まったく解っていない癖に、解ったような顔しないで
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (7

 

 

 

誘蛾灯がときに、ばちばちと音を立てる。

家の開け放した縁側からもれる明かりと、ところどころに置かれた照明。目の前のピーターコーンの焼ける香ばしい匂い。

しっとりとした空気の中、どんどんと宵が更けていく。

キッチンでの宣言どおり、河村さんは酔いも手伝って、芝生に座り込み、弟の亮くんに足技を掛けている。

「亮、お前、手伝えって言ってあったのに、逃げただろうが」

「痛い、痛いってば。兄貴」

軽い悲鳴をあげて、亮くんは口に挟んだままの煙草を、堪らずにそばの灰皿に投げ入れた。皆の笑い声が上がる。こういう光景は珍しくないようだ。

「みーくん、助けて。兄貴を止めてよ。痛いってば」

これもくわえ煙草の小早川さんが、やれやれとばかりに立ち上がり、「ほら、亮は反省しているって。許してやれよ」などと、河村さんの肩に手を置き仲裁に入った。

「お前はすぐにそうやって、みーくんに泣きつくんだからな」

ようやく亮くんから、河村さんが脚を解いた。素早く逃げ出した亮くんは、小早川さんの後ろに回り、舌を出している。

ゆりは笑いながら、「いつもああなの」とこぼす。

「仲がいいのか悪いのか。もう、いい年をして、二人とも」

いつの間にか、亮くんがするりとそばにやって来た。網の焼けたピーターコーンを手に取り、「熱っ」と言いながら口に入れる。

ちらりとも懲りていないよう。さっきのお兄さんのお仕置きも、ゆりが言うような、仲がいい故のじゃれ合いみたいなものなのかも。

座り込み、

「ねえ、怪力兄貴の足技、すごい効いたんだけど、折れてない? 診て」

亮くんは器用に口にピーターコーンをくわえたまま、ハーフパンツの足を、柏木さんの膝にぬっと差し出した。

柏木さんは、「時間外はしないよ」と笑う。それでもちらりと脚を眺め、ぺちりと叩いた。

「大丈夫。もう十回くらい、河村にやられても平気」

「ちぇっ」

亮くんはそれで脚を引っ込め、柏木さんに質問を重ねる。「医者って、儲かるのか?」、「医者って、もてるのか?」……などなど。

お兄さんの友人ということでよく知るらしい、親しげな雰囲気が伝わる。

不躾なの亮くんの言葉に、気分を害した気配もなく、柏木さんは「ピンからキリまであるよ」で済ませた。

「へえ、柏木さんはピンからキリのどの辺り? …こんな安そうな時計してるくらいだから、知れてるか」

じろりと彼の手首の時計をのぞき込んで、生意気なことを言う。彼の腕にあるのは、日本メーカーのクロノグラフのもの。

「安くても電波だし、これで欲しい機能が全部揃ってんだよ」

「ふうん」

ふらりと亮くんは立ち上がった。「若女将、カブトムシ見せてやろうか」などと陽気に問いかけている。

その彼をちょっと視線で追った柏木さんが、

「亮、でかくなったな。僕のイメージじゃ、いまだに小学生なんだけど」

そんなことをぽつりとつぶやいた。

そして、自分が地元の大学を出た後、京都の総合病院にこれまで勤務していたことを告げた。その間忙しく、あまり帰省ができなかったことも。

「わたしも、久しぶりに会ってびっくりした。煙草なんて吸っているんだもの」

「あれ、薫子ちゃん、こっちの子じゃないの?」

「そう、この近所よ。でも最近まで出ていたの。こっちに帰って来たのは、一月ほど前なの」

彼の目がぱちりと瞬いた。「どこ?」と問う。

それにわたしは「大阪、千里の辺り」と答える。

「僕は三ヶ月前。どうして? 転職でUターン?」

返事にちょっと躊躇した。

「あ、焦げる」

ゆりが網の上に手を出し、ピーターコーンの残りを彼の皿にドンと乗せた。他にもナスとかお肉とか、たくさん。

それにちょっと慌てた彼が「ありがとう」と返した。箸を動かす。わたしに目を置いたままだ。

彼は花滝温泉の人ではないというから、わたしの離婚の件は知らないのだろう。多分、この場にいる誰もが、敢えてそんなことを彼に入れ知恵したりはしない。

わたしは少し笑った。隠すことでもないし、周囲のいたわるような、それでいて興味ありげな視線にももう慣れた。

そんなの、ちっとも痛まない。

ここで暮らしていくには、そんなことで屈託などしていられないのだ。結婚を決めたのも、その破綻を決めたのも、わたしなのだから。

