ああ、自分はなんて不幸せなのかと感傷に浸ってみる
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (26

 

 

 

少し動けば、空気に触れて音を立ててしまいそうな、そんな凍った時間。

先に破ったのは、彼だった。

ぱちりと目を瞬き、頬を舌で膨らませる仕草をする。

「法律的に、薫子がすぐに結婚できないのは、わかる。もちろん、その後の話で…。その間に準備とかしたら、いいだろう?」

わたしはまだ、彼からの視線を避けている。

疑いようのないわたしに向ける、その真っ直ぐできれいな瞳が、今は少し怖い。

「違うの」

「何が? 不規則な勤務シフトのことなら、申し訳ないけど、医者はこんなものだと思ってほしい。以前の病院の方がずっと、きつかったよ。まだここはましな…」

わたしは首を振った。そんなことじゃない。彼の仕事の拘束時間のことや、法律的に再婚が許されない期間のことではない。

わたしが、結婚をしたくないのだ。それが聡ちゃんであっても。

ぽかりと、おかしなくらい、わたしの中で、彼との将来が欠落していた。

わたしの中のそれは、きっと今が続くこと。それだけでしかない。

やや焦れたのか、彼はわたしの顔を覗き込んだ。「ねえ?」とその声がわずかに尖る。

「できないの、結婚は。誰とも…、できないの」

「どうして?」

わたしは唇を噛んだ後で、ゆっくりと言葉をつないだ。

「怖いの。あなたとまた壊れるのが、怖いの」

「え」

彼はわたしの声に、目を細めた。意味がわからないという表情をしている。

わたしはぽつりと言葉を続ける。初めて話す、敏生との離婚の理由。その破綻の意味。

彼は終いまで聞き、すぐに言葉を返した。

「だから、僕も、彼のように浮気をして、君を裏切るって言うの?」

「そうじゃ…ないけど、怖いの」

「馬鹿」

彼は腕を伸ばし、再びわたしを抱きしめた。

髪をなぞる指。背に回る腕の強さ。それは音にならない、わたしを求める優しい言葉だ。

「聡ちゃん…」

「君を抱いた後で、帰すのが、本当に嫌なんだ。…何でだろう。とにかく、ずっとそばにいてほしい。薫子しか考えられない」

いつも目覚めたときに、そばにいてほしいということ。毎日を一緒に過ごしたいということ…。

彼の言葉に、どんどん心が震える。怖くなる。

あなたは知らない。

同じような言葉を、わたしはあの敏生から受けた。「薫子だけだよ」と、「これから、ずっと一緒に過ごそう」と。

閉じた瞼の裏に、先日訪れたあの千里のマンションの光景が、鮮やかに甦る。

色褪せて見えた家具の数々、居心地のよかった光の行き届いた空間が、どこか埃っぽく乾き、ひどく居辛く思えた。そして、粉々に砕けたアール・デコのランプ…。

敏生のやっぱり何も変わらない、ハンサムな笑顔も、振る舞いも。

それら思い出が、はっきりと浮かび、なかなか消えない。

眩しかったもの、大切だった、かけがえのないそれらが、朽ちたようにそこにあった。それをまざまざと目にし、わたしは息が苦しくなるほどに切なかったのだ。

描いた、抱いた夢の果てと、その結末。永遠など、ないこと。

たった数年で、あっけなく終わったエンゲージ。

 

聡ちゃんは知らない。

 

