決して埋まらない空白なんて、いっそ潰しておくれ
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (28

 

 

 

いつの間にか、日が短くなってきている。

暮れがほんの数日前よりも早く、徐々に秋に近づいているのだと知る。

けれども、いまだ照りつける日の光は熱く、強く、残暑の中、やりきれないほどにじりじりと肌を焦がす。

早く、静かで柔らかな秋の風がほしいと思う。

それなのに、夏の暑さと容赦のない熱が去ってしまうことが、ちょっとばかり切ないのだ。わたしはその中で恋をして、幸せだった。

それが、季節の移ろいと共に、消えてしまうようで寂しい。

彼との思い出を、わたしは夏の熱の中にしか持たないから。

頼りないほどの、わたしたちの過去。

それがわたしたちの全て。

 

咲子叔母さんが、恋人の高見さんと祝賀会に出掛け、『花の茶館』を空けることになった。

「三日ほどだから、閉めてくれてもいいのよ」と、叔母はそう言ったけれど、わたしはそれに頷かなかった。平日の三日間を、所在無く過ごすのは退屈で、余計なことをあれこれと思いそうで、却って辛い。

「ううん、平気。ランチだけお休みにして、カフェメニューだけなら、一人でも、何とかなるから」

「そう? でも無理しないで。嫌になったら、休めばいいから」

「うん、そうする。無理はしないわ」

彼女が出掛けた当日から、一人で店を開けた。いつもより早く家を出て、ケーキを焼き、仕度をする。

やはり、ランチがない分お客も少ない。手が空く時間も多く、のんびりとランチで使うピクルスを作り置きしたり、気が向くと、冷蔵庫の中をエタノールで掃除したりした。

午後遅くにふらりと、喬さん弟の亮くんが現われた。彼より背の高い、ゆりお気に入りの美馬くんを連れている。

カウンターに掛けた彼らに、オーダーのアイスコーヒーを出し、レアチーズケーキをサービスしてあげる。

「薫子さん、ありがとう、」

そう言って喜ぶ二人を見ると、年下の男の子のかわゆさに、ちょっとゆりの気持ちもわからないではないな、と思ったり。

美馬くんにケーキをご馳走したなんて、彼女が知ったら、「抜け駆けして、ずるい」と突っ込まれそうだけれども。

亮くんは、美馬くんがサブでアルバイトをする小早川さんの予備校の仕事が、割り似合わないはずだと、ちゃちゃを入れている。

「みーくんの出す条件、悪過ぎだって。時給千円だよ。今どき、大学生が夜九時過ぎまで拘束されて千円って、日本じゃないよ」

それに美馬くんは涼しい顔で、ちょっと笑みを浮かべ、

「電話番と、質問に来た生徒への対応だけだから、いいんだよ。メインのバイトは他にあるし」

亮くんはレアチーズケーキをぱくりと口に放り込み、噛みながら、美馬君の脇腹を肘でつつき、

「お前、みーくんに弱味でもあるんだろう。昔、万引きで、保証人になってもらったとか…」

「ないよ。小早川先生には、お世話になったし…。あ、薫子さん、僕、あの予備校の出身なんです」

一年の浪人中、小早川さんにも、あの本城さんにも教わったという。

「へえ、そうなの」

亮くんはやっぱり混ぜっ返し、

「僕なんか、予備校なんて行かなくても、余裕の一発合格だよ」

そんなことを言う。

美馬くんは小さく笑って、アイスコーヒーを口に含んだ。亮くんを見やり、

「だって亮は、小早川先生に、個人教授してもらってたんだろう? 予備校に通うことないよな。仕事帰りに毎日つき合わされてたって、聞いたぞ」

「あら、それはいいわね。先生を独り占めで」

それでも亮くんは悪びれずに、「みーくんは、化学の教え方がイマイチだよな」と嘯いている。

あっさりと話題を変えた亮くんが、「ゆり姉ちゃんがさ」と、週末のお祭りに行こうと誘った。

「その日兄貴いないし、ゆり姉ちゃんが連れて行けってうるさいんだ。薫子さんも誘ってほしいって言われてるんだ。美馬も行くし」

「四人で?」

「いいじゃない。ゆり姉ちゃんは美馬にめろんめろんだから。放っておいてさ」

「めろんめろん」のフレーズにぷっと笑いが出る。確かに、「めろんめろん」だ。

「僕らなら、柏木さんも文句言わないよ」

「…聡ちゃんは別に…」

不意に出た言葉に、亮くんがちょっと怪訝な表情をした。けれどもそれをすぐに消し、「行こうよ」と明るく誘う。

