浜辺の波は緩やかに足を飲み込む
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (25

 

 

 

ゆりの提案でうなぎを食べに出かけたのは、眩しいくらいにかっと日が照りつける、ひどく暑い日曜日だった。

ノースリーブのブラウスは卸したてで、そんなことで気持ちが華やぐのが、ちょっと嬉しくも楽しい。

助手席のわたしが、エアコンの風に緩く腕を抱くと、それをちらりと眺めた聡ちゃんは、信号待ちの間に、なぜかリアシートへ腕を伸ばした。

「これ、着て」

わたしに渡してくれたのは、彼がいつ着たのか知らないYシャツ。それを羽織れという。

シャツを羽織るほど、特に寒い訳でもない。「いい」と断ると、「日に焼けるよ」と言う。

「日焼け止めを塗っているから、平気」

「ねえ」と彼が前置きした。

「…薫子に、あんまり肌を、出してほしくない」

「え」

「きれいだから、…他の男に見せたくない」

彼は前を向いたまま、そんなことを言う。照れているのか、こちらを見ない。空いた手で、目の下のそばかすの辺りをちょっとかいている。

わたしはそれに返す言葉が浮かばない。笑って軽く受ければいい彼の言葉を、わたしはどうしてだか、しっかりと両手で受け止めてしまった。

だから、冗談に紛らすこともできず、おかしなくらい恥じらって、何も言えなくなる。

彼が何も言わないわたしに、ちらりと視線を流した。ハンドルから外した手が、するりと腕に触れる。

わたしの返事を確認するかのような仕草。答えを急くようで、「ねえ?」と、ねだるようでもある。

ようやくわたしは、小さく口にした。

「うん…、気をつける」

「ありがとう」

彼も小さくつぶやく。

おかしい。

何度か肌に触れ、抱き合った。

喧嘩もしたし、互いの気持ちがわからずに、大人げなく意地を張り合ったり。

けれどもやっぱり好きで、途切れたような時間がいたたまれない。

彼の唇を重ねるときの癖。そんなときの強いばかりの腕の力。

または、彼がきっと抱く、わたしが醸す、何がしかのイメージ。

同じ思いも、その強さも、よく…知っているのに。

それなのに、ちょっとしたエアポケットのようにできた空間に、互いに戸惑っている。

ふっと現われた本音とその重さに、彼もわたしも、おかしなくらいときめいて、すっかり照れてしまっているのだ。

いい歳をして。

今、わたしの腕に置かれたままの彼の指が熱い。そして、わたしの触れた肌も、しっとりと熱を帯びている。

 

 

待ち合わせたインターチェンジのそばのコンビニに着くと、ゆりと喬さんが既に着いていた。

裾をくるんと巻いたハーフパンツのゆりは、インターネットで調べたという気に入ったお店の位置を、さっそく聡ちゃんに教えている。

手の地図を広げるとき、彼女のほっそりとした手首に、淡水パールと色石をあしらったブレスが揺れた。

それを見てふっと思い出した。同じもので、使った石が異なるものを、彼女と一緒に買ったのに、どこかになくしてしまっている。

あれは、どこで……。

「急げば、ちょうどお昼辺りに着けるはずなのよね」

彼は喬さんと、地図を覗き込んでいる。

「ふうん。とにかく僕ら、ついていくよ。その辺道知らないし」

飲み物を買って、その後で高速道路に入った。

ドライブ中は他愛もない話を交わす。また本城さんが彼の部屋に泊まりに来たこと。そこで聞いた菫ちゃんとののろけ話…。

「映画行ったらしいよ、二人で。『ストロー・チュウ』の仲なんだって」

「何? 『ストロー・チュウ』って」

「本城の造語だよ。菫ちゃんのジュースを、あいつが飲んだんだって」

『ストロー・チュウ』の意味に、おかしくて吹き出してしまう。

「でも、菫ちゃんは亮くんの友達の美馬くんに、ちょっと揺れてる…みたいなこと、聞いたんだけど」

「みーくんいわく、美馬くんと菫ちゃんは、あり得ないらしいよ。彼女でもいるんじゃないかな、もてそうな子だったし」

そんなことを話していると、わたしの携帯が鳴った。ゆりからで、次のサービスエリアに寄ろうという誘いだった。

ぎっしりと詰まった駐車場に車が停まる。降りると、腕の付け根から容赦のない暑さを感じる。

せっかくだけれども、彼のYシャツを羽織るのはあまりにも気が乗らず、シートに置き去りにする。

ちょうど入ってきた、ぐしゃりとフロント部分の潰れた事故車に目を奪われた喬さんと彼から離れ、ゆりとわたしは、サービスエリア内の公園に足を向けた。途中ソフトクリームを買って、それを食べながら。

