心に降り積もったものを溶かせるのはわたしだけなのに
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (5

 

 

 

奥の座敷から、口三味線の音がする。

母から三味線を習う生徒さんの声。それに遅れ、手直しをするように母の声が入る。

わたしは茶の間の壁掛け時計を見上げた。木の古い振り子の時計は、午前11時をそろそろ指す。

やや湿度のある気候に合わせ、冷茶を淹れた。盆に乗せ、それを座敷に運ぶ。

八畳の座敷には、軸のない床の間を背に母が座り、扇子を使っていた。緩く編んで上げた髪に、最近膝が痛むとかで、浴衣も着ず、母の言う『アッパッパー』というワンピース姿だ。

数度顔を合わせたことのある、近くの置屋に席を置く芸妓の鈴乃さんがいた。年の頃はわたしの少し上辺りほど。稽古中の浴衣姿の素顔ではあるけれど、ゆったりとした顎から首、肩の線、そして雰囲気がさすがに色っぽい。

わたしの登場に、そろそろ稽古もおしまいかと、にっこりと笑う。

「じゃあ、今日はここまでで。鈴乃ちゃん、あんた、ねえ、もうちょっと練習の欲を出さないと、上手くならないのよ」

そういう声も笑いを含んでいる。母が膝にもたせた三味線を、傍らに押した。

「お師匠さん、すみません」

鈴乃さんは、軽くうつむき詫びるものの、勧めたお茶にすぐに手を伸ばす。

「ありがとう、薫子ちゃん」

「暑いわねえ」などと、もう母の忠告をさらりと流している。

彼女のとりとめのないない話にちょっと付き合い、わたしは母に、これから咲子叔母さんの店に行くと告げた。

「お素麺の用意だけ、してあるの。後で食べて」

母はそれにうんと頷く。姉妹だけあって、咲子叔母さんによく似ている。どちらかといえば丸顔の彼女に比べ、母は面長な方だ。

白い肌のしみも弛みもない顔を見ると、娘ながら、若い人だな、などと思う。

「薫子ちゃん親孝行で、いいですねえ、お師匠さん。いい娘さんがいて」

「何のいいことが。出戻ってきたんだもの、家のことくらいするのが当たり前でしょ」

「あははは、厳しいね、薫子ちゃん」

わたしは鈴乃さんのそれに、ちろりと舌を出した。

「居候は、肩身が狭いのよ」

そのまま、じゃあと挨拶をして、座敷を出た。古びた家のきしきしという階段を上がって、自室に入る。ちょこっと化粧を直し、髪を直し、それでおしまい。どうせ剥げる口紅も引かない。リップクリームだけにしておく。

がらがらとガラスのはめ込んだ引き戸を開け、外に出る。

「行ってきます」

念のため、もう一度大声で、母のいる奥に伝えておく。「は〜い」という間延びのした声が返ってきた。

 

咲子叔母さんの店〔花の茶館〕は、花滝温泉街を奥深い場所にある。

山を背にしたこの温泉街は、街を貫いて渓流が緑の水を流している。それを両から飾るように木々の緑が彩り、朱のアーチを施した橋が架かる。山裾までの軽い遊歩道もあり、カメラを手にした観光客が、ふらふらと散歩する姿がちらほら。好みの場所を写真に収めている。

秋になるともっときれい。

山も緑もすべてが紅く染まり、それは本当に見事なほどに美しい。

大きな旅館、小さな旅館、宿泊客を目当てにした商店が、こちょこちょと点在する街。

わたしはここに生まれた。

自転車を漕ぎ、小路を走る。夏になりたての風は温く、それでも頬に受ける風は心地がいい。

桜の葉がさわさわと揺れる坂道を上り、ちょっとこんもりとした潅木の後で、急に〔花の茶館〕は現れる。

叔母が、誰かの別荘であった古いログハウスを買い取り、手を加え開いたのがこの店だ。ポーチには、敷いた敷石のあちこちにカモミールやミントが茂る。駐車場の隅の庭のスペースからずっと伸びて、こんなところにまで繁殖している。