「じゃあ…」

ゆりも行くのなら、と頷いた。

亮くんが目を離した隙に、彼のお皿から、美馬くんが残ったケーキを食べてしまっていた。

「何だよ、お前」

途端に亮くんは口を尖らせてふくれ、美馬くんの頬をつねっている。

「要らないのかと思った」

子犬がじゃれあっているようで、微笑ましくて可愛い。

二人が帰ってしばらくして、携帯に当のゆりから電話が掛かり、亮くんからさっそく聞いたのか、「浴衣で行こう」と、はしゃいだ声を届かせる。

「大丈夫よ。柏木さんも、一緒に行くのが亮ちゃんと美馬くんなら、きっと怒ったりしないから」

ゆりにはまだ、聡ちゃんとのことは話していない。だから、亮くんと同じようなことを言う。

自分で終わりを決めながら、その別れに勝手に泣きながら、わたしはゆりに話すことすら、ためらっている。

それは「また恋にしくじった」という、恥ずかしさやプライド、または見栄に隠れた大きな訳がある。

彼女の前で、彼との別れの経緯を再現することが辛かったからだ。

「浴衣ね、わかった」

彼女の話に相槌を打ち、約束を交わし、電話を切った。

決めたはずの恋の終わり。

なのに、あっけなくそれは揺らいでいるのだ。

『薫子と、別れる気は、ないから』と、決然とも言える堅い声で彼がくれた言葉に、やっぱりわたしはどうしようもなく移ろいで、ときめいて……。

シンクに溜まったグラスや皿を、機械的に洗う。ただ水の冷たい心地よさを感じているだけ。

きゅっと締めた水道のコック。

人気のなくなった西日の差す店の中で、わたしは、溢れる涙を頻りに指で弾いた。

ひどい、聡ちゃん。

わたしの気持ちも、感情も、何がそれらを生んだのかも、ちっとも汲んでくれない。

勝手に、気紛れに、プロポーズなんてしないで。

 

 

お祭りの当日は、夕食も外で済ませようと、六時頃に出かけてきた。その仕度もあるし、少々疲れたのとで、店は午後二時からは閉めた。

歩行者天国になった城址の周囲を、幾つもの山車が巡行する。道路沿いにはずらりと夜店が並び、カップルや家族連れ、またグループと人出も多い。

ゆりが食べたいというお好み焼きのお店で、ご飯を食べた。美馬くんがきれいに焼いてくれるお好み焼きを、亮くんがぐちゃぐちゃに切り分けて、ゆりがふくれた。

「もう、亮ちゃん、美馬くんがせっかくしてくれたのに」

「いいじゃない。噛んだら一緒だって」

食事の後でぶらぶらと歩く。道路沿いにぎっしりと詰めかけた人々の波と同化して、大きな山車が動くのを見た。

人ごみだから、とゆりが当然といった顔で、美馬くんと手をつないだ。確かにひどい人で、その波をかき分けるにも紛れてしまいそうだ。

「じゃあ、わたしも」

と、亮くんが差し出した手を握った。さっき彼がかじっていたりんご飴のせいで、指先がねちゃっとする。

一向にそれに構わず、また何か食べたいと言い出した。彼はチョコレートバナナを買い、わたしにラムネを買ってくれた。

「ありがと」

手をつないだまま歩く。ぽりぽりと亮くんが食べ、わたしもラムネを飲んだ。いつの間にか、少し先を行っていたゆりたちが見えない。

夜店の明かりと街灯で、辺りは眩しい。焼きそばの匂いの中にカステラを焼く甘い匂いが混じり流れ、人波に、ほのかに誰かの整髪料の香りも漂う。

「前もこんなことあったね、花火の夜。ほら、咲子姉ちゃんたちと」

「眼鏡の、サッカーの中田に似たあの人がいた」

「え、それ、仁科さんのこと?」

「そう」

言われれば似ているような、そうでないような…。今度仁科さんが店に来たとき、じっくりと観察してみよう。

「僕、薫子さんが、あの中田の方を選ぶんだったら、嫌だなって思ってた」

「え」

「知らない奴が、薫子さんとくっつくの、面白くないよ。僕の憧れの人なんだから」

どこまで本気か、そんなことを言う。

亮くんは、既に食べ終えたチョコレートバナナの棒を、電信柱の影のくずかごに放った。

「仁科さんは、いい人よ。大人だし、優しいし…」

離婚歴もあるし。

ひっそりと胸につぶやいた。

彼なら、聡ちゃんのような馬鹿みたいにストレートなプロポーズをしたりしないはず。きっとじっくりと待って、わたしに合わせてくれるだろう。将来も、気持ちも考えてくれる……。

