愛がみつからないから恋を探した
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (
27

 

 

 

「ふうん、……そうなの」

咲子叔母さんは、一番最初に、そんな言葉を口にした。

感想にもならないそれは、話し手のわたしからすれば、頼りのないものではあるが、多分、わたしの決断を、自分の言葉でどうのしようという気持ちがないのだろう。

やはり、

「薫子が決めたのなら、しょうがないわね」

と、続いた。

そんなところは叔母らしい。

彼女は、ベッドに放られた、これまで姿見の前で合わせたワンピースの幾枚かをざっと眺め、納得がいかないのか、それらをクローゼットにしまい始めた。

店を閉めた後で、わたしの意見を聞きたいと言ったくせに、もう勝手に決めてしまっているのだから、おかしい。

「お姉ちゃんから、紬を借りるわ。和服の方が、あっちゃんも喜ぶし」

叔母は、恋人の高見さんと共に、近くにある賞の祝賀会に出かけるという。彼の絵が、そのなかなかに格のあるという賞に入賞したのだ。

それに伴い、画集の出版も決まり、来春を目途に、小さな個展を個人で開くことにもなった。

あのどこかふわりとした印象の高見さんも、才能のあるアーティストだったのだと、こんなところで驚かされる。

「咲子姉ちゃんが、これまで支えたお陰ね」

「その件は、もうあっちゃんの身体で返してもらってるわ」

「あははは」

彼女はクローゼットにワンピースを片付け終え、ドレッサーの椅子に掛けたままのわたしに、「二人でワインでも飲まない?」と誘う。

母は出稽古で、夕飯も済ませてくるというから、遅くなる。最近は、寝るまでの時間を一人でつぶすのが、少々億劫なのだ。

わたしは頷いて、叔母にスペイン風オムレツを作ってほしいとねだった。

「いいわよ」

彼女のオムレツは小さな頃から、わたしの好物の一つだ。

そんな昔を思い出して、何となく叔母に甘えてみたいと思った。

 

リビングで、オムレツとクラムチャウダーを食べながら、ワインを飲んだ。

テレビもつけない、エアコンの風がうっすらと流れる緩い夜。そんな中、あれこれ話し、何の弾みか、そういえばと、叔母に高見さんとの出会いを訊いた。

「きちんと聞いたことがなかった」

「大したことじゃないのよ」

と、彼女がグラスを片手に語り出した内容は、思いがけず素敵なものだった。

叔母が店を始めた頃、こちらに縁故があり、アトリエを持った高見さんが、ふらっと店に現われたという。いつしか彼は常連になった。

「あの頃から、もさっとした髪でね。指に絵の具をつけていたわ」

店の西側の空いた壁があった。あるとき、よければ、そこに自分の絵を掛けてもらえないか、と彼は言ったという。「あなたの絵を描くから」と。

「それで、モデルになったのが、始まりね」

「恋愛小説みたい。素敵」

「無精髭の貧乏画家と、バツイチの年増の? あはは、売れなさそう」

それから、また別に新しく彼は叔母を描いた。

その最初のものは、このリビングに掛けられている。窓辺のそれは、色調が淡い水彩のもので、叔母が着付けの最後の仕上げで、腕を後ろの帯びへ回し、可愛らしく帯締めの端を唇に挟み、小首を傾げている様子を描いたもの。

藍の着物も淡く、叔母の髪の黒も淡い。

高見さんは、主として油絵を描く人なのに、なぜだか叔母を描くときは、決まって水彩画になる。

ワインを飲みながら、絵を眺め、どうしてだろうと、ちょっと考えた。

彼なりの何かの線引き、または叔母への愛情のある形……。

「ねえ、柏木くんからは、それから連絡がないの?」

空いたグラスに手酌でワインを注ぐ叔母が、訊ねた。わたしは頷き、「ない」と答える。

聡ちゃんに『さようなら』のメールを送って、今日で五日になる。

何の音沙汰もない。自分で断ち切ったくせに、何の反応ももらえないことに、気持ちが滅入るのだ。

『さようなら』くらい、返してくれてもいいのに。それくらいの重さのある恋だったと思うのに。そんなことを、つい胸にぼやく。

聡ちゃんの、ケチ。

「そう……、ショックだったのかしらね」

「呆れて、怒って、知らん顔なのじゃないかな」

ほんのり皮肉がこもるのが、自分でも情けない。

叔母には、彼との別れの理由は話した。

結婚を考えない恋愛はしたくないという彼と、結婚はしたくないわたし。互いに譲れなくて、交われなくて、平行線のまま終わったこと…。

今だって、彼が瞳を尖らせて言った言葉が耳に残っている。

 