互いに交わす約束がどれほど脆いのか、誓うことがどんなに他愛のないものか。

わたしですら気づかなかった。エンゲージの壊れた破片が、その後もずっとわたしの胸に突き刺さったままでいること。折に触れ、それはじくりと痛みを思い出させる。

例えば、新しい誰かとの愛に変わりそうな恋に。

優しい誰かがささやく抱擁に。

「離して。ちょっと、苦しいから」

彼が腕を緩めた隙に、わたしは身を離した。

乱れた髪を手で整えながら、結婚は考えられないと、わたしは繰り返す。やはり、彼の目は見つめられない。わたしの視線は裸の膝に落ちたままだ。

「じゃあ、どれほど時間があればいいの?」

少しかすれる彼の声。ちょっとの咳払いの後、「半年? 一年?」と続ける。

時間じゃない。

何年たったから、いいのだとか。これだけ季節が変わったのだから構わないのだとか。時間で区切れるものではないのだろう。

それはきっとわたしが徐々に、自分で癒していかなくてはいけない傷。

あの咲子叔母さんだって、八年も得ても何がしかの思いは胸に残している。恋に溺れないように自戒させる、それほどの傷を、彼女だっていまだ抱えているのだ。

「ごめんなさい、無理なの」

「じゃあ、僕は君と、ずっと結婚できない訳?」

おかしいよ、と彼は言う。わたしの態度に呆れているのか、唇をちょっと歪めている。

理知的な彼のその瞳の奥は、わたしの考えることが理解などできないのだろう。

わたしはそこで、聡ちゃんに、「わたしがバツイチだって、お母さんに話した?」と訊いた。彼は不思議そうにちらっとわたしの顔を見て、首を振る。

「必要ないだろ、そんなこと。僕が構わないって言っているんだから」

彼はそう。いつだって真っ直ぐに、正しい。

けれども、それがわたしには重いときもあるのだ。あなたにはない過去を、わたしは確かに持っている。それを実感させられる瞬間。

「聡ちゃん…」

朗らかに優しかった彼の家族。あの人々は、わたしが離婚を経験していると知れば、態度が変わるだろうか。息子に相応しくないと、眉をひそめるだろうか。

離婚をするほどの、わたしに何か瑕疵(きず)があると思うのだろうか…。

とりとめのない負の思考。そんなものが頭をぐるぐると、回る。

「僕は、将来を考えない恋愛はしたくない」

ねえ、と彼はわたしに問う。

「君は僕と、どういうつもりでつき合っていたの?」

わたしはすぐに答えができなかった。

それは好きだから、一緒にいたいからに決まっている。けれども、それらは口にすると、幼いばかりの軽いものに変わりそうだった。今より、ずっとずっと若い頃の恋にきっと似合いなものに。

「聡ちゃん…」

わたしの考えは、矛盾している。

そばにいたい、一緒にずっと。彼しかいないと思いながら、彼との将来を描けないのだ。描くことを拒否している…。

その整合性を欠くわたしの言葉のほころびを、彼はあっさりと突いた。

「僕が、パートナーに都合がいいから? 男がいないよりいいから? 気の乗るときに寝る相手がほしかったの?」

君の言っていることはこれに近いと、彼は言う。

つきり、と痛んだ。

心の深い部分を、彼の鋭い言葉がえぐった。

わたしは返事もできず、やはり彼の瞳を避けたまま。もう少しで溢れそうになる涙を、何とかしまうのだ。

泣きたくないと思った。

せめて、泣いて誤魔化したくはないと思った。

 

 

『言い過ぎた。
ごめん。

 

カシワギ』

 

別れた後、眠る前に届いた彼からのメール。

わたしはそれを、ベッドで横になりながら眺めた。涙が溢れる。こめかみを伝い髪をほんのりとぬらすそれを、わたしは拭いもせずにいた。

ただ、隠さずに泣けることが、心地よかった。

 

 

 

『聡ちゃんの思うようにできなくて、ごめんなさい。
これまでいろいろありがとう。
本当に、楽しかった。
さようなら。

 

薫子』

 

散々迷って打ったメール。

青白く光る画面を見る今も、まだ意気地なくためらっている。ボタンに置いた指。軽く力をだけで、それは彼の許に届く。

押したとき、目にじんわりと涙がにじんだ。瞬きをした瞬間に、一筋涙がこぼれた。

霞む瞳で送信完了の確認をして、携帯を閉じる。

エプロンのポケットにしまう。

咲子叔母さんが、明るい声でシフォンケーキを焼こうと、わたしの背中に声を掛けた。

指の腹で頬の涙をさっと拭い、「うん」と応じる。

振り返り、食器かごの残ったグラスを手に無理に微笑んだ。

「バニラビーンズのシフォンでいい?」

「いいわね。あれ、最近よく出るから」

当たり前のようにわたしの手が動く。ボオルを引き寄せ卵を割る。

ケーキを仕込み、オーブンに入れる。お客がドアベルを鳴らして入ってくる…。

「いらっしゃいませ」

紅茶の香り高い湯気が立つ頃、またはコーヒーの深い芳香。オーブンからの甘いケーキの焼ける香ばしい匂いがカウンターに満ちる頃。

きっとわたしは、自然な笑みを浮かべていられる。

きっと、大丈夫。

そうやって、頑張ってきたのだもの。

だから、大丈夫。

 

泣くのは一人になってから。

静かに、ひっそりと泣くのだ。




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