「離婚して、出戻ってきたのよ。大阪から」

やや視線を下げ、「バツイチ」と付け加えた。

返ってきたのは、ちょっとした沈黙と、間。

その後で、

「ごめん」

柏木さんの声がした。

「ごめん」という彼の言葉に、わたしはどう返したのだろう。さりげなく「平気」と言ったのか、「気にしないで」と言ったのか。

手持ち無沙汰を、ビールを飲むことで誤魔化したのだけは事実。

ふと彼の皿を見ると、さっきゆりが山盛りにしたものが、短い時間に空になっている。大分食べた後で、おなかができていたはずなのに。

「困った顔して、やたらと食べていたのよ」と、ゆりが耳打ちをする。「薫子が黙り込んだから」と。

「あ、咲子さん、ねえねえ、いただいたワイン開けていい?」

不意にゆりが立ち上がった。咲子叔母さんに話しかけている。「いいわよ。飲みましょうよ」と、叔母の声。それに「あ、飲みたい」と声が続いた。

「グラス出してくるわ」

「あ、わたしも、手伝う」

立ち上がりかけたわたしの肩にちょんと置いたゆりの手に、徐々に力がかかる。

「いいのよ、薫子は。座っていなさいよ」

ゆりは鼻歌を歌いながら、縁側から家に入った。

多分、きっとグラスを取って来るのに、彼女は随分と時間がかかるだろう。別に、変な気を回さなくてもいいのに。

これが彼女の楽しみでもあり、趣味なのだ。誰かの恋模様、その観察。

内心苦笑する。わたしも今、彼女のその趣味の対象になっているらしい。

おかしくなってくる。

そこで、わたしは、いまだに黙ったままの柏木さんに打ち明けた。ゆりが妙な気を使っているらしいこと。それを気にしないでほしいこと。

そんな彼女の一方的な趣味で、わたしを押し付けられては、彼だって迷惑だろう。

「今夜も引っ張り出してくれたのは、彼女なの。わたしが離婚に、いじいじとしているように見えるみたい」

「いじいじとなんか、して見えないよ、君は」

ようやく彼が口を開いた。

それがきっかけになる。問われて、いろいろ話した。わたしが今、叔母の店を手伝っていること。母が三味線を教えていることなど。

尽きると、今度は彼の仕事の話を訊いた。

「お医者さんって、どんな?」

「救急センターにずっといたから、こっちに帰ってきても、やっぱりそこ。○×総合病院には、そこそこ大きいそのセンターがあるし」

「救急センターって響きが、もう怖い。ひどい怪我の人が多いのでしょう?」

「それもあるけど、今日なんか平和だったよ。肩と股関節の脱臼。そればっかりが、三人も」

「経験あるから肩は、わかるけれど……。股関節って……、え?」

「だから、最中だったんだろうね。ほとんど裸だったし。無茶なことしていたんじゃないの? それを他の医師と二人がかりで引っ張って」

吹き出してしまった。この彼が真剣な表情で、見知らぬ誰かの脚を、懸命に引いている……。その図が、頭に浮かぶ。

「ごめんなさい、笑って」

慌てて頬を引き締めると、彼も笑っていた。

「僕らは慣れ過ぎて、笑いも起きないよ」

どういう聴覚なのだろう。そこで、「「そう」が、薫子ちゃんにエッチな話をしている」と、本城さんがこちらの話に割り込んできた。随分お酒が回っているのか、頬が赤い。ご機嫌な様子。

「女の子にエロイ話をするなよ。お前、医者だからって、許されると思うな。そんなことはなあ、僕が留学していたイギリスでは……」

しばらく彼のイギリスステイ話が続く。

「本城、菫ちゃんが、お前に訊きたいことがあるって」

そう声を掛けたのは、多分、小早川さんだ。彼の声に聞こえた。

呼ばれた本城さんは、菫ちゃんの名前に、あっさり柏木さんに背を向けた。「菫ちゃん、なあに?」と、声が明るい。

「面白れぇ奴だよな、相変わらず」

柏木さんがおかしくてならないというように笑う。

「何が、『なあに?』だよ。三十過ぎた男の言葉じゃないって」

その後で、彼が今の病院には、姉が看護師として長く勤めていることを話した。

「姉貴の方が偉いんだよ、主任になっていて。科が違うから、あんまり会わないけれどね、それが救い」

何となく頷けた。お姉さんがいそうな雰囲気。優しいというか、ちょっとだけ可愛いというか…。

こんなことを言うと、失礼だけれども。

敏生も姉がいた。彼にどこかで共通する雰囲気があるように思う。

 

