木漏れ日が顔に当たってくすぐったい
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (8

 

 

 

どれくらい、一日に紅茶を淹れているのだろう。または、コーヒーを。

お湯を注ぐ、立ち上がる香り、それにふわりと辺りが染まるように思う。

心の奥にその香りがしみていく瞬間を感じる

「淹れる側が、一番いい香りを味わえるのよ」

これまで、咲子叔母さんは何度もそんなことを口にした。茶葉や挽いたコーヒー豆が、熱湯と触れ合うその瞬間に立ち上がる香りは、徐々に劣化していく…。

お客に出されるときには、僅かに温度が下がり、微かに香りも弱くなる。

「それでも、いい香りだけれども。わたしたちが一番に感じるあの香りではないのよ」

そんなことを大抵はちょっと寛いだ時間、店の忙しさの後に、彼女は口にする。嬉しそうに和らいだその表情に、わたしもすぐ同化する。

「これがわかると、この仕事は楽しいわよ」

そう言って微笑む。

過去の悩みの残り香は、今の叔母の雰囲気には見当たらない。屈託なく澄んで、柔らかだ。

どこにしまったのだろう。もしくは、どうやって乗り越えたのだろう。

きっと苦しんで悩んで模索し、時間をかけ、今の居場所を見つけたのだ。それがきっと今の叔母を作っている。成している。

ほのかな自信と、頑なとは別種の揺らがない自分…。

わたしの手にないものばかり。

わたしが自分で作り出し、そして見つけなくてはならないもの。

どれほどかかるのだろうか。

または手にできるのだろうか。

「薫子が来てくれて、本当に助かっているのよ」

叔母の焼く物にほぼ近いシフォンケーキが焼け、紅茶もコーヒーも、ほぼ彼女の好むレベルで淹れられる。嫌なお客にも、感情を顔に出さないで対応できること。

姉妹のように育ったから、互いに気の置けないこと。

叔母が、わたしが店にいることを喜んでくれるのは、こればかりではないという。

「あんた、わたしに似ているのよ、どこか」

わたしの中に「早く」、「何かを」と、焦りのようなものを見るからだろうか。叔母はそんなことを言ってくれる。

慰めでもいい、お手本にする彼女にどこか似ているというだけで、嬉しいのだ。「焦らなくても、急がなくてもいいのよ。きっと見つかるから」と、そんな風に言ってくれているようで。

「そりゃあ、お母さんのあの味付けの濃い煮物を食べ続けた仲だもの」

そう返すと、叔母はあははと笑う。くるんと巻いた髪がそれで揺れる。

「あれは、濃かったわね。お姉ちゃん、全部同じ味だったし」

「文句言うと、怒るしね。自分で作れって」

「そうそう、三味線のばちを持ち出しかねない」

わたしたちはそれで、母のわるくちを他愛のなく言い合い、笑う。

こうなりたい。こうありたいと思い、願う対象がすぐそばにあること。

それはときに、今の小さな及ばない自分を見せ付けられて、ため息をついてしまう。

けれど、そばにあってやはり嬉しいのだ。いつだって、なりたい「わたし」を目にできるのだから。

きっと、それはわたしにとって、目に見える幸せだ。

 

 

ランチの仕度を手伝うためと、ケーキを焼く時間がほしいのとで、店に出る時間を開店の十時に一時間早めた。

いつものように、三味線の音が奥の座敷から響く。生徒さんに出すお茶の用意と母の昼食の仕度をしておいて、家を出た。

暑くて、ユニフォームのようにしていたジーンズに気が向かない。コットンのスカートをはいた。自転車を漕ぐたびに、ふんわりとその裾が風をはらんで気持ちがいい。

ラフな感じのワンピースがほしい。涼しい雰囲気のスカートも。そうなると、バックも、手持ちの革のものではおかしいし……。週末はそれで、ちょっとショッピングに行こう。時間が合うのなら、ゆりを誘おうかな。

つらつらとそんなことを思いながら、自転車を走らせた。

店の前には業者用らしいワゴンが停まっている。車体の赤いロゴマークがちらりと目に入った。

ドアを押して入ると、カウンターにポロシャツの男性がいた。叔母と何か話していたようだ。ドアの音に、くるりとこちらを向く。

細いフレームの眼鏡のその人は、わたしにぺこりとお辞儀をした。それに、叔母の声が続く、

「『フード・デリバリ』の社長さん。小麦粉の仕入れをお願いしようかと思っているのよ」

営業の人らしく、腕も顔もこんがりと日に焼けている。ほっそりした目が微笑んで、まるで二本の線になる。すっきりとした顔立ちのちょっとハンサムな人だ。

叔母より幾つか若いように見えた。

カウンターに入るわたしに、叔母が話す。今の仕入れ業者が、叔母の好む小麦粉を扱わなくなること。それで、以前から顔出しをしてくれていた彼を思い出したのだという。

「少量でも、配達しますよ。咲子さんの指定する小麦粉の他にも、○○製のクリームチーズも扱いますし。ある程度の品数を注文してもらえると、サービスもさせてもらいますから」