ドアベルの鳴る木の扉を開けるとカウンターには、高見さんが一人だけ。

お昼にはまだ早く、朝には遅い。

「いらっしゃい、高見さん」

彼はジーンズに、Tシャツを着てその上にシャツを羽織っていた。そのいずれも、どこかに油絵の具がべっとりとついている。

ちょっともさもさしがちな長めの髪。唇の上のうっすらとした無精ひげ。すっきりとしたら、五割増しに素敵になるのに。と思う。顔立ちはきれいな人である。

それを言うと、叔母は「あっちゃんは、これでいいのよ。でないと、若い子に持っていかれちゃうでしょ?」などと、本気なのか冗談なのか、笑って言うのだ。

高見さんは美大出の絵描きさん。ちなみに、叔母の五つ年下の恋人である。

ブランチなのだろう、叔母のお手製のロコモコを食べている。

エプロンを着け、カウンターに入る。叔母が既にランチの用意に忙しげだ。

フードメニューはケーキやスコーンの他、大してメニューには載せていないが、日替わりランチは出している。それを目当てにやって来るお客も、案外多い。地元の人ばかりになるけれど。

高見さんはそのいい例だ。遅くに起きて、ほぼ毎日ブランチをここで摂る。

優しい低い声で、ぽつりぽつりと話していく。今度友人と共同で開く個展のこと、その案内状のデザインのこと。その案内状のデザインのこと。ある展覧会に出品してしまった作品が、少し心掛かりなこと…。
「繰言なんだけど。もう、出した後だから」
笑みをにじませ話す、低くかすれが入る彼の声は、聞いていて耳に心地がいい。

創作中の作品が急いているのか、煙草を一本吸ったばかりで彼は立ち上がった。

「咲子さん、今夜来れる?」

「ええ、いいわよ」

そんな二人のささやかな、ちょっと甘いやり取り。

叔母のそばで、鯵のつみれをたくさん丸めているわたしの頬もにやにやと緩んでくるのだ。

高見さんの後には、どっとお昼を食べに来たお客さんが続き、その対応に時間を忘れた。

手際よく叔母が調理を進め、それをわたしが飾りつけ、盛り付け、運ぶ。

今日のランチメニューは、鯵のつみれ揚げと野菜の筑前煮、きゅうりとわかめの酢の物にお味噌汁とご飯。

近くの役所の人、または会社の人など。波のように現れて、ざっと引いていく喧騒。

「おいしかった」、「ごちそうさま」、「また来るよ」…。

大概の人が、会計時にさりげなく残してくれる言葉。レジを受け持ちながら、「ありがとうございます」とそれに答えるわたしは、自然に唇が笑みを浮かべているのだ。意識もせずに。

くるんと、ゴムでシニョンしただけの髪。鼻の頭に浮いた汗の粒。昨日と同じジーンズ。

二週間前のわたしと、なんて違うのだろう。面白いほどに、違う。

時間をかけ丹念に巻いた髪もない。サロンにしばらく行かないため、指の爪は裸のまま。

誰もそんなわたしを知りもしない。気にしない。

そして、わたしが楽な心で、それを心地いいと感じているのだ。

 

午後の割りと閑散とした時間、買い物から店に戻ると、カウンターには見慣れた姿があった。

高校からの同級生のゆりだ。叔母にあれこれ話している。叔母の合図にくるりとこちらへ振り返った。

「薫子、お帰り」

嫁いだ先の仕事を手伝っているためか、彼女はほんのりと日に焼けている。さっぱりとした気性の彼女とは、ずっと親友できた。すっきりとした美人である。

大阪にいた頃も、折りに電話やメールを交わしてはいた。けれど、彼女は暇を十分に持っていたわたしとは違い、仕事があって忙しい。なかなかやり取りもできずにいた。

今回わたしが離婚に伴って、実家に帰ることをメールで知らせると、すぐに返事があった。実家に帰った日の晩に来てくれて、あれこれ事情を聞いてくれた。

それ以降も、仕事の合間にふらっと店にやって来て、顔を出してくれるのだ。

好きな彼女との付き合いが、実際的な距離が縮まったため、また濃くなったのは、何より嬉しい。

「小早川さんとこの、ほら『みーくん』、喬さんと同い年で、幼馴染の」

前置きもなく、ゆりは話し出した。

その彼女の前に、叔母がアイスティーを置いた。

礼を言い、口を付けたゆりから背を向け、買ってきた生クリームを冷蔵庫にしまう。野菜類はかごに入れる。

そうしながら、思い出している振りをしていた。

「近所じゃない。覚えてないの? ほら、わたしたちの結婚式にも出てくれたじゃない」

ゆりに「ほら」と促されるまでもなく、『みーくん』のことはよく覚えている。中学のある時期から高校のある時期まで、多分わたしは、彼にひっそりと恋をしていたのだから…。

