怒りより、悲しみが勝った。

割れたランプ。あれはわたしのここでの幸福の象徴だったように思う。それが、原型を留めないほどに粉々に割れた。

ランプだけではない。

痛いのだ。心が、切なさで、痛い…。

否応もなく目に入る思い出の品々。満ち足りていると、疑うことすらなかった、彼との時間。

紡いだはずの幸福が、あっけなく果て、死んだようにそこにある。息の苦しくなるような夢の終わりに、今更に切なさが込み上げた。

「終わりなのか? 俺たち…、本当に?」

敏生は小首を傾げ、やや表情を固めている。

まだこの人は、こんなことを言っている。

どれほどの思いで、わたしは彼との結婚を決めたのだろう。

胸を躍らせて、ウェディングドレスを選んだ。そして手をつなぎ、二人で教会の講習会に出た。

結婚後のことを二人であれこれ取り決め、ささやかなその約束を、彼はずっと守ると誓ってくれた。小さな幾つかのそれらは、破られることはなかったけれど…。

けれど、敏生は一番大切なものを、踏みにじった。わたしが一番大事に思い、よすがにしていた絆を、彼はあっさりと捨てたのだ。

「俺は、ずっと君と生きていくのだと思った。わがままなところはあるけれど、美人で、優しい、可愛い君を…ずっと、愛していけると思った。その気持ちは、今も変わらない」

 

「あなたが、壊したんじゃない」

 

わたしは叫びに近い声を出していた。ところどころ涙でつぶれ、止まり、明瞭ではない。

けれど、それはわたしの真実で、紛れもない心そのものだ。

「ずっと二人でいようねって、…わたしは、あなたの言葉を信じてた。誓ってくれたことを。あなたと一生歩いていくんだって、どんなに幸せだったか…、どんなに嬉しかったか…。それを…あなたが壊したの」

わたしは彼の手を解き、さようならと言った。

「薫子」

もう一度彼はわたしを呼んだ。それにわたしは振り返らなかった。そのまま、玄関を出た。

がちゃっと扉の閉まる音。

それが敏生との全ての終わりを現すようで、当たり前の音に、どこかしんと心が冷えるのを感じた。

ずっとあなたと一緒に生きていきたかった。手をつなぎ、前を見て、二人で。叶うなら、こんな痛みなど知らずに……。

描いた幸福と夢の終わり。

わたしは足を速め、エレベーターに向かった。

 

 

『着く時間に
正面改札で
待ってる

 

カシワギ』

 

滑るようにホームに着いた新幹線を降りた。ホームの時計は十二時に近い。

こんなところだけは、敏生は嘘を言わなかった。彼が予め言ったように、ぎりぎり今日中に、わたしはまた自分の住む街に帰って来られた。

夏休みのためか、最終の新幹線でも、降りるお客が結構あった。学生風の人々に混じり、蛍光灯の明る過ぎる駅舎を出口へ向かう。

改札を出たところで、すぐにこちらに手を挙げる聡ちゃんを見つけた。思わず駆け寄る。

ポロシャツを着た彼は、わたしの手を引いた。表情をのぞき、

「大丈夫? 気分は」

「うん、平気」

途中メールで、彼には連絡を取った。隠すのも嫌で、敏生が現れ、彼に連れられて大阪に来ていることも告げた。騙されたことも。

すぐの新幹線で帰ると言うと、折り返しメールがあったのだ。その約束通り、聡ちゃんはわたしを迎えに来てくれた。

「ごめんなさい。勝手なことをして」

「薫子を騙したんだろう、彼は。だったら、仕方がない」

やり方が卑怯だと、彼はつぶやいた。

そうだ、敏生は卑怯なのだ。彼はいつだって、わたしに真っ直ぐに接してくれない。何かを隠し、取り繕う。

彼の優しさは、卑怯と表裏一体。卑怯さを隠すために優しく振舞う。優しくあるために、卑怯でいることも必要なのだろうか…。

そこまで考え、「それで何がいけない?」、そんなことを嘯きそうな敏生の顔が浮かぶ。

わたしはその姿を払うように、ぎゅっと目を堅くつむった。

 

車に乗り、すぐに彼の手がわたしの手を強く握った。

「何もされなかった?」

「ランプを投げつけて、逃げてきたわ」

「え」

彼の目を見開いた顔。

わたしはううん、と首を振った。何でもなかったと。

敏生がわたしに何を言ったのか、何を求めていたのか、そんな彼の問いに答えながら、わたしは緩く膝を抱いた。

「わたしには、聡ちゃんがいるもの」

敏生とは、完全に終わったのだと。

彼は、わたしが敏生が持ち出した復縁をあっさり蹴ったことに、安心したようだ。ちょっと照れたように笑う。

きれいな横顔に浮かぶ笑みを眺め、わたしはひどくほっと安堵している。彼と敏生との大きな差に、敏生にあってこの彼にないものに…。

聡ちゃんはわたしの手を握ったまま、シフトレバーに置く。ギアを変えるとき、その掌がわたしの手を包むように、かくんと動く。

夕飯は何を食べたのか訊くと、残業中に他の医師と店屋物で済ませたという。訊かなくても、そのメニューのローテーションが目に浮かぶよう。オムライス、うどん、カレー、ざるそば…またオムライス…。

明日彼に、何か好きなものを作ってあげよう。

何が食べたいか訊ねると、彼はちょっと考え、「ああ」と何かを思いついたように言った。

「ハンバーグ」

それにわたしは、頷きながらも笑みが浮かぶのだ。

やっぱり言うと思った、なんて。

シフトレバーに置いた手。わたしの手を包む彼の長い指は、きつく、けれど優しくわたしの指に絡む。




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