叔母はエプロンを着けるわたしを見た。

「どう? 薫子、チーズケーキあったらいいとか言っていたわよね」

「うん、レアチーズは特に、夏は出ると思うんだけど。ほら、作るのも楽だし」

「そうねえ」

ちょっとの逡巡の後で、叔母が「じゃあ」と注文を頼んだ。今週分の小麦粉はあるからと、来週からクリームチーズも併せて依頼している。

叔母の言葉に彼は頭を下げた。

「ありがとうございます」

「社長自ら営業にマメに来られると、弱いわ。忙しいでしょう?」

叔母の声で、わたしは彼にアイスコーヒーを淹れた。彼はグラスに汗をかいた冷えたそれを、礼を言って口を付けた。

「社長、社長と呼ばれると照れますよ。社員は自分も入れて、三人しかいないんですから」

「へえ、後はアルバイト?」

「まあ、適宜ですね。忙しい時期もありますし」

「ねえ、薫子。彼、脱サラして、オーガニック食材を専門に配達する会社を、二年前に始めたのよ。以前は保険会社にお勤めだったのよね」

それに彼は、ほぼグラスを空にした後で頷いた。喉が渇いていたようだ。

「それは随分、業種が違うんですね」

わたしの言葉に、軽く手を振り、

「いや、元々実家が農家なんですよ。無農薬の野菜を作っているんで、野菜はそっちから卸しています。だから、全くのゼロからって、訳でもないんですよ」

「それでもすごいわ」と、叔母もわたしも口にするのに、「いや、全然」と、照れたように頭を掻いている。

不意に、わたしを見て、「薫子さん、でしたっけ?」と尋ねた。

「はい」

「咲子さんの妹さんですか? 顔も似ているし、雰囲気も…」

それに答えたのは、叔母だ。笑いながら、「姪よ」と言う。

「妹だなんて、仁科さん、お口が上手ね」

「いや、ほんとにお世辞でも何でもなく、姉妹だと思ったんですよ。美人姉妹のいるカフェなんて、なかなかないなあと、感心していたんですよ。本当に」

これにはわたしも笑ってしまった。やっぱりお客商売の人だから、女性への対応が上手い。

鵜呑みにする訳ではないけれど、気分は決して悪くない。

「美人」姉妹は別として、以前から叔母とは、姉妹に間違えられることも多かった。彼女はすんなりとして、若く見える。その場限りで、説明が面倒なときなどは、姉妹のまま通すことだってあるのだ。

『フード・デリバリ』の社長仁科さんは立ち上がり、「ご馳走さまでした」と両手を合わせた。

「次にお邪魔するのは、来週の火曜日に納品に上がります。他にも何かありましたらお電話下さい。こっちの方へ回るときも多いので、ぜひ寄らせてもらいますから」

改めて丁寧に頭を下げ、彼が店を出た。

わたしはカウンターを拭き、ボックス席の窓辺に庭で摘んだミントを飾る。叔母がランチの仕度に入るから、と声を掛けた。

頷いて、カウンターの中に入る。今日のメニューは、若鶏の唐揚げ甘酢あんかけ、それにポテトサラダ、小松菜の煮浸し、お味噌汁とご飯。

一口大に切った鶏肉を、調味液の入ったボウルの入れ手でこねていると、これもランチの下準備、そばでポテトサラダを作り始めた叔母が、

「バツイチだって、彼」

と言う。

「彼って?」

「さっきの社長よ。仁科さん」

「ふうん」

「前の奥さん、彼の脱サラが、どうしても納得いかなかったのだって。大手の保険会社の社員だから結婚を決めたのに、いきなり会社を辞めて、実家に帰って食品配達の仕事を始めるのじゃ、話が違うって」

「ふうん、まあ、生活もあるだろうから……」

「三十四よ。ちょっといい男でしょ? 彼、薫子のこと気になるみたいだったわね」

「珍しいんじゃない? 初めて会って」

味がなじんだ鶏肉をおいて、あんかけを作り始める。手を洗い、鍋をコンロに置いたところで、再び叔母が、

「ねえ、悪くないのじゃない? 仁科さん」

「馬鹿なこと言って。咲子姉ちゃんまで、ゆりみたいなこと言わないでよ」

「あら、恋をするのは悪いことじゃないじゃない。出会いがあったら、遠慮なんてしていちゃ駄目よ」

わたしはそれに返事をしなかった。煮立っただし汁に、調味料を加え、味を見る。叔母にも見てもらい、OKが出たところで、とろみをつける。

「ゆりちゃん、あんたに悪いことをしたって、気に病んでいたわよ。先週のバーベキューで、余計なことをして、薫子を傷つけたんじゃないかって。ほら、みーくんの友達のあのお医者さん。柏木くん」