『僕がパートナーに都合がいいから?』

『男がいないよりいいから?』

『気の乗るときに寝る相手がほしかったの?』

 

よくもまあ、ひどいことを……。

知っているくせに、そうでないことを。そうじゃないから、あなたとは壊れたくないと思った。

彼が当たり前に胸から取り出してくれる、きれいな言葉の数々。それが本者だということも、わたしだけにくれるものだということも、わかる。信じられる。

けれども、その先は……。

これからの二人は……。

 

わからないじゃない。

 

それが怖いのだ。

「結婚に、チャレンジする気はなかったの? 相手が柏木くんでも」

「聡ちゃんと、また、敏生みたいになるのが怖い…」

叔母はちょっとため息をついた。ちぎったバゲットをクラムチャウダーに浸し、口に運ぶ。飲み込んでから、

「彼も、もっと薫子の立場に立ってくれたらいいのだけど…。時間で区切らずに、気持ちが和らぐのを待つとか」

「いつになるか、わからないわ、そんなの…。ならないかもしれないし。なっても、ずっとずっと後かもしれない。そんなあやふやなものに、聡ちゃんをつき合せたくもないし、待ってもくれないだろうし」

「わかんないわよ」

「咲子姉ちゃんだって、高見さんとの結婚は、考えていないのでしょう? 同じよ」

「わたしの場合は、子供が産めないこともあるから」

ふと思った。

高見さんは叔母との関係に、充足しているのだろうか。

ほぼ毎日会い、密接に関わりを持ち、レセプションではパートナーとして伴う。叔母は手まめであるし、二人の間に家庭的な雰囲気を醸し、それで、彼は満足しているのかもしれない。まるで、ユニークな形態の夫婦のであるかのように。

翻って、聡ちゃんはどうだろう。

大学を出て以来、ずっと一人暮らしをしてきたという。その気楽さも、拘束のない楽しさも、多分、彼にはもう十分なのじゃないだろうか。

やかんもなく、包丁すらもなかった彼の部屋のキッチンを思い出す。

仕事で遅く、くったりと疲れて帰っても、暗い部屋の明かりをつけるのは彼だ。シャワーを浴び、ビールを飲んで、すぐ眠るだけの夜…。

友人のように家庭を持ち、ごく当たり前に妻と暮らす生活がほしいのかもしれない。帰れば明かりが灯る、一人ではない空間が、ほしいのかもしれない。

ちょっと考えて、しんみりとなった。可哀相に思えた。

そして、何もあげられない自分を、ひどく惨めに感じた。

叔母に言うと、彼女は頷き、

「何となく少年ぽくても、柏木くんも三十二だものね」

「うん……。部屋なんか、数ヶ月も前の引越しのダンボールが、まだ幾つもあるのよ。その中に本だの、服だの入ったまま。使ったらまた放り込んで、おしまい。おかしいって、わたしが言っても、次に引っ越すときに便利だからって、ガムテープで蓋をして、引越し会社に電話すればいいだけだからって……。変な人…」

言いながら、涙が奥から突き上げてくるのを止められない。人前で泣くのは嫌だと、これまで、ずっと堪えてきた。

それが、こんな二人の夜に、叔母の前ではあっさりと甘えが出てしまう。

指の腹で拭い、誤魔化すのにワインを飲んだ。

「薫子…」と、叔母の手が、肩に置かれた。さするように動き、緩く抱いてくれる。

泣きながら目に浮かぶのは、幾度か泊まったこともある彼の部屋の風景だ。

引越しメーカーの名の入ったダンボールと、積んだままの本。その学術書の隅には『イヌの心』なんていう雑誌もあって。

家具も家電も、本城さんが要らないと置いていったものばかり。唯一新しいものは、わたしがねだって買ってもらったベッド。

シンプルなあの木のベッドで、何度抱いてもらっただろう。眠っただろう。

そんなことを思うと、自分が自ら手放したものの大きさ、重さに、今更ながら愕然とする。

心が、空っぽになったようで…、怖くなった。

 