どちらが切り出したのだろう。

わたしがビールの酔いや、もしくは周囲の賑やかな雰囲気に酔って、勝手に口を滑らせたのかもしれない。

離婚をして家に戻ってきたときの気持ちと、その変化。

真剣に、ときに相槌を入れ聞いてもらうのは、心地がいい。他愛もない心の移ろい、そして落ち着き始めた今の暮らし。

そんなことを、つらつらと話した。

「実家で眠るのことに、すごく安心したの。ああ、帰ってこられたんだって。ここには確かに、彼がいないんだって。そう思うと、初めてぐっすりと眠れたの」

「…何があったの?」

それは、わたしの話からごく自然に出た問いのはず。

とても話せる内容ではない。返しに口ごもったわたしに、彼はすぐ「ごめん」と首を振り、その質問を打ち消した。

「結婚すると、相手の嫌な部分が見えてくるの?」

「うん……、いろいろ。こんなはずじゃなかったのに。こんな人じゃなかったはずなのに、て」

心の一端を話すことで、楽にもなる。けれど、過去のほんの切れ端を話すことで、封じ込めたい記憶を甦らせてしまうこともある。

衣服を剥がれ、レイプされた宵のことなど、まだとても人に言えない。それが直接の離婚の引き金。彼の浮気は、その遠因でしかないのかもしれない。

抗えない力でねじ伏せられ、血のにじむ思いで耐えた辱めは、きっと受けた当の本人にしかわからない。今でも、あれは、許せない。単なる悪意ある暴力だ。

もしかして、それで溝を埋める夫婦も、稀にあるのかもしれない。でも、わたしたちは違った。

 

あのときから、わたしたちは終わっていたのだ。

 

意図せず浮かぶ、暗いイメージを紛らすように、手のビールを口に含んだ。ずっと握ったなりで、それはもう温くなってしまっていた。

「わたしには、彼じゃなかったの。あの人じゃ駄目だったの。彼だって、きっと同じことを思ってるのだろうけれど、あの女じゃいけなかったんだって。離婚は、わたしにとってリセットかな、やり直すための」

おしまいのつもりで笑った。湿っぽい話は、今の場にそぐわない。笑って、締めたつもりだった。

いきなり、柏木さんが手の缶をぎゅうっとつぶした。飲み口からは残ったビールがこぼれた。

 

え。

 

唐突な仕草に、虚を突かれる。

「どうかした?」

わたしが差し出した紙ナプキンを、彼は受け取らない。ビールでぬれた手を全く気にせず、ぐいっとジーンズで拭った。

すっと立ち上がり、ちょっとわたしに瞳を向けて、すぐに逸らした。少し視線が尖っているように思えたのは、見間違いだろうか。

「そんなに気持ちいの? リセットするって」

それだけを言い、わたしの前から離れた。

河村さんや皆に、「明日早いから、帰る」と告げているのが聞こえた。

「あれ、うちに泊まればいいのに」

引き止める小早川さんの声にも、

「いいよ、酔い覚ましに歩いて帰る。途中、タクシーでも拾うから」

そんなことを言ってかわした。

もう一度も、わたしを振り返らなかった。

明らかに、わたしの話に何か気を悪くしたようだった。中身の残るビール缶を潰し、ふいっと立ち上がり、それきりだもの。

 

「そんなに、気持ちいの? リセットするって」。彼の言葉だ。

 

調子に乗って、わたしが自分の離婚劇を吹聴し過ぎたのだろうか。美化し過ぎていたのだろうか。それが鼻について、堪らなくなって……。

急な柏木さんの辞去に、ゆりが心配そうにわたしを見、そしてそばに来た。

「何か、あったの?」

「ううん、何でも。ちょっと離婚の経緯を話しただけ。面白くなかったのね、きっと。こんな場で言う話じゃなかったのに。わたしがいけないの」

「そんなことないわよ。いいムードだったのに」

まだ彼女はそんなことを言っている。

それに苦笑がもれる。彼女に空のビール缶を振って見せ、

「もっとビールもらおうかな」

「ごめん、薫子……」

やや眉を寄せるゆりが手渡してくれた新しい缶を開け、口を付けた。泡が口の中に広がる。ちょっとぬるい缶だったようだ。それでもさっきよりぐっと冷たい。

「どうして、謝るの? ゆりのせいなんかじゃちっともないのに」

誰のせいでもない。きっとわたしの何かが彼を遠ざけたのだ。

いずれにせよ、そんなことをいちいち気に留めていられない。腐ってなんか、いられない。

離婚という経験は、わたしを確実に強く、そしてちょっとずつふてぶてしくしていく。

大丈夫だと。

間違っていないのだと。

自分の選んだ人生の選択に、正しいのだと、自分を支えるために励まし続け、掛け続けた言葉。

自分でしかほしいときに、ほしい場所で言ってあげられない言葉。

だから、ひっそりと唱え続ける、自分への慰撫の言葉。

別れたことに迷いなど、ないけれど。

後悔などないけれど。

わからないまま、人に背を向けられるのは、それでもやはり胸に堪えるのだろう。

 

あなたに何がわかるの? 何を知っているの?

 

何も知らないあなたに、わたしの何がわかるというのだろう。

わたしは笑顔とは裏腹に、そんな腹立ちの繰言を、胸の中で幾度もつぶやいているのだ。








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