chicken girl
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (29

 

 

 

咲子叔母さんの熱は翌日も続いた。

元々が低体温の人で、その彼女に三十七℃五分も熱があると、だるいらしい。その日もベッドに物憂げに身を横たえていた。

わたしはこの日、叔母にも言い『花の茶館』を閉めてはいたが、彼女を見舞うため、いつも店に出るより早くに自宅を出ていた。

寝室にはふんわりと、叔母の好むゼラニウムのエッセンシャルオイルの香りがしていた。

コンソメスープでお粥を作り、温野菜のサラダを添えて出すと、喜んで食べてくれる。

「敏生さんも馬鹿ね、こんな優しい薫子を浮気ぐらいで手放すなんて」

などと笑いながらお世辞を言う。

叔母には、敏生がこの付近まで、わたしを迎えに現われたことも告げてあった。そして向かった先とそこでの出来事も。

そのとき叔母は「復縁は、一つの選択肢ではあるわ」とコメントし、わたしを驚かせたのだ。怪訝な顔をしただろうわたしに、その後彼女は「だから、一つのね」と笑いに紛らせた。

そのときは、おかしなことを言うな、程度の引っかかりだった。けれど、あの言葉をわたしに向けた叔母の気持ちは、今はよくわかる。

彼女は、わたしに自分がそうであるように、離婚経験者であってほしくないのだ。

一度別れてはいるものの、時期を見て、もう一度婚姻届を出しさえすればいい。周囲には少々の喧嘩などで距離を置いていたなど、適当に二人の空白の時間を誤魔化せばいい…。

それで多分、わたしの汚点は消える。なかったようにできる。叔母はそう考えたのだろう。

聡ちゃんとの恋の始まりに、いつか叔母は、「ちらりとも柏木くんに、離婚の引け目がなくいられる?」と、訊ねた。

女はそれがあると、辛いと。「あんたにはもう、傷ついてほしくないのよ。泣いてほしくないの」とも言っていた…。

叔母は多分、それでもって泣いたのだろう。わたしが知るよりも、きっとずっと多くの時間、涙にくれていたのかもしれない。わたしよりも深い傷に、ひっそりと泣いて、ひどく苦しんだのだろう。

どれだけの季節を、癒えない生々しい痛みを抱えて過ごしたのか…。

会えば、いつだって明るく朗らかに、前を向いた人であったのに。どこにその弱さを隠して、気丈に振舞っていたのだろう。

それに思い至れば、健気で可憐な叔母への愛しさで、胸がつきんと痛くなる。

恋に溺れないように。見極めて、傷つかないように…。

わたしにくれた言葉はそのまま彼女の気持ちでもあるのだ。

怖いのだろう、きっと。

再び心に傷を負うことが。

そして、また泣くのが。

恋人であり、深くつながるパートナーの高見さんに、彼女の背負うその傷が見えない訳がない。感じない訳がない。

自分と置く不自然な距離も、その強さの裏側の脆い弱さも。

きっとそんなものは、肌に触れ抱き合う過程で知れるはず。叔母の冷めた部分。冷えた恋の熱。

だから彼は言うのだ。「あなたは一体、自分の何を見下げているの?」と。

それが、彼の描く彼女なのだろうか。その色調のように、淡く、繊細で、どこか儚い…。

わたしは、ぺろりと食事を平らげていく彼女を眺めながら、彼の描く水彩画の叔母を思い出していた。

 

