さようならの先に
13
 
 
 
それはいきなりの出来事だった。
目の前が、突然幕が下りたように暗くなった。その暗闇の中、わたしは意識も失わず、自分の何かが変わるのを感じている。その恐ろしさは経験のないものだった。少しだけ過去にノアを産んだ際、強い痛みと恐怖を味わったが、それとは違い、出口も終わりもない、恐れそのものに自分が巻きつかれているように思えた。
わたしは気づいていたのだ。元の世界に引き寄せられていることを。
 
不意に暗がりが薄らいだ。どれほど経ったのか。短く感じられたその間、わたしは意識を飛ばしてしまっていた。辺りを見回す。やはり、いるのはあの列車の中ではなかった。
横座りするわたしの脚に、なじみのある畳の感触が届く。動かした視線の先には、部屋にめぐらした鴨居と障子が見えた。どれほどか閉め切られた部屋の中は暑く、その中で、場違いな仮装のような姿のわたしと、外套を着こんだままの相馬さんが横たわっている。
何よりも、考えるより先に身体が動いた。わたしはすっかり寝込んでいるような相馬さんの外套を緩めた。首元も寛がせ、出来るだけ楽な姿勢にしようと仰向けに寝かせた。とても暑い。彼の衣服を脱がせないと、寝ている間に脱水でも起こしそうだ。窓を開けようと思い、止めて、壁のエアコンを点けた。程なく冷えた空気が漂い始める。
障子を開けた。その先はガラス戸のある縁側になっていた。草が伸び放題の広くない庭の様子が、入って来る街灯の明かりで知れた。まだ夜は続いている。空を見上げた。そこには満月も列車の煌めきもなく、小さな星が散らばって見えるだけだった。
それを見た途端、わたしの目から涙があふれた。戻ってしまった。戻りたくなどないのに、どうして、この地にわたしはいるのか。
膝を抱え、ひたすら泣く。考えも何もない。涙は止まらなかった。全てを失う感覚を、わたしは知っているはずだった。しかし、過去のそれとは別種の喪失感が、襲うようにわたしを包んでいる。
どうしよう。
どうしよう。
方便などわからない。ある訳もない。
だから、わたしは震えるように泣くばかりだ。
泣き疲れて、わたしは膝に突っ伏し、いつしか悲しみを放棄した。絶望的な今を忘れたかった。瞳を閉じれば、じんわりと熱い。そう感じてすぐ、寝入ってしまった。
 