叔母の肩に額を乗せ、どれだけか泣くと、気持ちが楽になった。

十時を回り、わたしは洗い物を手伝ってから帰った。「泊まっていけば」という叔母の声を断ったのは、泣いて恥ずかしいのと、一人になりたい気持ちがあったから。

そして、帰宅までの短い距離にできる、孤独な時間がほしかった。

夏の時期で、華やかにぼんぼりが灯る渓流沿いの道は、ちらちらと浴衣の観光客の姿がある。お陰で、深夜の一人の帰り道が怖くない。

肩に掛けたバックから、聞きなれた携帯のコールが鳴った。

どきりと胸が痛んだ。

けれども、すぐにそれを消す。きっとゆりか、叔母が何か用でかけてきたのだろう。そうでなければ母か、別の友人か…。

自転車を降り、歩道脇のガードレールにもたれさせた。バックを探り、取り出した携帯の着信を見て、息が詰まりそうになる。

聡ちゃんからだった。

これまで、連絡もくれなかったのに……。

やや迷い、そんな間にコールは切れてしまった。

かけ直そうか、止めようか。やはり迷い、そのうち再びかかってきた。

耳にあて、すぐに彼の声が届いた。

それは一瞬で、わたしの心の奥深い場所までしみるように、響いていく。何の抵抗もなく、あっさりと。

すぐに彼を、思い出す。肌が、髪が、唇が、すべてが、触れた彼を。

『メール、見たよ』

彼はそんなことを言った。一体、いつの話をしているのだろう。もう送って、五日も経つのに。

「…うん」

『自分勝手にあんなメール、送らないでほしい。相当、頭にきた』

五日連絡をくれなかったのは、怒っていたからなのか。彼の声は電話越しであっても、堅い。

「…だって、わたしは、聡ちゃんの言うようにはできないから…」

『薫子と、別れる気は、ないから』

彼は声を尖らせたまま、『しばらく会わない』と言った。

「え」

『お互い、頭を冷やした方がいいから。僕、ちょうど出張もあるし』

それきりで、彼はぷちっと乱暴に電話を切った。

一方的な電話に、しばらくは驚きが大きい。再び自転車をこぎ、家に着く頃には、頬に熱いほどの嬉しさが、広がっていた。

抗えない気持ち。

聡ちゃんの声を聞いただけで、他愛なくわたしは、彼を受け入れているのだ。

別れると決めたのに。

無理だと思ったのに。

嫌いで選んだことではないけれど。

やっぱり、聡ちゃんが好き。

 

帰ってからお風呂に入った。

以前の痴漢に覗かれてから、母に言って浴室の磨りガラスには小さなカーテンをつけた。

母は前からの癖で、それを開け放すことが多い。きちんと下がっていることを確認してから扉を開ける。身体を洗った後で湯船に浸かった。

お湯には、母が散らした柚子の皮が浮いている。料理などに使った後で、その皮をお湯に入れて使い締めにするのが、母のやり方だ。

そのお陰でほんのりとお湯が、柚子の柔らかい匂いが移っている。

身を浸しながら、考えるのはさっきの電話のこと。彼のこと。

怒りながらも、連絡をくれたことが嬉しいし、出張があると、これまでのように何気なく予定を伝えてくれたのも、気持ちが和む。

別れを決めたのに。

おかしなくらい、彼の電話の声でときめいてしまっている。

終わらないのだろうか。

別れないのだろうか…。

お湯の下でふわりと揺れる乳房。白く湯に移る二つのふくらみを、わたしは両手で包むように抱いた。

目を閉じると、それで彼が同じ場所に触れた感覚を思い出すのだ。

 

眠る前に一度彼から、メールがあった。

ぶっきらぼうな文面で、

 

『今週一杯
長野に行くけど、
お土産はあげない。
お休み

 

カシワギ』

 

眺めながら、吹き出した。

どういう顔をして、これを送ったのだろう。

おかしくて、けれど弾むように胸がときめいて、嬉しくて。

断ったばかりの恋。

その恋が仕掛ける作用に、わたしは戸惑って、揺れている。

 

やっぱり、あなたが好き。




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