痛いくらいの羨望がわたしの目に映る
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (6

 

 

 

アイスコーヒーを淹れ、目を戻せば、『みーくん』こと小早川さんは、煙草に火を点けたところだった。

ゆりとバーべキューの打ち合わせをしている。

声をかけたメンバーのこと、多分それがきっと増えるだろうこと。

「あ、本城が白い焼きそばは任せろって。ゆりちゃんは用意しなくていいよ」

「うん。でも白いって?」

そこでなぜか、小早川さんが笑った。

「焼きそばかどうか、謎だけど」

わたしに向いて、「本城って、僕らと大学が同期の奴なんだけど、実家がうどん屋でね、何かというと、うどんになるんだ」と、補足してくれた。

「薫子ちゃんもおいでよ。面白い奴だから、あいつに会うだけでも価値があるよ」

そこでゆりが思い出し笑いをしている。よほど楽しい人らしい。

「今、誘ったところなの。ね、薫子来るでしょう? 手伝ってもほしいし」

「う、ん……」

返事をしかねていると、彼は叔母も誘う。

「咲子さん、あっちゃん画伯と一緒に来てよ」

「そうね、多分、一食浮くとなったら、喜ぶわ」

簡単に叔母が答えるので、つられる形でわたしも頷いた。

そのバーベキューは今週末の夜。もう四日しかない。

今のわたしの置かれた立場で、知らない人たちの前に出ることに、ややたじろぐように心がひやりとする。

離婚して、出戻ったばかりなのに……。

いいのだろうか。

けれど、柔らかく、ゆりと小早川さんに何だか「こっちへ」と、手を引かれたようで…。彼女らのさりげないほどの優しさに触れて、戸惑う心が凪いだ。

大丈夫なのだと。

それは悪くない気分だ。

 

 

土曜の夕方、店の後でゆりの嫁ぎ先の河村さんのお宅に向かう。自転車は置いて、ふらりと歩いてきた。

ちょっとむっとする軽く湿った空気だ。ビールがさぞおいしい夜になりそう。

河村さんの家は店から近く、やや町の奥まった場所にある。お屋敷と言ってもいいくらいの大きな家だ。

その芝生の広い庭が、バーベキューの場になるのだ。着くと、駐車場から庭に回った。既に、庭には炭が起こされており、テーブルの用意などほぼできている。

腕いっぱいにビールの缶を抱えた河村さんに会った。頭にタオルを巻いている。彼も懐かしい、あの空手のお兄さんの一人なのだ。線の細い小早川さんとは違い、がっしりとした体つきをしている。

「いらっしゃい、薫子ちゃん。咲子さんたちは後から?」

「ええ、そう。ゆりは?」

「キッチンにいるよ」

お邪魔すると、ゆりはおにぎりを作っていた。「手伝って」と言うので、持参のエプロンを着け、わたしも加わる。

あれこれ喋りながら幾つもおにぎりを作っていると、大学生くらいの男の子が、ひょいとキッチンに顔を出した。

何も言わずに、並んだおにぎりをつまんだ。

「亮ちゃん、今食べると、後で入らなくなるわよ」

それには答えず、彼はじっとゆりのそばのわたしを見ている。ちょっと女の子が放っておかないほどの可愛い顔立ちをしている。

確か、河村さんの歳の離れた弟だったはず。わたしが知るのは、彼がまだ高校生くらいの頃のことだけれども。ごついイメージのお兄さんとは対照的に、この彼はほっそりとしている。

「こんにちは、亮くん」

「何で離婚したの?」

ストレートな質問に、怒る気も起きない。ただ虚を突かれるばかり。

彼のような大学生でも、この町の人は、わたしの離婚を知っているのだ。それに、ため息に似たものが出る。

「亮ちゃん」

ゆりがおにぎりを握る手を休めて、肘で彼の頭をこつんと小突いた。

「大人には、大人の理由があるの」

亮くんは握りたてのおにぎりをつまみ、頬張りながら、

「だって、興味あるじゃない」

そんなことを言う。

「薫子さん、きれいだし」

彼の言葉を笑って誤魔化しながらも、ちょっとだけどきりとする。

随分としばらく、男の人に「きれい」と言われていない自分を認める。最後にそんな言葉をくれたのは、美容室の人だったろうか、それともショップの誰か。もしかしたら、機嫌のいいときの敏生だったかもしれない…。