食事を摂った後で、叔母にりんごを剥いてあげる。自分も食べたくて、一個余分に家から持ってきた。

剥いて切り分けたそれを、ガラスの器に盛り、リビングのテーブルに置く。飲みたくて、紅茶を淹れた。

香る湯気が、カップからほのぼのと立ち上る。

不意に、りんごをかじる叔母がほろりと、「あっちゃんに、プロポーズされたのよ」と告げた。

「これが初めてじゃないのだけど」

わたしが昨日、高見さんが訪れた際の二人のことを、気にかけていると思うのだろうか。問わず語りに話してくれる。

ただ、話したいだけなのかもしれないけれども。

おばの話に、彼の言葉へ合点がいく。「無理強いはしたくない」と、言っていたあれは、プロポーズのことを指したものだったのだ。

「結婚しないの?」

「柏木くんを蹴った薫子に言われたくないわ」と、叔母は笑う。

互いに好きな人にプロポーズを受け、受け止めきれず、互いにそれに怯えている。おかしな符合にわたしも笑う。

これまで幾度かあった結婚の話を、叔母はかわしてきたと打ち明けた。

今回、高見さんが賞を獲り、それにより描く絵の価値も上がる。彼女を夫として支えられる自信がついたのだろうか、いつものさらりとかわせるやんわりしたものとは違い、今度のプロポーズの意味は重かった……。

「わたしがどうしても結婚に抵抗があるのなら、戸籍上は籍を入れない、事実婚でもいいからって。一緒に暮らそうって。あっちゃんは言うの」

ついでに、「今の関係が不安なのだって。先が見えなくて」と言う。

それは愛されているというのろけのよう。言いながら彼女も、唇をほころばせている。

「そこで、あの言葉よ。あんたも聞こえたのじゃない? 『自分の何をそんなに見下げているの?』。何か、こう、ばちんと頬を張られたような気分だったわ。我に返ったっていうか。……とにかく、目から鱗が落ちた感じよ」

叔母は少し笑った。はにかむように見えた。頬を両の掌で挟む。

目を瞬かせ、

「あんたとは違って、わたしは子供が産めないこともある。前の結婚で、夫をつなぎとめられなかったこと……、よく考えたら、ずっと最初から、あっちゃんは知っているのよね。知って、わたしを選んでくれたのよ。それでも、って」

にんまりと笑う。

嬉しいのだろうか。心の靄が晴れたように、胸がすっとするのだろうか。

「ついでに、五つも年が上のことも」

微笑んだ顔が瞬時に歪む。瞳から涙がこぼれた。閉じた瞼を叔母は指で押さえ、

「丸ごとの、そのままの咲子さんが好きだって。今のわたしに、過去も、何が欠けても、……足りないのだって」

喜びの涙を流す叔母に、わたしの涙腺も緩んだ。

嬉しくて、胸がぽんと跳ねた。

彼女の過去も辛さも、それ故の躊躇も。知りながらそれらを越えて、全てを含めて愛してくれる高見さんの存在が、嬉しいのだ。

『自分の何をそんなに見下げているの?』。

当たり前にこんな言葉をくれる彼が、まるで自分のことのように嬉しい。

自分を守るために作った幾つかのルール。強さのようで逞しさのようで、それは、いつしか日々の中で、自分を閉じ込める檻のように育っていた…。

わたしも同じ、何が違うというのだろう。

叔母のように、震え怯えていた。傷つくことの怖さに。目をつむり、せっかく伸ばしてくれた手を、信じられずにいた。

「よかったね、高見さんで」

頬の涙を指で弾く彼女に、しゅんと鼻をすすってからわたしは言った。

いいでしょう? と笑う彼女。

「他には、絶対見つからないわ」

やっぱりのろける叔母が可愛くて、嬉しくて。

幸せになる。

 

 

叔母の家を出たのは、お昼過ぎ。

あまりに退屈で、母に電話をして、やっぱり店を開けた。動いていないと所在なくて。

ゆりが喬さんと現れ、篤子ちゃんが菫ちゃんとやって来た。ぽつぽつとお客が流れ、空いた時間に、わたしはカウンターのスツールに掛けた。

エプロンのポケットから携帯を取り出す。

以前の電話で言った通り、しばらく連絡もくれない聡ちゃんにメールを送る。

 

『やっぱり、聡ちゃんが好き
薫子』

 