公園からは澄んだブルーの海がのぞけ、人々が思い思いに眺めている。

何の偶然か、ゆりも美馬くんの話をし出した。

先日、彼が家に遊びに来たという。美馬くんは性格も可愛くて行儀もいいと、ゆりのお気に入りだ。

夕ご飯を食べて帰ったのだと言い、そこでいやに彼女がにんまりとするので、何があったのか問うと、

「美馬くんのバイクの後ろに乗せてもらったの」

と嬉しげに言う。彼は普段大型のバイクに乗っているらしい。いいなと彼女が言うと、気さくに「どうぞ」とその辺りを一周してくれたとか。

「こう、後ろから、あのスレンダーな腰に抱き着いてね。カーブのたびに、ぎゅっと背中に胸を押し当てちゃった」

「え、何、ノーブラで?」

「まさか、そこまでいくと、セクハラじゃない。痴女じゃないって」

「あははは、十分既にセクハラだって」

素敵な美馬くんに、彼女がいるのかないかの話に流れ、

「菫ちゃん、気があるようだったけど、菫ちゃんと美馬くんはあり得ないっていうのが、小早川さんの意見らしいの。聡ちゃんが言ってた」

ゆりはなぜか頷き、

「あ、それわかる。菫ちゃんがどうの、じゃなくて。彼には普通の子は、駄目なような気がするのよ。こう、何となく陰のある年上の女とか……」

「え、それわたし? 年上だし、バツイチも陰に入るんじゃない?」

「そうね、まだ薫子の方がしっくりくる。でも、美馬くんは駄目よ。わたしのモノだから。ほら、あんたは聡ちゃんがいるじゃない」

「自分だって、喬さんがいるじゃない」

「あははは、じゃあ、亮ちゃんあげる。あの子で我慢して」

馬鹿なことを言い合っていると、ふと声を掛けられた。

「お二人ですか?」

振り返ると大学生風の男の子が二人。

それにわたしたちは顔を見合わせた。面白いシュチュエーションに、互いを見る目が笑ってる。

彼らは、自分たちが医大学生であること、ドライブがてら、ふらりと高速道路を飛ばしていたのだという。

「お幾つですか? きれいな人たちだなって、つい見ていて…」

ちょっとハンサムな年下の彼らの前で、ゆりはしれっと、二歳サバを読んだ。

「二十四よ、二人とも」

どこへ向かうつもりなのか、どこから来たのか、そんなやり取りの途中、低い声がゆりを呼んだ。

気づけば、すぐそばに喬さんと聡ちゃんが現れ、「何?」と胡散臭げに彼らを眺めた。

「あ……、二人だけじゃなかったんですか?」

「失礼、しました…」

彼らは大柄でやや厳つい喬さんのイメージに、あっさりと身を翻した。

「ちょっと目を離すと、何してるんだよ。亭主持ちが」

こつりと手の甲で、ゆりの頭を小突いた。

彼女はちろりと可愛く舌を出し、「だって、向こうから話しかけてきたのよ」と笑っている。

いつの間にか、わたしの腕をつかんだ聡ちゃんは、溶けかけたソフトクリームを「ちょうだい」と取った。

コーンまでぺろりと食べながら、瞳はわたしを軽く睨んだまま。

「怒ってる?」

訊くと、まだ口の中にアイスクリームが残るのか、答えてくれない。

もう一度わたしは、

「医大生だって。すごいわね」と重ねた。

それに彼はちょっと視線をあちらへ向け、ぶっきらぼうに、

「こけろ、国試」と口にした。その声は、案外にきつい。

何だかおかしくて、嬉しくて、わたしは彼がつないだ手の指を、そっと自分から絡めた。

 

 