こんなことを考えるのはおかしい。聡ちゃんと比較したりして。

わたしが条件で恋はできないと、叔母の忠告も、仁科さんの優しさも振り切ったのだ。

「喧嘩したの? 柏木さんと」

ぽろりと、こんなことをたずねられ、ぎょっとなった。ラムネを唇から離し、「どうして?」と問うと、彼はそれに答えない。

ふわりと笑って、りんご飴のせいで真っ赤になっている舌を出して見せた。

「ぺーぺーの医者だけど、柏木さん、薫子さんだけだよ」

「え」

「他に、目なんていかないよ」

彼はもう一度、「ぺーぺーの医者だけど」を繰り返した。

それにわたしも、おかしくて笑う。

どこかしょげたわたしの気配に気づいて、励ましてくれているのだろうか。慰めてくれているのだろうか。

とぼけたような亮くんの声は、ふうわりとまあるく響く。確かにその言葉に癒されたのは事実。繰り返す「ぺーぺーの医者だけど」は、おかしくて笑えたし。

「ありがとう」

彼は何でもないように、ちょっと笑った。すぐ後で、「あ、次、僕とうもろこし食べたい」とわたしの手を引いた。

 

 

日曜の午後遅くに、咲子叔母さんが帰って来た。

家に電話があり、「お土産を買ってきたの」と言うので、暇を持て余すわたしは、彼女の住まいを訪れた。

寝室で叔母は着替えの途中だった。すとんとしたノースリーブのワンピースを足元に下ろし、スリップだけになっている。

姉妹のように育ち、互いの肌など見慣れているので、どちらも意識もしない。

「疲れた」とベッドに腰掛け、そのまま横になった。

「ありがとうね、留守」

「ううん。土曜は店、午後二時までにしたの」

「そう」

叔母が指すので、バックを開け、包みを取り出した。薄い箱型のものが二つ。帯締めだという。灰色のものを母に、臙脂のものをわたしにという。

「ありがとう」

しばらく叔母は横になったまま、動かない。手の甲をだらりと額に当て、天上を見上げている。

「どうだった? 高見さん」

「うん、素敵だったわよ。あっちゃんがスーツなんて着るの、初めて見た。馬子にも衣装って、本当ね」

ホテルであった式典と、その後の祝賀会のことを、叔母は少し気だるそうに話した。欠伸をするので、眠いのかと訊くと、「そうね」と、やはりぼんやり答える。

体調でも悪いのかと、額に手を当てるが、別に熱もないようだ。そのまますうすうと寝息を立て始めたので、ブランケットを体に掛けて、寝室を出た。

あの様子じゃ、夕飯も億劫なのではと思い、キッチンで冷凍のご飯を使っておにぎりを幾つか作っておいた。「食べて」とメモを残して、わたしは叔母の家を後にした。

 

翌日は月曜で、『花の茶館』は午前からケーキを焼いたり、ランチの仕度で忙しい。

数日振りのランチタイムには、これまでのように、代わる代わるお客が途切れない。今日の日替わりのメニューは煮混みハンバーグと、春雨ときゅうりの酢の物、チリコンカン。他にスープとご飯だ。