目覚めたのは、自分を呼ぶ声に起こされてだ。目を開ければ、辺りは明るくなっていた。そしてひどく寒かった。
短い電子音がし、エアコンが切られたのがわかった。上着を脱ぎ、シャツも半ば脱いだ相馬さんが、驚きを顔に貼りつけたまま、わたしをうかがう。
「あんたまで、こっちに…」
わたしは頷くだけだった。それしかできなかった。すぐに涙が頬を伝う。寝起きの、泣き腫らしたわたしの顔は、さぞみっともないだろう。そんなことを思いつくゆとりもない。
「ああ、可哀そうに…」
相馬さんは、わたしの肩に手を置いた。撫でさするようにし、帰る方法はないのか、と訊く。わたしは重い首を振った。あれば、これほど惨めに泣いていない。途方に暮れていない。
どれほどかそうしていて、相馬さんは立ち上がり、障子を端まで開け、庭へのガラス戸を開けはなった。網戸越しにふわりと外気が入る。
その生暖かさと匂いに、ああ、夏なのだな、と気づく。こちらは今、夏なのだ。
それ以上の思考はない。夏の思い出を引き出すこともなく、わたしは漫然と絶望に浸っていた。短い睡眠という小休止を取ったせいで、余計にそれが重くのしかかるように思えた。身動きすらできず膝を抱え、まぶしく朝日が照らす夏の庭先をただ眺めている。
次に意識が向いたのは、再び相馬さんの声だった。気づけば、彼は着替えており、ポロシャツと脛の出る短いパンツを着ていた。
「死んだ妻のものしかないが、取りあえず、これに着替えたらどうか? 風呂も入れたし、浸かってきなさい。さっぱりすれば、少し楽だろうから」
自動的に彼の差し出す衣服を受け取った。指し示す方へ顔を向ける。風呂のある位置らしい。礼を言い、立ち上がった。ここにきて、一晩コルセットで締めつけられた身体を窮屈に感じ始めた。小さな不快を意識することが、もうこちらの生活の始まりだ。わたしはそれを、嫌というほど知っている。
苦労して衣装を解き、湯に浸かった。温かいその中で、わたしはぼんやりとまた泣いた。単なる悲しみの反応ではなく、あの世界と引き離された現実的な切なさと苦しみだった。
風呂から出れば、借りた服を着る。未使用の袋に入ったままの女性の下着と、これは何度も着られただろうサッカー生地のワンピースだった。それを着、濡れ髪を結っていたピンを使いまとめた。
裾の長い非現実的な衣装を手に、わたしは相馬さんの姿を探した。小さくテレビの音がする。引き戸が開いたままのそちらへ行くと、彼が食卓の用意をしてくれているところだった。わたしに気づき、
「大したもんはないが、座りなさい」
わたしはその場に衣装を落き、彼の手から皿を取った。「やります」。それに抵抗はなく、わたしは隣りの台所から、用意されたパンやコーヒーなどを運んだ。
朝のニュース番組を流すテレビからは、今日の日付と時刻が聞こえてくる。座って、コーヒーを手にした相馬さんが、ぽつりと、「あれから十日か…」と言った。初めて彼があの列車に乗ってから、十日経つのだろう。実際、あちらの世界で過ごしたのは、ほぼひと月だ。それがこちらでは、こんなにも短い。まるで夢でも見ていたようなあっけなさだった。
食の進まないわたしへ、彼は食べるよう勧める。「腹が減っていたら、ろくなことを考えんからな」。
わたしが自殺でもするように見えるのかもしれない。ちょっと思う。死ねたらいいのに、と自棄に思った。
「わたしはこれから、園の方に出ないといかんから、あんたはここにゆっくりしていたらいい。昼頃顔を出すから」
「園…?」
そうだ。相馬さんは経営する保育園の園長だと言っていた。仕事があるのだ。時計は七時半を少し回った。出勤にしては早いが、留守にしていた間のことが気にかかるのだろう。わたしがまだ食べ終わらない間に、彼は立ち上がった。
皿を手にするのを、わたしは止め、
「置いておいて下さい、やりますから」
「そうか? また来るからな。少し休んだらいいぞ」
「ありがとうございます」
相馬さんを見送り、わたしはテレビの音を聞きながら、食事を取った。ロールパンとコーヒーだ。味がない。それでも機械的に喉にやった。
その後、テーブルのものを台所へ運び、洗った。シンク周りには洗剤やスポンジ、ふきんを干したものが、雑多に並んでいる。不潔な感じはしないが、どこか男性的だった。彼はわたしに着替えを渡すとき、「死んだ妻のもの」と言っていた。一人住まいなのかもしれない。
何となくその辺りを片づけ、また食事を取った部屋に戻る。テレビが鳴り続けていた。それを消し、顔を上げれば、壁のカレンダーに目がいった。現在の西暦を知り、愕然となった。わたしがあちらに二度目に渡ってから、七年が過ぎているのだ。
胸が変に高鳴った。わたしは、五年ほどもガイと共にいた。それが、こちらでは六年になっている…。
いつしか唇に指をあてていた。時間の流れが違うとガイは言っていた。あちらで過ごしたひと月が、戻ればほんの十日になってしまう。わたしの場合もそうだった。
だから、こちらの時間が、あちらより緩やかなのだと思っていた。しかし、カレンダーはその逆を示している。あちらの約五年が、ここでは七年に変わった。時間の流れ方が異なるのなら、逆もあるのかもしれない…。
考えて答えの出ることではない。それでもカレンダーから目が離せない。やや頭が痛むまで数字の並ぶのを見つめ続けていた。
所在なく座った。衣裳をたたみ、思い出して、初めにいた部屋に戻った。和室の六畳間で、普段使われない部屋なのか、家具は何もない。部屋の隅に目当てのものを見つけた。ここに帰る相馬さんへの餞別に用意した小箱だった。もう贈る気持ちは失せていた。包装を解き、中の蓋を開けた。自分のイニシャルを入れたハンカチの上に、ガイのカフスと数本の煙草、そして、ノアの小さな銀のスプーンが入っている。
目にするだけで、涙が浮かぶ。彼へのお別れの品が、こんな今、せめて目にできるガイへのよすがに変わってしまった。
なんて皮肉なんだろう。
涙を流れるに任せた。たたんだ衣装の上に小箱を置く。そのとき畳に懐中時計が転がっているのを見つけた。衣裳のポケットに入れたものが、何かのはずみで転がり出たのだろう。ハンカチや口紅を入れるための小さなものを、わたしは衣装の注文の際に頼む。作りが浅いため、中身がこぼれ出やすい。
大事な品をうかつなことで、粗略に扱ってしまった。慌てて拾い、手のひらに収めた。元々、これはガイが持つべきものだったのだ。それをわたしが不相応に欲しがり求め、弄んでいた。今の状況は、その罰が下ったようにも感じられる…。
持つべき人が持たず、その資格のないわたしが思い上がってした振る舞いが、この事態を呼んだのかもしれない。ガイだったら、こうはならない。送りに列車に乗り、共に引き寄せられ、別な世界に閉じ込められてしまうなど…。
わたしのガイへの甘えと、それを許した彼のわたしへの甘さ。彼にはこんな事態を想像できただろうか。もしかして、その懸念があったから、先にわたしへ確認をしたのかもしれない。「未練はないか」と。
それに、わたしはきっぱりと否定を返した。しかし、自分でも測れないほどの小さな心残りがあり、それがわたしをこちらに同化させてしまったのではないか。意識すらできない、日々の中の多くの意図の一欠片として。
 
どうしよう。
 
頭は繰り言であふれる。
 
どうしよう、
どうしよう…。




             

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