初めて彼の実家にお邪魔したのは、うなぎを食べに出かけてほどない頃。

彼のお母さんは「ご飯を食べにいらっしゃい」と、わたしを連れてくるように、彼に再々催促をしていたという。

「姉貴が、薫子のことおふくろに、あれこれ吹聴してるから。それでうるさくって」

彼のお姉さんとは、勤務先の病院の野球で居合わせたというが、わたしには記憶にない。

伺う間際の今になり、どきどきと胸が騒ぎ落ち着かないのだ。

勧められたからと、いきなり初対面で、夕飯にお邪魔するのはいいのだろうか。

手ぶらでも何だし、と咲子叔母さんの店の紅茶のパッケージを持ってきた。けれども、紅茶など飲むのだろうか。

このシャツタイプのワンピースは、ラフ過ぎないだろうか。でも、あんまりきちんとし過ぎるのも気が引けるし。

そして、一番不安な疑問。

彼は、わたしが離婚経験者であることを、ちゃんと告げてくれているのだろうか…。

わたしの落ち着かない気持ちに頓着などせずに、彼はごく気楽に車を実家の駐車スペースに乗り入れた。

他に二台車がある。小型のものと大型のワゴンタイプのもの。

玄関脇がすぐに庭になる新しい家で、数年前、姉夫婦が同居するという際、建て替えたのだという。庭から大きく育ったジャスミンの木が、こちらまで枝を伸ばしている。

「薫子が来るっていうんで、やたらと張り切ってたよ。絶対あれ、食わされるから。しめさば。大丈夫? さば食べられる?」

のんきに彼は、そんなことを気にしている。

食べろというのなら、きっとさば一匹だって食べられるだろうけれど…。

玄関に入ると、いきなり小さな男の子が、きゃっきゃと笑いながら掛けてきた。その後ですぐに、ばうばうと「ヤンさま」が走って来る。

彼は姉の子供だという甥っ子を抱き上げ、入るようわたしを促した。

「おふくろ、来たよ」

彼が放った声に、奥から人が現われた。エプロンを着けた小柄な老婦人で、エプロンで手を拭きながら、「いらっしゃい」と笑った。

ああ、笑うと非常に彼に面影がある。頬から目の辺りが柔らかく、優しげだ。

「さあ、さあ、遠慮しないで。どうぞ」

お邪魔します、と靴を脱ぎ、揃えたところで、「ヤンさま」が屈んだわたしのふくらはぎにかじりついた。

ストッキングを履いているので気になると、やっぱり大きな引っ掻き穴をこしらえている。

替えを一応持ってはいるけれど、いきなりのことに気が滅入る。

いまだわたしに興味津々の「ヤンさま」を彼のお母さんは、「こら、盛んないの」と一喝した。

「ごめんね、やっぱり若い子がいいのよ。今、発情するアノ時期がかぶってるから、発散したいみたい」

「はあ…」

バスルームを借りて、ストッキングを履き直した。

明るいフローリングのリビングには、瞳のぱっちりとした女性がいた。

「聡一郎の姉の静香です」

朗らかな印象の彼女は、彼にとてもよく似ている。大きくぬれた瞳。小さな顔の造作も整い、きれいな人だ。看護師をしているという話だったけれど、どこかきりりとした感じを受けるのは、そのせいだろうか。

「野球のとき、挨拶しようと思ったのだけれど、気を使うかなと、申し訳ないんで黙っていたの。聡も何にも言わないし」

それから、彼女の夫の秀次さん。県庁にお勤めという。

「聡くんが言っていた通りだ」

柔和な雰囲気の秀次さんは、そう言ってちょっと、聡ちゃんを見て笑う。

彼は自分にしがみつく甥っ子を、お姉さんに無言で渡し、リビングにつながるキッチンに向かった。料理をするお母さんに「ちょっと、しめさばばっかり、嫌だって」と、文句を言っている。

「サバはDHCがあって、体にいいのよ」と、お母さん。

DHAだよ」

何かつまみ食いしながら、彼が返している。

「あなたがどんな人だって訊いたら、美人だって。なあ?」

傍らの静香さんに問いかけている。彼女は頷き、

「そうよ。自慢していたの。女らしくて、可愛いんだって。ふふ」

二人の言葉に、わたしはすっかり頬が熱くなってしまった。

「女らしい」とか、「可愛い」だとか、そんなことは、わたしには言ってくれないのに。

そんなこと、わたしに感じているの、聡ちゃん。

 