大きな波のような時間が去り、溜まった洗い物も粗方片付いたところで、叔母に休憩にしようと言った。

「ねえ、咲子姉ちゃんは何が食べたい?」

水道を締め、タオルで手を拭きながら、そばの彼女を見れば、スツールに掛け、身を調理台に乗り出し、緩く伏せている。

こんな様子の叔母は、ひどく珍しい。わたしはびっくりして、彼女の顔を覗き込んだ。

「ねえ、辛いの?」

「ちょっと、体がだるいだけよ」

頬に触れた掌が熱い。熱があるようだ。わたしは店をそのまま置いて、肩を抱きながら、彼女を住まいへ連れて行った。

寝室へ上がり、ぐったりとする叔母をパジャマに着替えをさせる。

「お医者さん、行こうか?」

「いい。少し休めば楽になるわ。風邪よ。慣れない場所に行ったから、疲れたの、きっと」

ベッドに入った叔母に、食欲を訊ねるが「ちっともない」という。

「しばらくしたら、食べる気になるかもしれないけど、今はいい」

「じゃあ、後で何か作って持って来るね」

氷枕だけを用意して、わたしは店に戻った。

途中、折を見て叔母の様子をうかがう。よく眠っているので、起こすのも気が引け、そのままに眠らせておいた。

お客も途切れ、少し早いけれど五時には店を閉めた。ドアにクローズの看板を出し、カーテンを引く。

オートミールを中華粥のように煮たものと梨を持って、再び叔母の寝室に向かった。彼女は目が覚めていて、喉が渇いたのだと、キッチンで水を飲んでいた。

「どう?」

「大分、楽よ。まだ、熱はあるみたいだけど」

食事を勧め、叔母が食べる間に、薬箱から解熱剤を出してきた。水を用意し、食べたら飲んでと、テーブルに置いた。

「ありがとう」

叔母が食べる傍らで、わたしは梨を剥いた。外では子供たちが遊ぶ声がよく届く。近くに公園があるのだ。

耳に障り、眠れないだろうと窓を閉め、代わりにエアコンをつけた。

オートミールを食べた後で、梨を勧めると、叔母は素直に食べる。しゃりしゃりといい音をさせて食べるのを見て、食欲はあるようので安心する。

「明日、もう一日、休んだ方がいいわ。熱が引かなかったら、病院にも行かないと」

「うん…、多分大丈夫よ」

叔母は落さない化粧が気持ち悪いと、食事の後で顔を洗った。簡単に肌の手入れをし、瑞々しい素顔に戻り、またベッドに横になった。

素顔になると、化粧をするより叔母は若く見える。ぴんと張ったしみのない肌も、その透明感も。

そういえば母も同じで、きれいなもちっとした肌をしていたのを思い出す。自分のかさつき気味な頬に指を置き、わたしは数年後には、叔母のような肌をしていられるのだろうか、と考えたりした。

食器をトレイに載せ、立ち上がりかけたところで、階下の玄関から声が聞こえた。「咲子さん」と、呼ぶその声は、高見さんのものだ。

 

叔母を見ると頷くので、わたしは玄関に向かった。階段を下り、店に出るのとは別のドアを開く。

そこには高見さんが立っていた。髪がこれまでよりすっきりと短くカットされていて、まだ無精髭は少し残るものの、元々が、きれいな顔立ちの人だ。あれ、と瞬きするほど、普段に増してハンサムに見えた。

叔母は体調がよくなく、寝ていると言うと、「え」と眉を寄せた。ゆらりとして感じるすんなりした身体が、慣れた階段を、わたしより先に上がった。

叔母は、わたしたちが寝室に入ると、身を起こしていた。

わたしは食器のトレイを持ち、それをキッチンへ運んだ。食器を洗い、かごに伏せる。寝室をのぞくと、高見さんが叔母のベッドに腰掛け、彼女の腕に手を触れていた。

「…怒っているの? 僕があなたに無理なことを言ったから」

「そうじゃないの…」

「でも…」

「熱のせいよ」

「咲子さんの気持ちは尊重する。嫌なら、無理強いはしたくない。でも…」

二人のやり取りが聞こえる。ちょっと不穏な雰囲気に、喧嘩でもしたのだろうかと想像がつく。

「咲子姉ちゃん、わたし店にいるわ。片づけがあるから」

ドアを開けて声を掛けると、叔母が高見さんの背中越しに頷いた。「ありがとう」と。

後ろ手に扉を閉めかけたときだ。「ねえ、咲子さん…」と叔母に話す高見さんの声が、はっきりとわたしの耳に届いた。

 

「一体、自分の何を、そんなに見下げているの?」

 

それに絶句した叔母の様子は、重い沈黙からうかがえた。そして、それはわたしの胸にも、しっかりと響いたのだ。

扉が閉じた後も、わたしは店への階段を下りながら、知らず彼の放った言葉を反芻していた。

 

「自分の何を、そんなに見下げているの?」。

 

それは胸の中で、重さを増し、大きく広がる。




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