さようならの先に
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そんな風に思ったことはなかった。でも、それはわたしには都合のいい解釈だった。見返せば、相馬さんは頷いている。「それでいいのだ」と。この人はこうやって、人の重荷を軽くしてあげるのだろう。幾度もそうやってきたのだろう、そう思った。
「それと、もう一つ、またうるさい爺さんの老婆心だが…」
滞在中はこういった忠告めいたことは、あまり口にしなかった人である。敢えて口にしてくれるのは、別れが迫った今だからだろう。不思議な共通項を持つ、わたしへの志しは、彼の心からの餞別に思えた。
「相馬さんの言葉はありがたいです。うるさいなんて、もったいないわ」
「あんたは素直な人だな。元からそうなのか…。だからあくどいのに食い物にされそうな目に遭ったのだろうが。その美点はいいとして」
「…何ですか?」
「伯爵にはもっとものを言った方がいいと思うぞ。疑問も何もぶつけた方がいい。何もかものみ込んで、唯々諾々と従うだけが、妻じゃないだろう。確かに、あの人は何でもあんたにくれただろうが、そういう恩と、夫婦であることは別じゃないか? あっちの常識もあろうが、あんたたちは対等に見えなかった」
わたしは力なく笑った。邸に住まえば、誰にもそう見えるのだ。わたしが、ガイの望むままに振る舞い、その範疇でのみ自由を持たされているように。きっと事実であるが、それはわたしの意志でもある。
相馬さんはそんなわたしたちを「対等ではない」と言う。けれど、わたしがしたことで、ガイが眉をひそめる、言葉に詰まる…、そんな仕草を目にするだけで、わたしはきっと気持ちが塞いでしまう。
彼と過ごした年月で、彼の好みを把握し、限界のその一歩も二歩も手前に、わたしは自分の行動を制している。既にそれは習慣を超えた癖になった。そしてそれは苦でもない。だが、妻が夫の顔色を常に読むような仕草は、傍目に見良いものではないのだろう。
「…それは、わたしがあの立場に不慣れで未熟なためです」
「どこぞの議員の奥さんみたいな答えだな」
相馬さんはそう笑う。模範解答だとおかしいのだ。それでもそれは、わたしの真意だ。ガイのために出来ることなら、微力でも尽くしたい。そう思う。対等であるとか、そうでないとは関係なく、それは彼の妻となったとき、わたしがひっそりと自信に課した役割なのだ。
それは、あのレディ・アンへの安っぽい対抗心であったかもしれない。あなたとは違うと。あなたがガイへ奉げられないものの、その全てをわたしがあげる。必ずガイを幸せにするのだ。そんな決意がわたしの意にぴたりと沿い、動かし続け、そうして今に至る。
陳腐なセリフだが、ガイが日常に満ちているのなら、それはわたし自身をも満たすものになる。
「それであんたは、幸せか?」
「ええ。一度別れたから、より思います。相馬さんの目には、おかしいかもしれませんけど…」
「いや、人の目なんか関係ない。あんたに不満がないのならいいんだろう。だが、夫を立てるのはいいことだが、自分を殺してまですることではないぞ」
はいと頷きながら、心では思っている。死んでしまったっていいのだ、と。わたしの色があるとして、それがガイの好みのもので塗りつぶされたとしても、いいのだ。それは、完璧にあの世界に溶け込むことに思えた。塵ほどの隙もなく。
「まあ、あの伯爵が、あんたにはめろめろ甘いから、それでつり合いは取れているのかもしれんがな」
「まあ」
ちょっとおどけて返した。そうしつつ、その言葉はわたしの気持ちの奥ををじゅんと嬉しがらせる。彼はさっき、わたしの過去の後悔について意見をくれた。あの人について「とても優しい人間は、誰にも優しい」と言った。わたしは知っているのだ。
あの人と違い、ガイは優しさを振りまく人ではない。物腰は紳士然として穏やかであるが、どこかでぴたりと内側への蓋を閉じている。決して中に入れない。つき合いの浅い人は、それを冷たさに感じるかもしれない。彼は、許したごく一部にのみ、心を砕く人だ。
甘えを許すのも、差し出してくれるのも、限られた者に対してだけの優しさだ。きっとわたしは、それをふんだんに浴びながら暮らしている。既に感じるそのことを、改めて知るだけで、わたしは満たされるのだ。
対等でなくたっていい。思いの量に違いがあってもいい。彼がわたしを変わらず求め、許してくれるのを知るから。
ふと、それを自分を縛る甘やかな鎖に感じた。イメージが迷わず浮かぶ。鎖は先にあの懐中時計につながり、彼が手指にその銀鎖を絡め巻いている…。
そのとき、ごくかすかに列車が揺れた。身体に感じたのではない。この列車は揺れを感じさせない。知ったのは、カップのお茶がわずかに波立ったことでだ。
相馬さんを見た。姿が薄らいでいる。あ、と声を上げそうになった。薄くぼやけつつある身体を通して、椅子のビロードが透けている。もう表情も読めない。
別れなのだ。
わたしは外套のポケットを探った。彼に手渡そうと、焦った。こんなに唐突にやって来る別れに、虚を衝かれていたのだ。取り出した小箱を彼へ差し出す。当たり前に目に入る自分の手に、心が凍った。
 
わたしの手が消えていく。




             

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