 

「またいらっしゃいね」との声を背に、彼の実家をお暇したのは、九時を過ぎていた。宵の空気の中に出ると、ちょっとほうっと吐息をつきたくなる。

楽しくて、気持ちのいい人たちばかりなのだが、彼の家族なのだと思うと、あちこち気を使うので、やっぱりくたびれる。

送ってくれる彼の車に乗るときに、裸足の膝が目に付く。結局、替えのストッキングもヤンさまに破られ、脱ぐ羽目になった。

その脚を何となく指で撫ぜていると、彼がどうしたの、と訊く。わたしはそれに「ううん」と答えた。

次に伺うときは、パンツにソックスかな。

「疲れた?」

「どうして?」

「ぼんやりしているから」

「おなか一杯になって、眠くなったのよ。しめさば、おいしかったし」

彼のお母さんが手ずから作るというシメサバは、酸味が強過ぎず生臭くなく、魚の身も締まって、とってもおいしかった。「余ると、オリーブオイルと胡椒で焼いてもおいしいの」と、これはお姉さんの弁。

たくさんと作ったと、分けていただいたので、明日にでも焼いてみようかと思う。トマトを乗せて、バジルかパセリもあるといいかも。案外、堅めにトーストしたバゲットなんかにも合うかも……。

そんなことを考えていると、彼がわたしの裸の膝に手を置いた。肌に沿い、少し動く。

「おふくろが、薫子のこと、可愛い子だって。どこで見つけてきたのって、驚いてたよ」

「お世辞だって。聡ちゃんはわたしを、喬さんの家のバーベキューで拾ったのよね」

「ああ、あれが最初だった。君には訳のわからないことで、怒り出して…」

そうそう、あの夜、わたしが不用意に発言したことが、彼の気持ちを逆なでしたのだ。

わたしは、その言葉を覚えていない。きっと何か、前の彼女につながる言葉だったのだろうけれども…。

車はいつしか街から外れ、花滝温泉の方へ向かっている。目を流す車窓からは、夜の風に葉を揺らす渓流沿いの樹木が見えてきた。

会話が途切れた中、しゃわしゃわと流れる川の音が聞こえる。

散策に、浴衣姿で旅館の宿泊客が歩く。かぽかぽとその立てる下駄の音が響く。

ふと、車が止まった。

わたしはちょうど前の辻を急ぎ足で入る、島田の髪にだらりの帯の女性に目が引かれていた。母に三味線を習う、芸奴さんの鈴音さんだ。後姿が、やはりさすがに美しく艶っぽい。

彼女の姿に気を取られ、自宅からまだ距離があるのに気づいたのは、少し後だ。

わたしは路肩に車を停めた彼の横顔を見た。

「ねえ、薫子、話があるんだ」

「何?」

よく上手く停めたものだと思うほど、縁石にぎりぎりの渓流沿い。そのお陰で、ちょっと首を窓に向ければ、白くしぶきを上げる爽やかな緑の流れを見られる。

「ずっと、君が好きだった。多分初めて会ったときから」

彼はキーの辺りを少し手持ち無沙汰にいじり、そんなことを言う。

「薫子しかいない」

「聡ちゃん?」

「僕は、やっぱり、馬鹿みたいに君に、夢中で…」

途切らせた言葉の後で、ちょっと笑う。

身を乗り出した彼が少し、強引なほどのキスをした。肩を抱き、引き寄せ、唇を割る、彼の舌。どこか乱暴で、だけど熱っぽいキス。

髪に絡む指が首筋に触れる。くすぐったいその感触に、「やだ」と、声にならない声がもれた。

どれだけ彼は、わたしの唇を感じたのだろう。溶けるように続くかに思えたキスの後で、彼はぱちりと瞳を瞬かせた。

 

「結婚しよう」

 

五分、十分……、ううん、三分、一分程度なのかもしれない。

わたしはまだぬれる唇に指を置き、彼の瞳を避けた。

 

「ごめんなさい…、結婚は無理よ」

 

わたしは思いの他、はっきりとした声で告げた。

その後の二人の時間は、まるで止まったかのように。

動かずに、凍った。




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