報われたら良いのにと、何度願ったことだろう
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (4)

 

 

 

翌日、わたしは前置きもなく離婚したい旨を告げた。敏生は、ぽかんとした顔をした。

「どうして?」

不思議でならないと、目を細める。

休日の穏やかな日の差す、午前遅くのダイニング。彼はコーヒーのカップを片手に、新聞を広げている。

起き抜けに浴びたシャワーの後で、簡単なスウェットにTシャツを着ている。夕べの行為の残滓の見えない、すっきりとした顔をわたしに向けた。

「もう、一緒にいたくないの」

わたしはキッチンのカウンターにもたれ、彼がことりとテーブルに置いたマグカップを見つめる。

彼の瞳はやはり、見たくない。

同じ色をしているのだ。わたしの知る彼の瞳と変わらないそれを、わたしは見たくない。

その瞳の奥の、知らないあなたが怖いから。

「おいおい……」

敏生は新聞をばさりとテーブルに放った。まだぬれる髪をかきながら立ち上がる。

「夕べのことなら、嫌がってるのに、悪かったよ」

そんなことを言い、わたしの顎を指でつまむ。上を向かせる。それにわたしは抗った。顔を背ける。

「嫌がる薫子が可愛くてさ、止められなかった。昔見たAVをちょっと真似してみたんだよ。ごめん。でも、たまには変わったことをしようよ。飽きてくるだろ? ほら、俺たち夫婦なんだから…」

「あなたと夫婦でいるのを止めたいの」

敏生に、微かに怒りの気配を感じる。顎の指を外した。

「それ、本気で言ってるの?」

わたしは頷き、「ええ」とつぶやく。繰り返し「ええ」と。

浮気を止めてくれない彼を理解できないし、それをわたしに許すことを求める彼もわからない。

だから、別れたいのだと告げた。

しばらく彼は、返事をしなかった。わたしも沈黙のまま、彼の答えを待った。

随分と後で、彼が言った。

「何でも与えてるじゃないか。マンションも、時間も、金も。君が一番だと、言ってるだろう。浮気はほんの遊びだよ」

「あなたにはほんの遊びでも、わたしにはそうではないの。もう二度としないと誓ってくれる? できないでしょう?」

「自分の旦那はもてるんだ、くらいに構えてくれないかな」

敏生はまだそんなことを言っている。困ったように瞳を細め、軽く舌打ちをする。

「俺は、のちのちこんな下らない言い合いを繰り返したくないだけなんだよ。嘘ならついてやれる。わかったよ、二度と浮気はしない。これで気が済むのか?」

「下らないだなんて……」

「嘘を言い続ける方が、裏切りじゃないのか?」

苛立つ彼とは反対に、わたしはどんどん心も頭も冷えていく。醒めていく。彼と開く距離が、見えるほどに感じる。

嘘を言うことが裏切りだと言う彼。

だから浮気を認め、さらに繰り返すことを広言する彼。

わたしがほしいのは、彼のわたしだけに注ぐ気持ちだ。

知ってしまった彼の浮気も、反省し、二度としないと心から誓ってくれるのなら、許せると思う。そう努力できる。事故のようなものだと、忘れて、前向きに、これまでの生活を続けていける。

傷つけたこと、わたしの痛みを彼に感じてほしいのだ。

 

それだけなのに。

 

彼はその傷に慣れろと言う。ブランド品で気を紛らわせ、彼の「ママ」がそうであったように、慣れてくれと言う。

「別れたいの、あなたと。もう、あなたがわからないの」

唇から出た言葉は、乾いて聞こえた。じっとりとした胸の鬱屈もない。

わたしの思いを「下らない」と切り捨てる彼と、一緒にいられない。せめての思いやりすらくれない彼と、生涯を共になど、できない。

その思いだけ。

「俺を手放したら、きっと薫子は後悔する。それでもいいのか?」

傲然とした敏生の声は、ひどく冷たく耳に届いた。こんな声を出す人だっただろうか、とふと訝しく感じたほど。

でも、

後悔の方がまし。

あなたといるこの空間より未来より、後悔の方がまし。

 

 

離婚はあっけなく済んだ。

わたしがこのマンションを出て行くこと。慰謝料に(彼の母は手切れ金と言った)三百万円をもらうこと。

離婚にお互いが同意したのち、辛かったが、実家の母に連絡をした。電話口では、報告に母が大きく息をのみ、それをゆっくりと吐き出す、重い気配を感じた。

「そっち、帰っていい? …もう大阪には残りたくないから」

「いいよ。帰っておいで」

あまり詮索もせずに、会話は終わった。

元々が敏生との結婚にいい顔をしなかった母だ。「薫子とは、つり合わない気がするわね」と。互いの家のしきたりなどの違いをほのめかし、心配してくれていたのだ。

結局は、母の言う通りの結果に終わった。わたしは彼にはつり合わなかった。

彼に言わせれば、わたしという女は物わかりが悪く、わたしにとって、彼という男は得体が知れなかった…。

衣類や身の回りのものを実家に送れば、おしまいだ。三年の生活でなじんだはずの家具も空間も、モデルルームのそれのように、まるで他人の顔をして見える。

結婚の始末の日々は、切なさよりも淡々としたあっけなさが胸を突いた。

 

三百万の支払いは、わたしがマンションを出て行く日に、義母自らが小切手で行うという。敏生は仕事で朝から出かけ、場にはいない。

義母との電話での重なるやり取りで、すっかり体調を崩してしまった母に代わり、わたしを迎えに来てくれたのは、歳の若い叔母だった。

母の妹の咲子叔母さんとは、長く一緒に暮らしたこともあり、そして十一しか歳も離れていないため、わたしは姉のように思っている。

彼女は小柄なすんなりとした身を、麻のワンピースに包んでいた。ふんわりと巻いた髪が輪郭を縁取る顔は、この日は少々硬いが、わたしのよく知る、どこか清楚な雰囲気がある。