「ほら、高校のとき痴漢が出たじゃない、この辺りで。そのとき、パトロールに出てくれていた人」

「ああ、あの、空手のお兄さん。確か、子供空手教室の……」

「そうそう、その『みーくん』。喬さんと今でも、子供空手教室を見てくれているの。ほぼ喬さんに引きずられて、みたいな感じだけど」

ゆりが言うには、その『みーくん』が一年ほど前に結婚したこと。それがすごく若い女の子だと続く。

「へえ」

「篤子ちゃんでしょ。ここにも紅茶を買いに来てくれているのよ」

叔母がゆりの話に相槌を打った。店には、叔母が取り寄せる、販売用の紅茶の茶葉も数種類も置かれている。

「喬さんとは小早川さん幼馴染だから、篤子ちゃんにもよく会うのよ。可愛い子よ。いい子だし」

その後でやや声を潜めて、ゆりは、篤子ちゃんがまだ現役の女子短大生であると告げた。

「え」

それには驚いた。学生結婚が珍しいのと、わたしの中の『みーくん』のイメージが、それとは合わないのだ。

六つ年上の、当時大学生だった彼は、のっぽで、ちょっと眠たげな目をした優しい人だった。密かに見つめた記憶は、褪せてもまだ胸に消えない。

どうしてだろう。数年前のゆりたちの結婚式で会った彼より、わたしはすんなりと、それよりずっと昔の彼を頭に描いている。

それは、当時胸に抱いた彼への淡い恋のせいだろうか。

「よく、篤子ちゃんのご両親が了解したわね」

「そうね、ちょっと犯罪的かも」

そこでゆりが、ぷっと笑う。彼女は大の恋愛ゴシップ好きだ。特に知人友人のそれに興味しんしんで、本人曰く「ご飯がすすむくらいおいしい」話らしい。

「それでね…」

彼女が知る、結婚に至る『みーくん』の恋愛エピソードのおかしなものを披露してくれた。

他愛ないそれに、つられてわたしも笑う。

「あ、あのね」

ゆりは、彼と篤子ちゃんの他にご主人の喬さんの友人を呼んで、週末バーベキューをするのだと言った。

その用で、『みーくん』こと小早川さんが、じき、ここに現れるという。

「もう来るかも、仕事の合間にちょっとここに寄ってくれるらしいの」

「え」

ひどくはないけれど、胸が騒いだ。おかしいけれど、鏡を見たいような、そんな気分になる。

「薫子も絶対来てよ。篤子ちゃんも、短大の友達を連れてくるらしいの」

ちょっとためらう。彼女の好意は嬉しい。気晴らしのために呼んでくれているのだとわかる。

その優しさが嬉しい。

けれど……。

まだ人前に仕事ではない形で出ることに、怖じけた気持ちがあるのだ。引け目のような、そんな気持ち。

そのとき、からんとベルを鳴らし、ドアが開いた。条件反射に、叔母もわたしも声を出した。

「いらっしゃいませ」

襟のタイの緩んだYシャツの背の高い男性が入ってくる。

すぐに、それが『みーくん』であると気づく。

懐かしさが、胸にじんわりと込み上げた。

部活の後で暗くなった夜道を、彼らが、家まで送り届けてくれた。懐中電灯を持って。テレビの話や共通の知人、教師のことなどを話しながら……。

そんな過去が、まぶしいほどに懐かしく胸に溢れるのは、ずっと以前、恋した彼を前に、わたしがセンチメンタルに陥っているからかもしれない。

確か、当時大学生だった彼は、とうにワイシャツにネクタイの似合う大人になっていた。

誰にでも降る時間。気づかない間に、しんしんと降り積もり、人を大人に変えていく。知らない若い女の子と、結婚までする…。

たとえば、わたしは彼の目にどう映るのだろうか。大人びたと、思うのだろうか。苦労をしたと感じるのだろうか。

小さな町だ。離婚をし、出戻ったわたしの件を、彼が知らないはずはないと思う。誰かからか耳にし、きっと知っているはず。

小早川さんと目が合った。

「お帰り、薫子ちゃん」

昨日会ったように気負いのない、穏やかな彼の声に、わたしはごく当たり前に返した。

「ただいま」と。




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