今のわたしからは遠い言葉に、年下でも、内心嬉しかったりするのだ。

「生意気なことを言わないの。ほら喬さんが、さっき呼んでいたわよ。頼みたいことがあるって」

「無理。僕、みーくん家に行ってくる」

米粒のついた指を舐めながら、ふらりと出て行く。ゆりはその彼の背中に、声を掛ける。

「もう、後で喬さんに怒られても知らないからね」

ゆりが片頬をふくらませた後で、声を潜めて言う。

「実はね、亮ちゃん、薫子のこと、前から気に入ってたのよ。あの子、年上が好みみたい」

「からかってばっかり」

「どうして? 守備範囲は広い方がいいじゃない。あれで可愛いし、優しいとこもあるのよ」

明け透けなゆりの冗談には、本気もほの見えるから虚脱する。

「わたしは離婚したばかりだって」

「そんなの、薫子しか気にしていないわよ。ね、わたしたち義姉妹になったら面白いわね」

などとにやにやと喜んでいる。

「嫌よ、こんな義姉ができるなんて」

「あはは、寝室まではのぞかないから大丈夫」

そこでゆりは、亮くんが今夜バーベキューに連れてくる大学の友達に、それは素敵な男の子がいると言う。

「美馬くんっていってね、ちょっといないくらいかっこいいの。あの子は目の保養よ。楽しみにしてなさいよ、薫子。でも、気に入ったら、持って帰ってもいいから」

「もう、ゆりったら……」

「とにかくね、美馬くんを見たら、ああ、人生早まった、と思うわよ、絶対。もう…」

ふつっとゆりが言葉を切った。キッチンに河村さんが入ってきたのだ。亮くんを捜しにきたらしい。小早川さんの家に行ったと告げると、

「手伝えって言ってあったのに。あいつ、すぐ逃げるからな。帰ったら、プロレス技で締め上げてやる」

ぶつぶつとこぼしながら、キッチンを出て行った。

このお兄さんにプロレス技で締め上げられたら、さぞ怖い。

ゆりは頬を緩めたまま、ぺろりと舌を出した。

「喬さん、あれでヤキモチ焼きなの」

そんなことをささやく彼女は可愛い。

少し羨ましいほどに。

 

辺りがうっすらと暮れ始めると、ぞろぞろと人が集まり出した。

小早川さんも、彼が経営する予備校の仲間を数人連れて来た。その中に先だって話題に上がった本城さんがいた。

大柄で朗らかな人だった。小早川さんと共同経営をする予備校では、英語の講師をしているらしい。

彼らと遅れてやって来た、わたしは初めて会う篤子ちゃん。小柄な子で、ぱちりとした瞳が印象的な可愛らしい人だ。こんな場に、マメに動き、気配りもできる。

何となく彼女を選んだ小早川さんの気持ちが、わかるような気がするのだ。

亮くんに彼女が、「若女将」と呼ばれているのが不思議だったが、すぐに合点がいった。小早川さんのお宅は、旅館が家業だ。彼女はそこにお嫁入りしたのであるから、「若女将」という訳だ。実際、若女将業を務めているらしい。

亮くんとは仲もいいらしく、やたらとからかわれている。

篤子ちゃんは菫ちゃんという、これも小柄な可愛い友達を一人伴っていた。本城さんは彼女の登場に、すっかり気もそぞろになっている。

ゆりの情報によると、本城さんは菫ちゃんに「お熱」らしい。

「でもねえ」

網に野菜やお肉などを乗せながら、ゆりが続けた。「ほら」とわたしに顎で見て、と示す。

彼女の視線の先には、炭を棒の先でいじりながら笑う、手足のすらりとした男の子の姿が目に入った。跳んだ火の粉にびっくりしている。

すっきりとした横顔、正面を向いた顔も整って、確かにちょっといないほどのハンサムではある。彼が「目の保養になる」美馬くんらしい。

「菫ちゃんは、やっぱり美馬くんが気になるみたい。歳も近いし」

「なるほど」

見れば、ゆっくりとビールを飲む彼女の身体は、そばの本城さんではなく、美馬くんを向いているのだ。

けれど、普段は小早川さんと篤子ちゃんを交えた四人で遊びに出かけることもあり、菫ちゃんも、本城さんのことはまったく眼中にない訳でもないらしい。

「この恋模様、堪らないわね」

ビールを飲みながら、ゆりは芯から楽しそうにそんなことを言う。

 

暗くなる頃には、咲子叔母さんが高見さんを連れて、ワインを提げてやって来た。仲良く手をつないでいる。

その頃には皆ほどよく酔いが回り始め、食も進み、ひどく和やかなムードだった。小早川さんの予備校の仲間とも話した。

本城さんはやはり、焼きそばではなく、実家から持ち出したらしい打ち粉の付く、高級そうなうどんを持参してきていた。

「白い焼きそば」

周囲の軽いブーイングにも、「大丈夫、ソースですぐ黒くなるから」。どこかおかしみのある彼のキャラに、笑みがこぼれた。

一人、遅れてやって来た男性がいた。Tシャツにジーンズ、サンダルをつっかけている(皆、似たようななりだけれども)。

目の大きな人だった。

河村さんの「そう」という呼び声に、彼は、

「悪い、今来た」

と応じ、渡されたビールの缶をすぐに開けた。喉が渇いていたのか、かなり飲んで息をつく。

ちょっと目が合った。瞬く黒目がちの大きな瞳。

それが横にやや緩んだ。

「腹、減ってるんだ。その玉葱くれる?」

わたしがちょうど焦げ始め、網の隅に移動させた玉葱を彼が指した。

紙皿に、他にもソーセージや焼けたお肉を乗せて「どうぞ」と渡す。小早川さんや河村さんと話し始めていた彼が、渡したそれに、「ありがとう」と返した。

さっそく玉葱をかぶりついている。ほお張りながら、「昼から食ってないんだ」と笑う。唇からソースが垂れた。それを手の甲でざっと拭う。

そこで目が合い、また笑った。

笑うとほんのりと少年ぽくなる。可愛い笑顔をする人だな、と思った。小早川さんたちの同期らしいけれど。

不意に、耳元にくすぐったいほどの吐息が掛かる。ゆりだ。

彼女はごく小声で、

「三十二歳。独身。フリー。○×総合病院のドクター」

とささやいた。

いたずらっぽく笑い、「どう?」と問うのだ。

「何が、どう? よ……」

「もう、しっかりしてよ」

苦笑しながらも、彼女がささやき続ける彼の名前。

ひどく新鮮だった。

柏木さんという彼を、わたしの前に、彼女がそういう対象として置いたことが新鮮だった。

そう思うほどに、新鮮だった。

今の自分からはとても遠いけれども。恋など考えられないし、考えてはいけない。

けれど思う。

わたしはどれだけ恋をしていないのだろう。

それすらも、自分で答えられない。






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