義母が小切手を持って現われた。

ぴらりとしたその長方形の紙を、滑らせるでもなく、テーブルにぽんと投げて寄越した。

「これ以上の文句は受けませんから、そのつもりでいて下さいね」

熱い日盛りに、義母はこれまでのように、和服をきちんと着ていた。扇子を使い、顔に風を送りながら、つんと顎を反らす。

三百万が、慰謝料ではなく手切れ金だと言う彼女の言い分は、確かにその様子に見て取れる。

義母には、わたしのからの離婚の要求が、理解できないのだ。「何で、些細な浮気くらい我慢できないのか」と、ここに至るまでの日々、執拗に詰問されてきた。

どうして我慢ができるのか。どうして我慢をしなければいけないのか。そう、わたしは逆に問いたい。

バックをそばに置き、既にマンションを出るばかり。

咲子叔母さんが、わたしの代わりに裏返った小切手を取った。

「確かに、いただきました」

バックにしまいながら、

「姪の三年の年月を、そんな風に投げて寄越さないで下さい。いただいたお金は、彼女のこれからの大切な資金になります」

彼女の言葉に、義母が扇子の手を止めた。叔母の声に棘はないが、しっかりした響きを持っている。

「今回の離婚は、元は敏生さんの不倫が原因でしょう。それに対して、薫子が選んだ結果です。大人の二人に、身内とはいえ外野がとやかく言うのは慎むべきだと、控えてきましたけれど…。
息子さんの不倫に悩む姪に、「なぜ我慢できないのか」とおっしゃったそうですね。教えて下さいな。
反省も詫びもない夫の不貞を、なぜ、妻は我慢しなくてはならないんでしょう?」

静かに淡々と、けれどひどく落ち着いた叔母の声は、最後にこう結んだ。

「一体、人の家の娘を何だと心得られているのです?」

意外な叔母の言葉に、すっかり目を見開いている。これまでは、ただ上から一方的に物を言う義母しか知らなかった。

その様子に、最後の最後にいいものを見たと、わたしは場違いに頬がちょっと緩んだ。胸がすく思いがする。

何やら口元をもごもごと動かし、それでも言い返す言葉を探す義母を前に、叔母はこほんと軽く咳払いをした。隣りのわたしを見、

「さあ、薫子、帰りましょう」

 

帰りの新幹線の中では、二人で並び、ワゴン販売の幕の内弁当を食べた。

昼間からビールを買う叔母にちょっとびっくりした。

「いいのよ、お祝いよ」

可愛い顔で、そんなことを言って笑う。

その笑顔に何気ない様子に、どれだけ救われているか、癒されているか。

ぷしゅっとプルトップを開け、缶をぶつけ合う。

「あんな下らない一家と縁が切れたお祝い」

「ありがとう、咲子叔母さん」

叔母が唇につけた缶から、少しビールがこぼれ、喉に伝う。「あら」とそれを彼女は何でもないかのように、手の甲で拭った。わたしがハンカチを出すとそれで手を拭う。

「いいのよ。お姉ちゃん、心配してたわ。薫子がしょげて、落ち込んでるんじゃないかって」

「そう」

「お姉ちゃん、神経痛がまた痛むみたい。ひどくなる、まだ梅雨の前なのに」

「ひどいの?」

「ううん、それほどでもない。それより、本当はあちらのお母さんに会いたくなかったのよ。きっととんでもないことを口走っちゃうからって。電話で、かなりやり込められていたからね。ほら顔を見ちゃったら、つい…」

「例えば、息子ボケの、クソババアとか」と、叔母はささやくように言った。

それにわたしがくすりと笑う。

「確かに、息子ボケ気味」

叔母が来てくれてよかったと思った。

わたしのため、顔に似合わない啖呵を切ってくれたのも、嬉しかった。わたしにはまだ言えなかった。同じ思いはあったのに。権高な義母を前にして、あの家の嫁だった遠慮や怯みが、やはりにじんでくるのだ。

「出戻りは、わたしに次いで二人目だから、ああ見えてもお姉ちゃん、免疫があるわよ。大丈夫」

「そうかな」

子供ができない身体なのを理由に、叔母が離婚を言い渡されたのは、八年前だった。

悄然として家に帰ってきたのを、その頃、まだ高校生だったわたしは知っている。いつも朗らかで優しい彼女が、部屋に閉じこもり、泣いていたのをわたしは知っている。

それから数年後に、慰謝料を元手に彼女はカフェを開いた。大学で家を出ていたわたしも、帰省のたびに、アルバイトがてら店を手伝ったものだ。

叔母はビールを喉にやりながら、わたしにまた店に出ないかと誘う。

「落ち着いたらでいいの。薫子が次にやりたいことを見つけるまででいいのよ。アルバイトの子が急に辞めちゃって、困っていたの」

多分、それは叔母の思いやりだ。離婚の後に家に戻り、目的もなくぼんやりと過ごす日々のやり切れなさを、彼女は身をもって知っているから。

わたしはそれに頷いた。

叔母が来てくれて本当によかった。

頬を涙がこぼれた。

それは悲しみではなく、帰る場所があるという安堵だ。そして、叔母への感謝の涙。

いてくれて、ありがとうの涙だ。

 

敏生との日々も、報われない願いも。皆、この瞬間過去になっていく。




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