叔母が言うには、ゆりがわたしの留守中に、ここに来て叔母にそう打ち明けたという。落ち込んでいなければいいと、気にしていたらしいのだ。

その優しさは嬉しい。

「ふうん」

バーベキューの途中、ふいっと帰ってしまった彼のことは、もう気にしていない。彼には、わたしの離婚話がどこかできっと癇に障ったのだろう。

そして、そのことについて、わたしは謝るつもりもない。和やかな場にそぐわな話題だったのだろうけれども、誰を中傷した訳でもない。詫びる理由などないはず。

それに、もうどうでもいいのだ。彼のことは。もう、会うこともないだろうし…。

「もういいんだって、柏木さんのことは。全然気にしてないもの」

叔母は、手をてきぱきと動かしながら、

「だったら、ゆりちゃんに気を揉ませるようなことをしなさんな。あんた、今週ちょっとぼんやりとしていたわよ」

「そう?」

思わず頬に手をやっていた。知らずに、顔に出ていたのだろうか。ほんのりとした落胆と、自分へのちょっとした嫌悪感…。

叔母はそんなわたしを見て微笑んだ。それから時計に目をやる。

そのほんの後に、ドアが開いた。からんとしたドアベルの音と共に、叔母の恋人の高見さんが、眠たげな顔で現われた。

 

 

ランチタイムの喧騒が果て、叔母と二人でほっと息をついた。わたしがアイスティーを淹れ、グラスを彼女に渡す。

「ありがとう」

互いに一息に、半分ほども飲み干す。

どちらからともなく笑い。「生き返る」などと言う。忙しさを乗り切った後の爽やかな疲労感。そんなものが、叔母との間に漂っている。

お客いなくなり、がそろそろ休憩を兼ねて、遅いお昼ご飯にしようかという頃、からんとドアが開いた。

現れた人物に、目を見張った。まず街中で見かける姿ではないだろう。濃いブルーの上下のユニフォーム、胸にはネームプレートをつけたまま。

「あの、薫子ちゃんに……」

そう口にしながら店内に入ってきたのは、柏木さんだった。

彼はカウンターの前にまで来、わたしと目が合うと、ちょっと照れ臭そうに目を伏せ、ややして瞳を戻すと、少し笑った。

休憩時間に、病院を抜けてきたのだという。

それは、その姿をみればわかる。ポケットから、聴診器がのぞいているのだもの。

彼は手の小さな箱をわたしに差し出した。「ナースのお薦めの店のシフォンケーキ」だという。受け取りかねて、傍らの叔母を見ると、頷いている。

遅れて、おずおずと手を伸ばした。

それから、わたしより一つ分ほど上にある頭を下げた。

「ごめん。この間は、大人げないことをして。本当にごめん」

「あの、もういいの。そんなに謝らないで。気にしてなんかいないから」

「薫子ちゃんには、まったく関係がないんだ。僕だけの問題で、勝手に君の言葉を……、変に意識し過ぎたんだ。ごめん。反省してる」

わたしはあの夜、彼に何を言ったのだろう。その明確な言葉をもう覚えていない。

彼はようやく顔を上げ、もう一度、ごめんと繰り返した。わたしはそれに、両の掌を振って答えた。

「いいの、本当に」

そこで彼は確認するように、わたしを見つめた。大きな瞳は瞬いて、しばらく留まる。

照れくさく、むずがゆいような居心地の悪さを感じた。ふと、ランチの残りを思い出し、

「柏木さん、お昼食べた?」

そこで彼が腕の時計を見た。亮くんがバーベキューの夜に、「そんな安い時計」と言っていた、あの時計だ。

「いや、時間がなかったから、すぐに出てきたから…」

「ちょっと、待って」

わたしはランチメニューの余ったものを、店のケーキのパッケージに詰めた。ご飯はおにぎりにして幾つか。その仕草の傍で、「休んでいって」と叔母が、彼にアイスコーヒーを出してくれた。

手早く詰め終えたものを、彼に渡した。足りないかもしれないが、おなかの足しにはなるはず。

「後で、よかったら食べて」

ちょっとびっくりしたような、そんな表情をしている。迷惑だったのだろうか。きちんと昼食を摂る時間がないだろうと、車の中ででも食べてもらえるように渡したのだけれども…。

受け取ると、礼を言い、すぐに彼は店を出て行った。

勤務先の病院までは、ここまで往復四十分はかかるだろう。それで、きっと休憩時間の大半は過ぎてしまうに違いない。

それでも、謝りに来てくれた。

何だかそれが、恥ずかしいほどに嬉しい。

彼が帰った後で、カウンターに置いたケーキの箱を眺めながら、叔母は、

「ここにはシフォンケーキは、売るほどあるのだけど」

などと笑う。

「柏木くん、可愛い。あの真摯さがいいじゃない。好きよ」

叔母はそんなことを言って喜んでいる。顔は仁科さんより好みだとか、でも薫子は、落ち着いてる仁科さんの方がきっとタイプなのだろうとか…。

好き勝手、楽しげに、にやにやと笑ってわたしを見ながら話すのだ。

「どうする? 薫子」

からかうそれに、わたしは「お昼は冷やし中華が食べたい」と、とぼけて答えた。

 

何も始まっていない。

まだ、何にも始まっていない。

 

ふと、彼が消えたドアを見やる。

それから、まぶしい光の指す窓に目を転じる。コットンのカーテンの下りたそこから届く光を、わたしはどこかくすぐったい思いで眺めるのだ。




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