それ以上はきっと必要ない。本当の気持ち。偽れない気持ち。多分それだけで、彼はわかってくれる。

送ってから、自分に淹れたコーヒーを飲んだ。それがマグカップに三分の二も減らない間に、携帯のコールが鳴った。

着信は彼の合図。

そんなことで、簡単に胸がときめくのだ。久しぶりに声を聞けるのが嬉しくて、会いたくて堪らなくなる。

今は、遅いお昼の休憩時間だと言う。

『メール見たよ』

「うん」

以前の電話と同じ言葉。けれども、その声は柔らかい。当たり前のように優しい。

『薫子に会いたくて堪らない』

「うん」

『ねえ?』

「うん」

『うんって、ばっかりじゃ、わかんないよ』

「……聡ちゃんに会いたい」

彼は、よければ八時頃、勤務先の病院に来てくれないかと言う。

「面倒だったら、迎えに行くけど。勤務明けに、すぐに君に会いたいから」

そんな熱っぽい言葉をくれる彼に、逆らえない。彼の勤める病院まで出かけることなど、何の造作もなかった。

「うん、どこにいればいいの?」

それに彼は、外来のロビーで待ってくれればいいと言う。

『わかりやすいから』

週末は何をしていたのかを問われ、ゆりとお祭りに出かけたというと、不審げに、『ゆりちゃんと二人で?』と訊く。

「ううん、男の子と四人で」

『誰?』

途端に声が尖るのがおかしい。嬉しい。

亮くんとその友達の美馬くんとだと言うと、『何だ、亮ならいいよ』と、電話の向こうでちょっと笑う。

他愛のないやり取り。

これまで、当たり前にわたしたちの間にあったもの。

少し途絶え、消えてしまうと感じた不安と切なさを経て、時間を置いて再び交わすそれは、ひどく耳に甘い。

『じゃあ』と電話が切れた後も。

その後の彼が送ってくれたメールも。

ふんわりと幸せに、わたしを包む。

 

『僕も、
薫子が、
大好き。

 

カシワギ』

 

心を締めるほどにきりきりと、それはストレートにわたしに届く。

嬉しくて、恋しくて。

 

早く、聡ちゃんに会いたい。

 

わたしは店のドアベルが鳴るまで、彼のくれたメールを見つめていた。

 

 

母に「帰りは遅くなる」と言っておいた。

「あら、そう? あっちゃん?」

「だから、それは咲子叔母さんの恋人だって。わたしは聡ちゃん」

「はいはい」

からかう母を置いて、自宅を出たのは午後七時。余裕があるけれど気にしない。余った時間は病院で待てばいいのだから。

暮れの早くなった今は、もう辺りが薄く墨を流したようになっている。早、秋の気配か、虫の音も届くのだ。

シフォンの柔らかいスカートが、歩くたびに肌に心地いい。宵の始まりの中、華やかにときめく気持ちを抱き、お洒落をして彼との約束に向かう…。

それがちょっと恥ずかしくて嬉しくて。ちょっと頬が緩むのが、自分でもわかる。

バス停までほんの少し。

目的の場所に目を上げる瞬間、「にゃあ」と聞こえた。

猫がどこにいるのだろうと目を彷徨わせたのは、ほぼ無意識だ。ふと道路中央にうずくまる子猫を見つけた。

再びにゃあと鳴く。その大きな目がグリーンに光った。

どこか具合が悪いのだろうか。怪我でもしたのだろうか。辺りを見回し、車の訪れがないのを確かめ、わたしは道路の中央に出た。

激しく鳴く子猫を抱き上げたとき、ぱっと周囲が明るくなった。

「あ」

大きな音が聞こえたようにも思う。

身体を打つ、耐えがたい衝撃もあったようにも思う。

けれども、それらを意識するより早く、わたしの目の前が、ふつっと暗くなった。

幕を下ろしたように、何も見えなくなった。

微かに、「にゃあ」と鳴く、子猫の声を聞いたたようにも思えた。




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